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教科書で感動する感性について

だいぶ昔の話ですが、私が高校のとき、倫理社会(哲学社会学)と数学の教科書で感動したことがあります。ヘーゲルの概説と微分公式の証明でどうしても涙が止まりませんでした。世界を力強くつかもうとする、人間の偉大さを感じました。また自然の姿や社会の法則を赤裸々にするというスリリングさと、そこに現れる自然の姿は、やはり創造主がいるのではないかと思うほど美しいものです。 質問は、こういうことに感動してしまう自分が、社会的一般感性に合わないないのではないかという危惧です。当時の印象としては、やはり周りの人たちが軽薄で、現実の損得しか考えていないような印象を受けてしまいました。その思いは今も続いています。 所属集団が悪かったのかもしれません。しかし私に芸術的感性とか才能があるとも思えません。たいしたことではないと割り切ることもできますが、しかしどうも気になる問題です。なにかご教示願えないでしょうか。

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  • larme001
  • ベストアンサー率44% (271/608)
回答No.5

全然おかしなことではないです。世の中はなんなのか?という本質に近付いたような気になることは、多多あります。もちろん、普通に人生をただ生活しているひとたちは、そんなに世の中の仕組みやなんやら考えることなどないでしょう。ただ、人間の本質などに近付けるような、何ともいえない感覚、そういう感性があること自体は、決して悪いことではありません。 こういう場合、はじめは自分の居場所がないかのような錯覚を覚えるでしょう。ただ、それはあなた自身がそういう物を議論する場にいないからにすぎません。ちょっと哲学書や論文などを調べてみればそういった感性により何段も上の考えを調べることは可能です。少なくとも、あなたがそういう知的好奇心を覚えれば、あなたはその分野の学者などと同じ感性を持っているということです。 自然科学の根本的な部分の研究者は、そういう部分に興味を持っている方が多いでしょう。もし、あなたがそれを単なる感性におわらせたくなければ、とことん趣味として追及するのもまた一つの生甲斐なはずです。高校時代にいろいろとそういう思想にふけていたりしても、大学に入っておもいしらされました。少なくとも、自分がこの世の中で考えたことは、世界中を探せばだれか一人は同じことを考え、それを学術的に議論している人(達)はいるのです。興味があれば、それをとことん追求するのもありではないでしょうか?また、それにより世界の広さを思い知らされるんですが・・・。 まあ、ごく稀にそれ以上ものことを考える人がいるのですが、そういう人が”偉人”として将来それが理解させた時に尊敬させるのでしょう。そういういみでは、ピカソとかは、おそらく孤独だったのではないでしょうか? たとえば、芸術家と呼ばれる人の半分は鬱だ、という話を聞いたこともありますしね。

noname#41852
質問者

お礼

周りになかなかそんな人間を見つけることは難しいですからね。当たりくじは何千倍もの外れくじのなかにある。その人数分布というのはどうも納得いかないんですよね。孤高を生み出すために、何人の底辺が必要なのか。ピラミッドというものは、人間社会の象徴であるのか。

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noname#35986
noname#35986
回答No.13

偉大な哲学は足跡を残さない 哲学はするもの そのものを生きるもの 日本人の哲学は諺に集約される 自然な心からの発露 道からそれない為の 道を踏み外さないための その都度与えられる 道標 唯心論と唯物論が融合した実践哲学

noname#41852
質問者

お礼

そうですか。

noname#80116
noname#80116
回答No.12

No.1です。 現実の損得勘定については ふつうの勤勉と それの自己目的化したガリ勉とを分けて捉えるとよいでしょう。 ところで きよらかなおそれは なにものかの美しさに属(つ)くことによって 生まれます。 美しさに或る種の意志を――まぼろしのごとく――見ます。この何者かの意志に属くことによって かえって 自分の意志が生かされるのではないかという予感が芽生えます。この予感のあるところに 社会的一般感性(共同観念のもとの共同心理)に対するおそれも起きて来ます。 ですが このおそれを抱く意志(愛)のあるところに つまづきのおそれはありません。 愛のあるところに おそれはありません。愛のないところに きよらかなおそれはありません。 きよらかなおそれの水かさが増していくにつれて――みづからの水嵩も また 同じ意志を抱くともがらの水嵩も 増すにつれて―― 幻想のもとにある損得勘定は 溺れるかのごとく やがて 踊り出すことでしょう。 十年かかるか 百年かかるか・・・。

noname#41852
質問者

お礼

やはり、抽象的に感じた美しさを否定する必要はないようですね。重ねてのご回答ありがとうございます。

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.11

「こういうことに感動してしまう自分が、社会的一般感性に合わないない」ことが問題なのではなく、そのようなことを危惧することが本当の問題であり、そのことこそが、日本から哲学が生まれない根本原因だと思います。

noname#41852
質問者

お礼

日本という文脈を離れると、どういうことになるのでしょうね。もしかすると、その程度の差によって革命的な意識差が生まれるかもしれません。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.10

