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自信のないナルシスト
重ね重ねの質問です。 一言で言えば「自分に自信が持てない」ということですが、 そのような質問は過去にいくつとなく投稿されています。 「自信がなくて困っています」「どうすれば自信をつけられるでしょうか?」・・・etc 私もそこまでは同じですが、困っているのは「自信のない自己愛性人格障害」ということ。 これは言い換えれば「自分をキライなナルシスト」と言われているのと同じです。単に「自信が持てない」人ではなく、精神科医やこのサイト、また自分でも自信はないけど気位は高いというふうに指摘され、或いは自覚し、 何故こういう風変わりな現象になるのか当惑しています。 自信のない人ならその方がいっそ気が楽ですし、 自信を持つ方法もあるでしょう。 しかし自信のないナルシストと言われている自分は自己イメージを未だにつかめず、私は誰?の宙吊り状態です。 いい加減にしろよと思われているかも知れませんが、 何かアドバイスありましたらお願いします。 カウンセリングも考えています。 ただコストの面で継続的相談は不可能ですし、 過去の経験から、「このカウンセラー、凡庸だな」と感じてしまうことがあるのです。
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他人が好きなことをしている姿を見たり、てきぱきと仕事をしている 姿を見たりするとなんて自信があるんだろうと思うことがあります。 でも実際には何かをしている時にその人は自信があるからしているなんて 思っていないはずです。 おそらく、単にやりたいことを気持ちよくやっているだけのことだと思います。 でも、自信があるのと質問されれば自信があると答えてくれると思います。 なぜならそれ以外に答えようがないからです。 何かに躊躇するには何か理由があるはずだと思います。 やってみたいのに出来ない理由としては自信がないというのは 打って付けの言葉かもしれません。 自分が何かをやろうとしない理由は、それをやることによって どのような結果になるか判らないからやらないだけだと思います。 自信がないという言葉を使うことで、自分の本質の問題を見えなくして しまっているのかもしれません。 自信がなくたって何かを始めても何も問題はないのです。 でも自信がないから自信が持てたら始めることができるとしてしまうと いつまで経っても自信などというものは一向に自分の中に現れないのです。 そして、いつまで経っても同じ自分のままでいるだけです。 他の方の回答へのお礼で >内面の安定を得てからでないと、という思いが悪循環を招いているのかも知れないと思います。 とありますが、そのとおり売りだと思います。 内面の不安定さを楽しみ、外の世界の不安定さを楽しむことで心は意外と 安定するのだと思います。 それがどんなことにでも楽しめる自分になることだと思います。
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仏陀は自分の心をよく観察した。 最も心を理解した一人である。 這い松のように生きたもの 生き抜いたものだけが解る領域というものがあるのだ。 それが光を放つときがあるのだ。 歌にある 今だ発見されざる 地上の星 自分の腹の底から湧いてくるものがないうちは こんなところで相談しない方がいいかもしれない。
お礼
>自分の腹の底から湧いてくるものがないうちは 先のお礼で軽口を叩きましたが、半分軽口、半分以上本気です。 私は切実に解決の糸口を探っています。 再度のご回答ありがとうございました。
回答になっていないかもしれませんが少しは関係があるかと思い書いてみます。よく見る自分(評価する自分)と見られる自分(評価をされる側の自分)という言い方がされます。普通自信があるとかないとかないとか言っているのは見られる方の自分です。ところが自己愛というのはどうも見る側の自分が対象になっているのではないかと思いました。私は見る側の自分というのは正体は絶対わからないものだと思っています。つまり見る側の自分については誰もわからないので代用として見られる方の自分を自分としているのが普通の人だと思います。誰でも見るほうの自分には自信があるはずがないわけです。だから自己愛がによって自信を失うのは分からないものの信頼性などことばの上からも矛盾そのものだと思います。そういう意味で「自分探し」という言葉には注意したほうが良いとおもいます。これは暗闇とは何か知りたいと思って明かりをつけて確認しようとするようなものだと思うからです。
お礼
