マルクスの労働価値説がなんやかんやで支持された理由って・・・?
マルクス資本論の体系において、異なる使用価値を持つ諸商品同士が商品として――貨幣を媒介にするか否かにかかわらず――交換されうるのは、それらの商品それぞれが唯一の同質的なもの、すなわち抽象的人間的労働を含んでいるからだ、と説明されます。
しかしながら、現実の交換の領域では、ある人が手に入れる商品の中に、交換で手離す商品と同質的なものが含まれていようがいまいが、それぞれの人間の利己心と必要にしたがって交換は行なわれるわけですよね。その結果として、大量生産され、競争に晒される商品に関しては、ごくごく当然のこととして、非常に手間のかかった(大量に労働が投下された)商品の価値が相対的に手間のかかっていない商品の価値に比べて高くなります。このことは労働価値説を用いるまでもなく、事実である上に誰でも出来る推論です。
当然のことながら土地その他の資産やブランド品の取引きでは成立しない原理であるし、労働生産物に限ってもすでに出来上がった平均的な価格体系を後付で大雑把に説明する原理にしかなりえません。げんに多くの批判がされてきたとは思うのですが、これほど批判のしやすい理屈があれほどまでに支持された理由は何なのでしょうか?。「交換されあうもの同士が共通の尺度で測られなければならない」理由の妥当性が突き詰められて議論されたことはあったのでしょうか?。
マルクス経済学は労働者の視点に立った体系であることを自認する学問だとはいえ、労働全収権論を主張するために労働価値説を採用したなどと言えばマルクスは激怒するわけですよね。でも労働全収権論以外に理由がないのではないかと思えるほどに論理的な弱さがあります。労働価値説など用いなくとも、階級社会の弊害や資本主義の暴力性を批判することは可能です。労働力の価値と労働生産物の価値の乖離(剰余労働)というマルクスの専売特許を披露するため・・・だとしたら悲しすぎる理由です。
正解がはっきりする質問ではないかもしれませんが、これほどまでに破綻した理屈を学者や活動家が必死に守りぬいた理由の真髄部分は何だったのか?・・・ということが疑問になっています。マル系をガチでやっている方に面と向かって聞くと怒鳴られるか煙にまかれるかしそうなので、この場をお借りして、ガチの方もそうでない方も、見解をお聞かせいただければと思います。