お魚の楽しみとは? 人は他人の気持ちがわかるのか?
荘子と恵子が池のまわりをお散歩していた時の二人のやりとりです。
荘子「お魚(さかな)さんがのんびりと泳いでいる。これがお魚さんの楽しみというヤツだね」
恵子「君は魚じゃない、どうして魚の楽しみがわかるのよ?」
荘子「お前は俺じゃない、なんでお前は、俺がお魚さんの楽しみをわからない、とわかるんだ?」
恵子「僕は君じゃない、だから君の心の中はわからない。それと同じように、君は魚じゃないのだから、魚の楽しみをわからるはずがないじゃないか」
荘子「話をモトに戻そう。お前が俺に『どうして魚の楽しみがわかるのか』とイチャモンをつけたのは、俺がお魚さんの楽しみを知っていることを、お前が既にわかっていたからだ。俺はお魚さんの心がわかったのだ」
(translated by NemurinekoNya)
人は他者の気持ちを理解することができるのか、という今日でもホットな哲学的な問題です。
さて、
この二人の議論の勝者は、荘子、それとも恵子のいずれなのでしょう?
───書物『荘子』にあるのですから、荘子が勝ったということになるのでしょうが、
わたしは、皆さんの判断を教えて欲しいのです───
荘子、恵子のいずれの話に説得力を感じますか?
どちらの話に共感しますか?
そして、
人は他者の気持ちを理解することができる、と思いますか?
二人の議論を純粋な論理の問題としてお考えになられても、
二人のやり取りとは無関係に、「人は他者の気持ちを理解することができるのか」という問題に対する認識論的なアプローチからのお考えでも、何でも結構です。
「わたしの考えるお魚さんの楽しみ」であろうが、ペットの楽しみであろうが、結構です。
お考えを、わたくしに教えてください。
よろしくお願いします。
ちなみに、原文は
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『荘子』秋水篇 13
莊子與惠子遊於濠梁之上。
莊子曰、「儵魚出遊從容、是魚樂也。」
惠子曰、「子非魚、安知魚之樂?」
莊子曰、「子非我。安知我不知魚之樂?」
惠子曰、「我非子。固不知子矣;子固非魚也、子之不知魚之樂全矣。」
莊子曰、「請循其本。子曰『汝安知魚樂』云者,既已知吾知之而問我、我知之濠上也。」
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です。
お礼
ほおおお~!何かの故事からのことわざなんですかね?ありがとうございます。その線で調べてみます。