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筑紫という言葉の意味が変わったのはいつから?
筑紫は古代は九州全体を指していたが次第に北九州を指すようになった、とよく説明されています。 では、いつの時代から北九州のみを指すようになったのでしょうか?あるいは、筑紫という言葉が両方の意味を指せる時代もあったのでしょうか?
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ご指摘を受けましたので修正します。 前回の回答文。 『続日本紀』が成立した797年から『日本後記』が成立したとされる840年ころまでの間に、京の天皇家は律令国家としての自信を増し、一大勢力であった「筑紫」を北九州地方の一地名に、それも「筑前」「筑後」という地名にしてしまったということではないでしょうか。 確かにこの文章では、筑紫が筑前と筑後に分けられたのは、797年から840年ころまでの間と、理解されても仕方がありません。 しかし、前回の回答で「筑前」「筑後」の名は、702年にすでに出てくると言っています。 前回の回答文。 797年に成立したとされる『続日本紀』の大宝2年(702年)の項に「筑紫七国」の表現があります。 筑後、筑前、肥後、肥前、豊後、豊前、日向ですね。 このことを承知した上で、私が強調したかったのは、京の天皇家は「筑紫君」につながる「筑紫」という由緒ある名を消したい意向が強い。「筑前」「筑後」という無味乾燥な名で記録しておきたいという意思が感じられるということを書きたかったのですが、言葉足らずでした。 http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/daiou/002/da_002_04070801.htm
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- ringouri
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No.2です。 No.3さんの回答の中に、史料事実について、若干誤解があるようなので、簡単にコメントします。(最初の回答では煩わしいので文献を一切引用しませんでした。私の怠慢で申し訳ありません。) 『古事記』編纂までの時期に、「此の島(筑紫島)も亦、身一つにして、面四つ有り。面毎に名あり。故、筑紫國は白日別と謂ひ、....」とあるように、九州には四つの国があり、その一つが「筑紫」です。 (九州=九国、七国、よりも古い時代の認識です。) また、『風土記』逸文にも、”公望案ずるに、筑後國風土記に云はく、「筑後國はもと筑前國と合せて、一つの國たりき。... 因りて、筑紫國と曰ひき。後に、両の國に分ちて、前後と為す。」”とあるように、筑紫國(筑紫島ではない)→筑前國と筑後國です。これは、古代史を勉強している人には常識でしょう。 したがって、「『続日本紀』が成立した797年から『日本後記』が成立したとされる840年ころまでの間に、京の天皇家は律令国家としての自信を増し、一大勢力であった「筑紫」を北九州地方の一地名に、それも「筑前」「筑後」という地名にしてしまったということではないでしょうか。」という説明は、史料事実と整合しません。
お礼
なるほど、おかげさまでよくわかりました。 九州島全体が筑紫島と呼ばれていたのなら、人々は単に九州全体のことを「筑紫」と呼んでも不思議はないですよね?だから、「筑紫」は二つの意味(九州全体と筑紫国)を指すことができた、とは言えませんか?(証拠もなく想像だけで言っているのですが)
- goo-par1732
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続いて回答がないようですので、素人考えですが何かのヒントくらいにはなると思って回答します。 797年に成立したとされる『続日本紀』の大宝2年(702年)の項に「筑紫七国」の表現があります。 筑後、筑前、肥後、肥前、豊後、豊前、日向ですね。 797年といえば平安初期で、すでに薩摩・大隈両国は日向国から分離されて、九州は名のとおり9カ国になっていましたが、702年の記事なので、「筑紫七国」と呼んでいます。 律令国家の公式な行政区分である「西海道」とせず、わざわざ「筑紫」としていますね。 このことから当時は島自体を「筑紫」と呼び、その中の北部あたりに「筑前国」「筑後国」があったと言えると思います。 さらに「筑紫」を追い求めてWebで検索しますと、「延喜式 主税上・雑式によると、筑紫六国は・・」の記述があり、六国がどの国を指すのか知りませんが、10世紀始めころにも「筑紫」の名が使われていたことが分かります。 しかし、『続日本紀』に続く『日本後紀』では「筑紫」は皆無となります。 何か意図的に国史から「筑紫」を抹殺した感がありますね。 このあたりのいきさつは、ずっと以前に古田武彦著『失われた九州王朝』で読んだことがありますが、著者の攻撃的な記述になじめなかった記憶があります。 Webで調べた程度で大きなことは言えませんが、 『続日本紀』が成立した797年から『日本後記』が成立したとされる840年ころまでの間に、京の天皇家は律令国家としての自信を増し、一大勢力であった「筑紫」を北九州地方の一地名に、それも「筑前」「筑後」という地名にしてしまったということではないでしょうか。
お礼
素人とは思えないほどの回答に驚きを覚えました。すると、奥羽と出羽が後に分割されたのも、権力を分割するため?なんか筑紫のケースに似ているようなきがします。本当によくわかりました。やはり大から小、の解釈でいいんですよね?
- ringouri
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その説明が(通説かも知れませんが)間違っています。 もともと、筑紫という狭い領域があり、そこが「筑紫國」と呼ばれていただけです。それは九州を筑紫島と呼ぶ(古事記、日本書紀 編纂時期:7世紀後半~8世紀初)よりも前からです。 古代に(地域住民に直接認識されえない)大域地名が先にあって、それが小地域名になる、というのは、どう考えても不自然です。(近代・現代の情報化された社会とはまったく違うのですから。)事実、「筑紫が九州全体→一部地域に限定」という史料はありません。その逆を示すと思われる史料は幾つかあります。 九州が筑紫の島と呼ばれるようになったのは、九州全体を筑紫が代表するとみなされるような政治的背景あるいは文化的背景があったと推測できますが、史料が乏しいため、詳しいことは未解明です。 「九州王朝論」という説を聞かれたことがあるかもしれませんが、古代の筑紫の政治的位置づけを考えるうえで示唆に富む考え方です。(古代史学界では意図的に無視されていますが) なお、「九州」自体も経歴不詳の地名です。「九州は九ヶ国あったことから」というのは俗説です。ほんとうの起源はまだ分かっていません。「九州」は古代中国では天子が治める全領域という意味で使われていました。これも、研究していくと、面白いテーマでしょうね。
お礼
3さんとは正反対のご意見ということでしょうか。 貴重なご意見をありがとうございました!
- Pinhole-09
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古事記の神代の大八州生成の話に「筑紫の島(九州)は身がひとつで面が四つあり、筑紫国・豊国・肥国・熊襲という」とあり九の国、九州に分けられるまで、筑紫の島と呼ばれていたのではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。いつ意味が変質したのかもあわせてお聞きしたいと思いますが、貴重なご意見をありがとうございます。
お礼
こういう活発な議論は大歓迎です。とても勉強になります。