ものもきれいな心で使って 初めて生きる。 私利私欲、汚れた心や邪な心で物や金が扱われるのは嫌でしょう。 もともとはそういう発想から唯物論は発生しているような気が。。。 自らのきれいな心を 生かしてあげてください。 きれい事と嫌う言葉を自らのうちに見出すこと。 かつてあったように。 元々あったものを その体ごと自分で自分を抱きしめてやるんだよ。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.9

大丈夫心の中に必ず光は入る。 きれいごとと嫌っている言葉。 自分で自分の心を汚すことはない。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.8

唯物論的思想も心があってはじめて生きてくるものと思います。 心が死んでいる。 心を殺してしまっている。 生かすこと。 そのことに気付くこと。

  • agrippa
  • ベストアンサー率9% (5/51)
回答No.7

涙する対象がおかしい。 思想が唯物的で心が虚無的。 生きていること自体に感動しなくっちゃ。 それ以上頭の中をこねくり回しても しぼんでいくだけ。 もっと自然と触れたほうがいいと思いますね。

noname#41852
質問者

お礼

感動にもいろいろありまして、生に感動することもあれば、浄化された抽象に感動することもあります。

noname#38456
noname#38456
回答No.6

簡単に回答してみると・・ただし、ちょっと趣旨が、わからないので、勘違い回答だったら、ごめんなさい。 "感動する感性(=??)"、すなわち、対象に対しての感動した、感動するの有無は、人それぞれの経験によって違うのだから、素直に受け入れて良いのではと。 これも、人間として人生の社会勉強だと思って。 >社会的一般感性に合わないないのではないかという・・ まれに・・というか、人生経験において"社会通念的"に違うことが、あります。それは、その経験をしたとしたなら、そのまま受け入れれば良いものと。 例えば・・で紹介してみると、ただし、趣旨と違うと思うが。 日本のマスコミでは、「三食、しっかりと食べて健康に。」と肉体次元での状態を強調するが、アジアの仏教国(=例:タイ)では、1日二食が、当たり前(と思う)。これは仏教の影響。又、食事(正確には味覚)は、美味しいものを食べて"楽しい"。でも、私の場合、味覚そのものが、邪魔に感じるし、上記の『しっかり三食』よりは、1日一食の方が、意識は鮮明で身体は軽いし、こっちの方が、"楽"です。 だから、人それぞれなのだから、その時の感動は、その時は素直に受け入れ、そして、それと違った感動(価値観)が、でた場合、可能なら、それを分析し、それをまた素直に受け入れれば良いものと。 もう、自然にお付き合いをしましょうよ。自分自身とね。 以上

noname#41852
質問者

お礼

人それぞれという文脈で、心に負担を感じる場合、感じない場合、子どこを感じる場合感じない場合、軋轢がある場合ない場合と、いろいろあるんですね。それで、もちろん気楽に感じられる「自己本位」は問題ないのですが、なにか不都合、不快感を伴いものはどう対処すべきなのかという問題は常に付きまといます。

  • rurubonpp
  • ベストアンサー率26% (128/488)
回答No.4

仏教では仏様のことを泥沼に咲く蓮の花にたとえています。 つまり世の中は泥沼なのです。社会に出れば、生きるためにいろいろと汚いこともしないといけないこともあります。 それでも、染まらずに清らかな心を持って過ごせば蓮の花が咲くこともあるのです。 一日のうちで、自分の心を清らかに保つ時間を持つようにすれば良いと思います。 世の中は泥沼なのですから、そういうものだと達観していれば良いことだと思います。

noname#41852
質問者

お礼

それは事実です。泥の中に栄養素も豊富ですし。反対の要素、複雑な要素をとりいえれ浄化し止揚するしか道はないでしょう。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

良き心の持ち主のようですね。 あなたのような立派な精神を持った人ばかりでないのが世の中です。玉石混合の世界といいます。その中で互いに切磋琢磨するからこそ更に磨かれるのです。「大人は町に住み小人は山に住む」ということわざがあります。これは玉石混交の中のほうが生きるのは難しいという意味です、あえてその世界に住むことが大人である条件だといっているのです。「悪貨は良貨を駆逐する」というとおり良き心を維持することは難しいかもしれません、しかし心は見えないので奥にしまえば誰にも判りません。これが世の中で生きながら自らを守るコツです。石ばかりではありません玉もあるから意味があるのです。玉もたくさんいますから玉を見出し学べばいいだけですね。それは、楽しい人生になるかもしれません。そのようにすればどの社会でも生きられます。

noname#41852
質問者

お礼

にごり水に生きる高雅な存在こそ、もっとも価値があるという某宗教の象徴ですが、言いえて妙なものなんだろうと思っています。

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