お礼が遅くなってすみません。 >暗闇とは何か知りたいと思って明かりをつけて確認しようとするようなものだと思うからです。 とても面白い表現ですね。 ご回答ありがとうございました。
- hakobulu
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#2です。 >自己を容認できる自我=自信を得るにはどのような方法が考えられるでしょうか? :個別の状況を把握することは対面であっても難しいことであり、あくまで素人の直感が混在した無責任な回答にならざるを得ないことを最初に申し上げておきます。 一般論になりますのでそのおつもりでお読みになってください。 私たちは死(=無)の状態からこの世に生を受けるわけで、生まれてくるという現象自体、人間が生に対して能動的な属性を保持していることの証明だろうと思います。 つまり、「ありのままの自分を認めること」は、本来属性として人間に備わっていたもののはずだということです。 なぜそれを見失うのかというと、それは超自我に関係していると思われます。 理由は不明ですが人は本能や自我だけで生きることに満足しません。(少なくとも社会的には) 大なり小なり精神の高みを目指そうとします。 胎内に10ヶ月もいることからも推測できるように、人は肉体的には過剰に保護を必要とする脆弱なものしか持ち合わせていません。 本能としての根が定着しないうちに樹高(超自我)だけがどんどん伸びていき、結果アンバランスが生じるのが神経症状として現われるというのが典型的なパターンではないかと考えます。 自我の芽生え(あくまで芽生えですが)は1歳半ぐらいからと言われていますが、超自我の芽生えとでもいうようなことは3歳ぐらいからと考えられています。 この超自我的精神性は主に両親の躾、すなわち「禁制」によって獲得されていくのが普通でしょう。 それまでエス(本能)、あるいは自我一辺倒だったものに、善(とされるもの)や悪(とされるもの)の基準が植えつけられていくわけです。 ただ、この両親からの「刺激」が不適切であった場合(無論、完全に適切な刺激などというものは存在しないわけですが)、禁制すること自体が善だと勘違いする神経回路が構築されることもあり得ると思われます。 なんらかの神経症(生体のアンバランス)の根はここにあると私は思うので、「過去は過去として切り離す」ということが肝要になる場合が多いのではないかと考えます。 そのためにはまず、否定されなくてもよい自分を不必要に否定され、あるいは理不尽に拒絶されてきたという事実を明確に自己認識することです。 心理的に(おそらく)抑圧されている過去に対して呪詛を吐き出す、ということになるでしょうか。 これは抑圧されているエスの解放ということもありますが、同時に過去の出来事を明確化することによって、その事実が読んで字の如く過ぎ去ったものであることを改めて認識させることにもつながります。 通常、不快な経験は無意識に抑圧されやすく、抑圧されているということはそれに強く固執していることになります。 そして、固執しているのが過去の事柄である以上、固執というものは退行的、すなわち幼児的であると言わざるを得ません。 この固執というのは、いつまでもエスの状況に留まることによって自我の発育を阻害しようとする無意識の行動ということもできるでしょう。 この固執を解除することによって、今という現実に目を向ける自我が勢力を盛り返すことを期待するわけです。 繰り返しますが、この内容には学問的な裏づけはありません。 独学と単なる興味の範疇を出ているものではありませんから十分ご留意くださるようお願いいたします。 「>図々しくて・・・」ということは全くありません。 推測交じりで自分の興味本位にloser_blueさんに対するコメントを偉そうに述べ立てているわけですから、謝罪する必要があるとすればむしろ私のほうでしょう。
お礼
>推測交じりで自分の興味本位にloser_blueさんに対するコメントを偉そうに述べ立てているわけですから、謝罪する必要があるとすればむしろ私のほうでしょう。 いえ、そんなことはありません。 専門家の頼りなさというものを私は身を以って体験しています。 それに最終的に自己を救済するのは他でもない自分自身です。 お付き合いくださって本当に感謝しています。 >私たちは死(=無)の状態からこの世に生を受けるわけで、生まれてくるという現象自体、人間が生に対して能動的な属性を保持していることの証明だろうと思います。 「生きているということ自体」と言い換えることも出来ますね。 >禁制すること自体が善だと勘違いする神経回路が構築されることもあり得ると思われます。 私も自分には反抗期というものがなかったと思いますし、 意図してそうしていたわけではなく、いつも「いい子」であったようです。 