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萩尾望都「トーマの心臓」のアガペーについて
萩尾望都「トーマの心臓」のテーマは「神の愛」(アガペー)と「赦し」だと自分は思っているのですが、キリスト教に関して全くの無知なために、登場人物の感情(赦しや愛についての解釈)が私には難解で理解できませんでした…。 本当は漫画のカテゴリーが正しいかと思ったのですが、どちからというと宗教的な質問だと思ったのでこちらで失礼します 1.何故、トーマの死がユーリを救うことになるのでしょうか? (キリスト教思想で「罪のある人間はイエスの死(犠牲)によって開放される」というのがあったと思いますが、この思想がまず私には謎です。普通、自分のため犠牲になったらその重さで更に苦しみそうですが…。) 2.最後の方でユーリは「彼はいっさいを赦していたのだと 彼が僕の罪を知っていたかいないかが問題ではなく ただいっさいをなにがあろうと許していたのだと~」と言ってますが、何故トーマに許されることがユーリの救いに繋がるのでしょうか? 3.「トーマを愛することでしかユーリは救われない」という言葉を聞いたのですが、それは何故ですか? 4.エーリクの役割ってなんでしょうか?ユーリをトーマの真実へ導くためですか? 5.校長が倒れた時、オスカーの元へユーリが会いに行き「許ていた?」と聞いてますが、この「許し」って何でしょうか?エーリクがユーリに対して許していた?何を許したのか? 似たような質問が多くて恐縮ですがよろしくお願いいたします
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はじめまして。 「トーマの心臓」は中学時代初めて読んで以来、ベスト1の座を譲ることのない大好きな作品です。今でも青春時代の啓示的な作品で手放すことができません。当時同級生と同作品の様々な「何故?」について討論したこともありました。 おっしゃる通り、同作品のテーマは「愛」「赦し」だと思います。また、キリスト教にありがちな「罪と罰」もテーマとなっています。ただこの「愛」は神の愛に限らず、人間同士の崇高な愛とも通じるところがあると思います。現にトーマのような崇高な人間も存在します。真の愛とはこういうもの、つまり「赦し」だと教えている作品です。 ちなみに、No.1の回答は作品を読まれてない方の回答だと思われます。読まれた上での回答だとしたら、読解力・考察力に???の疑問がさらに生じます。 ご質問1: <何故、トーマの死がユーリを救うことになるのでしょうか?> No.1の回答の大きなミスは、トーマを神とみていることです。トーマは神として描かれているのではありません。むしろ、神の使者です。作品中でも「(極上の)羽をもった(極上の)天使」として描かれています。 このご質問の答えは、「ユーリの代わりにトーマが死んでくれたから」です。作品中にも出てくる「スケープゴート(生贄)」と呼ぶには、彼の死は崇高過ぎます。彼の死は、ユーリの負を背負うために自らの生(正のオーラ)を投げ出したのです。 当時、ユーリの精神、心は死んでいました。上級生サイフリートらによって意志を屈辱的に曲げられたことへの敗北感、力の前にたやすく精神を捻じ曲げてしまったことへの罪悪感、このトラウマは頭のいい少年にとっては、一生消えない心の傷となって、かつての彼(明るくて光に満ちた彼)を自分で「殺して」しまったのです。 一方頭のいいもう1人の少年トーマは、彼を愛しているがために、彼の「精神の死」にいち早く気づきました。トーマは両親に愛を注がれて育ち、愛に溢れている少年でしたから、愛を分け与えることに何の躊躇もしません。 「死んでいる」ユーリを「再び生かす」ためには、「何があったか知らないけど、僕は君を愛してるから、どんなことがあっても赦してるから、君を不幸にするものなんか気にするなよ、忘れてしまえ」なんて、陳腐な言葉では何の効力もないことも(却って逆効果になることも)、感受性豊かなトーマは知っていました。何故なら、ユーリの傷は「肉体的な死」に相当するくらい致命的なものであることを感づいていたからです。勿論傷の具体的な背景はトーマは知りませんでしたが、傷の深さはわかっていたのです。 彼の傷を癒すには、同じ傷・苦しみを背負ってあげることしかない、生きることの意味を再認識させるしかない、と悟った彼は、自分の命を投げ出すことで、ユーリに「生きることの喜び」「生の意味」を再発見させようとしたのです。 ご質問1-(2): <普通、自分のため犠牲になったらその重さで更に苦しみそうですが> と同時に、何故その人が私のために死んで、私は生きているのか、その意味を自問すると思います。例えば、自分を助けようとしてある人が犠牲になった場合、自分が生きている意味を見つめ、将来の生き方に積極的な指標を与えるはずです。 ご質問2: <最後の方でユーリは「彼はいっさいを赦していたのだと 彼が僕の罪を知っていたかいないかが問題ではなく ただいっさいをなにがあろうと許していたのだと~」と言ってますが、何故トーマに許されることがユーリの救いに繋がるのでしょうか?> これは、人間の愛の根本的なテーマだと思います。この部分を「神の愛」ととると、No.1の回答のようなとんちんかんな回答になってしまいます。 この世でも崇高な愛とされる「母の愛」、母親はわが子がどんな罪人であろうと赦しています。わが子が世界中の皆に嫌われても、自分だけは子を愛しています。 それは、母に限らず、夫婦でも、恋人同士でも、友情でも、そんな「崇高な愛」は存在します。この作品のトーマの愛は「同性愛」といった陳腐なテーマに偏ったものではなく、崇高な「人間愛」がテーマになっているのです。「神の愛」ではないと回答の最初に述べたのも、そういった背景からです。 愛とは、相手の全人格を受け入れることです。相手の欠点も全て「赦す」ことです。「赦し」とは「しょうがないわね」といった母の優しいつぶやきに似ています。トーマは、ユーリの全てを赦し=受け入れ=彼を認めていたのです。トラウマをかかえ、完全に自信を失った者にとって、「現在の自分をありのままに受け入れ認めてもらう」ということは、かけがえのない救いとなるのです。 ご質問3: <「トーマを愛することでしかユーリは救われない」という言葉を聞いたのですが、それは何故ですか?> 誰の言葉ですか?オスカーかバッカスでしたっけ?この部分は正確には「トーマを愛することでしか(今の)ユーリは救われない」ということでしょう。 トーマの死に背を向けている間は、ユーリは自分の生の意味を見出すことはできないからです。トーマの死を真摯に見つめること、それは、ユーリ自身の負の部分を真摯に見つめることにもなります。トーマを愛することとは、自分の傷を愛し、心の傷を負った自分をあるがままに受け入れ、ひいては自分を愛することになるのです。それは、結局罪悪感を消すことになるのです。 ご質問4: <エーリクの役割ってなんでしょうか?ユーリをトーマの真実へ導くためですか?> おっしゃる通りです。「トーマの真実」ひいては「自分の生の真実」を悟るための案内役として選ばれたのです。(恋は成就せず気の毒なエーリクちゃんですが、、、) 彼は両親を亡くし、家を失うという不幸に見舞われながらも、彼の背中には黄金の天使の羽がついています。彼の中にみなぎる生への活力、生きる意志は、それを全く失くしたユーリを、そちらの明るい世界へ引きずり込む引力を持っています。 おそらくトーマに代わって神が使わした、ユーリを守る第2の天使だったのかもしれません。エーリクのクライマックスの言葉「僕の翼、君にあげる」はトーマの死の意味を悟らせる、重要な鍵となっています。 ご質問5: <校長が倒れた時、オスカーの元へユーリが会いに行き「許ていた?」と聞いてますが、この「許し」って何でしょうか?エーリクがユーリに対して許していた?何を許したのか?> これは、「オスカーがユーリの罪を許していた」ということだと思います。 この言葉の直前に、オスカーが「僕が(校長・ユーリを)愛してることに気づいてくれることを望んでいた」といった内容の言葉を発しています。その後、 ユーリ:「許していた?」 オスカー:「うんユーリ。ぼくは待っていた、それだけ」 と続きます。 オスカーが待っていたのは、彼がユーリを許し愛していたことに気づいてくれることを言っています。それは、ちょうど、彼が実父である校長を許し愛していたことに気づいてくれることを待っていたのと同じように、と言いたいのです。ちなみに、彼のユーリへの愛は深い友愛です。 以上です。なかなか奥の深い作品なので、論じ始めるときりがありません。 ご参考までに。
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- kigurumi
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調べてきました。 http://hiyori822.blog49.fc2.com/blog-category-6.html 1.について トーマの遺書を読むと、2度目の死をトーマは回避しようとしたと思えます。 従って、「あなたのために死ぬ」と遺書を残して死ぬということは、自分が肉体的に死んだあとも、他人にその人の記憶の中では生き続けるから」という根拠に元づいた自殺。 キリスト教の場合、人の生死は神が定めるのであって、人間が勝手にそれをやってはならないとしています。 自殺など最も重い罪です。 ユダヤ教の律法にも、他人の罪のために本人でもないものが代わりに贖ってはならない と厳しく禁止しています。 でもキリスト教ではイエスが人の身代わりに死に臨んだことが褒め称えられています。 矛盾しているか? いいえ。 何故ならキリスト教の世界では、イエスは人間じゃないんです。 神です 神。 誰からも支配されないので、なんでもOKの神なんです。 だから人間に対する罰則の影響は受けない。 従って イエスは神という前提でのみ、人の罪を身代わりに背負って死ぬことが許される。 トーマの心臓で、トーマの自殺を正当化するには、物語の中でトーマがこの世を創造し、人間を創造した神自身であったということを描かなければなりません。 恐らくこの作者はキリスト教の基本を理解しておらず、神と人間を同一視してしまい、イエスを人間として間違えた捕らえ方のまま、神の領域を人間でも可能だとして作品を作ってしまったのであないかと。 作者の手痛い大きなミスです。 おっしゃるとおり、この遺言では、救いではなく呪いになっています。 しかもとても利己的な感情に発する呪い。 相手を永遠に自分だけのものとするために自殺をした。 恐ろしいものがあります。 そして哀れ・・・・・。 そこまで思いつけていたんでしょうね。 尚、カトリックでは同性愛はとても重い罪です。 2. 調べてみましたが、トーマはユーリが何故落ち込んでいるのか全く理由がわかってはいなかったようです。 自分がユーリに愛されるためには、自分が一番大事だと思うものをユーリに捧げることで愛の証をしようとしたのだと思います。 それほどまで愛していたってわけですね。 何故トーマに許されることが、、、かといいますと、作者の勘違いが原因。 イエスを人間だと思っており、人間であるイエスが可能なので、トーマも可能だとしてしまったから。 トーマはユーリの落ち込んでいる原因すら知らずに、愛されるためにはどうしたらいいか しか眼中に無かった。 盲目的な愛。 3. これも作者はトーマを神だとしてしまったから。 作品の中においてトーマを創造主だという描き方をしていれば、成り立つことになります。 4. 仲介者という扱いじゃないでしょうか。 5. その場面は検索で見つけることができませんでしたが、ユダヤ教において罪が消えるということは、相手が許した場合に消えるとしています。 刑務所に入って服役しても罪は消えないが、被害をこうむった相手が「もうあなたに罪は無い」と認めた場合、罪が無いんです。 ご参考までに。