いつの頃からか「抑圧のメカニズム」の中に組み込まれていたように考えています。 だから親はもとより、人に口答えできない性分になってしまったのかと・・・ >否定されなくてもよい自分を不必要に否定され、あるいは理不尽に拒絶されてきたという事実を明確に自己認識することです。 「否定されなくてもいい自己」・・・「理不尽な拒絶」・・・ 私の(少なくともこれまでの意識は) 「否定されるべき自己」「当然の拒絶」という自意識の塊です・・・ 冒頭及び末尾の断り書きを承知しつつ、それでも結局私の現状は気の長いメンテナンスが必要なのかなと思ったりします。 所謂正規の「精神分析」が週4回のセッションを前提としている以上、 とても上記のような治療は不可能です。 (そもそも可能な人がどれだけいるのか・・・) 気持ちとは裏腹にこれ以上hakobuluさんの足を止めさせておくことは言えません。 お暇な折りお気が向かれましたらご自由に書き込んでください。 再三のお答え重ねてお礼いたします。
補足
例えばです。 ここに同じような質問を再三投稿していますが、 仮にある人が「何度聞いても同じこと」とか「いい加減同じ質問ばかりするのは止めてください」というような「回答」が書き込まれたとします。 するととたんに私は「青菜に塩」。 直ちに締め切って逃げ出してしまうでしょう。 これはわたしの弱さです。 自分の行為に正当性がないという自信のなさです。 その「自信のなさ」がたまらないのです・・・
自分の価値にきがついてないだけなのでしょうか。 もしくはまだ釜から出される状態に至らない。 醜いアヒルの子が飛び立つに至らない。 神曲における出口がまだ整っていない。 貴方のことはよく解りませんが。 日向を向いてすくすくと素直に有るのもいいですが、這い松はまた生命力による芸術かと。 芸術とは何か。 芸術たらしめるのは誰か。 後年人としての味の深さはどちらがあると思われるか。 カウンセラーのことはよく解りませんが 凡庸さの中に珠玉を観られるようになれば。。。
お礼
先の私の質問を踏まえてのご回答、感謝します。 ・・・このように言われると、なんと答えてよいのか当惑します。 >自分の価値にきがついてないだけなのでしょうか。 自分の「価値」ですか・・・ 気が付いていないのか。 或いは存在しないから気付かないのか? >日向を向いてすくすくと素直に有るのもいいですが、這い松はまた生命力による芸術かと。 仰る通りですね。いえ、私のことではなく「這い松」のことですが(苦笑) 「盆栽」だって、いろんな枝振りや屈曲したその佇まいが鑑賞者の興をそそるのだと思います。 >後年人としての味の深さはどちらがあると思われるか。 本当にこう言われると恥じ入るばかりです。 味のある、深みのある人になりたいと願いつつ、 「ヒマワリ娘」と対照的に、努力・研鑚を厭い、徒に怠惰な日々に流されて・・・ 寝床の中で「花の色は移りにけりないたずらに・・・」等と嘯き・・・ いい気なものです・・・ お言葉ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
素人の私見ですが、特に矛盾しているということにはならないかもしれませんね。 精神分析的視点では人間の精神性を、 エス(本能)(快・不快) 自我(損・得) 超自我(善・悪) の3層に分けて考えることがあるようです。 赤ん坊はエスのみを基準にして行動しますが、やがて自我が芽生え、さらに身近な大人(主に両親)の禁制によって超自我的判断を身につけていくようになります。 ナルチスムは自己愛と訳されますが、この愛を量的に表すのにリビドーという言葉が使われたりします。 リビドーは人間が生まれながらにして持っている性的(あるいは生的)エネルギーと解釈することが可能です。 通常の場合、リビドーは他者に纏綿されることによって心理的満足を得るようになっています。 この纏綿が拒否されたり、あるいは纏綿する相手が存在しない場合にはリビドーは自己に回収され、これをナルチスムの原型と呼んでよいと思います。 つまり、ナルチスムというのは本来発揮されるべき方法で発揮できなかったリビドーが退行的に自己回帰したもので、その意味でエス的すなわち本能的(すなわち幼児的)自己愛ということができるでしょう。 ナルチスというのはギリシア神話の美少年の名前ですが、彼は水に映る自らの姿に見惚れるあまり溺れ死ぬという運命を辿ります。 これに対して自信というのは自我の領域での、つまり、自分を利するため、あるいは自分を防御するための確信的力の存在を指すものと言ってよいのではないかと思います。 「自信のないナルシスト」とは、現実面における自我は弱いがエス的には強い自己愛を保持している人、と言うこともできるでしょう。 「>自信はないけど気位は高いというふうに指摘され、或いは自覚し」 とのことですが、これは、 自我が弱いために現実に適応する能力は小さいが、超自我的に精神の崇高な発展が遂げられている状態、と言い換えることもできます。 人間は、好き好きがありますから一概には言えませんが、本能・自我・超自我の3層のバランスがとれている状態が理想的(=健康的)と言われます。 ただ、「ちょうどよい」バランスというものはありえないので、必ず何かが多かったり、あるいは少なかったりします。 その意味で完璧な人間というのは存在しません。 そのわずかな差異をもって「>風変わり」とする風潮が未だあるのは、人類の進化がその程度の段階で停滞しているということでもあるのでしょう。 心理の専門的知識があるわけではないのですが、一般的に「自信がない」という場合は、主に自我の発達が何らかの原因で阻害されていると考えてよいのではないかと思います。 自己愛性人格障碍というのは「人間関係に障碍をもたらすほど自己愛が強い症状」と解釈することが可能で、自己愛が必要以上に強調されている状態と言えるでしょう。 なぜ必要以上に強調されるのかといえば、そこまでしなければ自分が認められないのではないか、という怖れゆえではないかという気がします。 つまり、自信がないので自己愛が過剰になるということになり、矛盾した症状とは言えないように私には思われます。 ただ、超自我が(他の2要素に比較して)肥大しすぎていても自信がない心理になることはあるでしょう。 この場合は、本能としての根や茎としての自我が弱いまま、樹が高く生長してしまったために心理的バランスが悪くなっているという解釈が可能になるでしょう。
お礼
長文かつ詳しく判り易い回答を感謝します。 つまり行き場のないリビドーがUターンして、 それが「自己愛」となって現れるのですね。 なんだか悲しい話しです。 でもそれはよく分かります。 あまり人から愛されたり、容認されたり、誉められたり肯定されたりという記憶がありません・・・ >一般的に「自信がない」という場合は、主に自我の発達が何らかの原因で阻害されていると考えてよいのではないかと思います。 自我というものが、 >自分を利するため、あるいは自分を防御するための確信的力の存在 と言われるものであるなら、それは非常に弱いと思います。 >つまり、自信がないので自己愛が過剰になるということになり、矛盾した症状とは言えないように私には思われます。 この説明はよく分かります。 昔の言葉にありますね、 『自惚れを、やめれば他に惚れ手ナシ』・・・わたしはこの言葉を自分のことのように感じてきました。 エスという根源的なものでも、超自我も、自我に比べて無意識的な領域に属するものですよね。 いずれにしても肝心の自我と言うものの未発達、未成熟が現在の私の状況かも知れません。 なんだか無料でカウンセリング(精神分析)を受けたようです。 感謝しています。
補足
お答えを読んで感じたのは、結局私の問題は、3者のアンバランスだと言うことだろうと思います。特に他の2者に比しての「自我の未発達」だと。 3者の「完全な調和」ということがありえないとしても、 もう少し自己を容認できる自我=自信を得るにはどのような方法が考えられるでしょうか? カウンセリングや精神分析を受けるのは先ほども書きましたように 私の経済状態では不可能です。 「ありのままの自分を認めること」それは皆に言われることですが、 皆さんはそれが出発点のように言いますが、私にはそれは「終着点」だと思えるのです。 図々しくてすみません・・・
自分も似たようなものなので一言述べさせていただきます。 確かに「自信がないナルシスト」ということでは周囲から 評価は悪いです。 ただ、何か自分で打ち込んでやることがあればそれで いいのではないでしょうか・・・?それに自信がないのならば 自信がつくまでやるだけです。ぶっきらぼうですみません。
お礼
>ぶっきらぼうですみません。 いえ、そんな風に感じませんでした。 そうなんですよね。 自分の内面ばかり見ていないでもっと外に目を向けるべきだとは思います。 内面の安定を得てからでないと、という思いが悪循環を招いているのかも知れないと思います。 率直な御意見参考になりました。 ただちょっと「似たような人」ということで、 lilykurausさんがなんで「評判が悪い」のか、興味が湧いています。
お礼
>自信がないという言葉を使うことで、自分の本質の問題を見えなくして しまっているのかもしれません >内面の不安定さを楽しみ、外の世界の不安定さを楽しむことで心は意外と 安定するのだと思います。 本当にご指摘の通りだと思います。 やはり「ありのままの自己を容認する」ことは出発点であって、 終着駅ではないのだと思いました。 いつも適切なご回答感謝しています。 ありがとうございます!