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細川忠興と黒田長政

石田三成を嫌って関が原の一因にもなった一派についてです。 福島正則、加藤清正らを中心とした一派が三成を襲撃しようとしたことは歴史的に有名なのですが、後藤又兵衛が主君長政の元を出奔して細川家に禄を求めた際、忠興は長政のことが嫌いだったので召抱えようとした、とのこと(結局長政側から横槍が入り成立せず)。 あの一派も三成亡き後、ごたごたして仲間割れ状態?になっていたのでしょうか?だとすれば何が原因だったのでしょうか?

みんなの回答

  • tanuki4u
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回答No.2

出典見つけました 逃げる百姓、追う大名―江戸の農民獲得合戦 (新書) 宮崎 克則 (著) 細川忠興は、結構筆まめで、江戸期の大名研究の対象になっています。なんせ、外様の大大名としていつ、取りつぶしになるかわからないので、隠居した後も、息子に細々と指示を送っています。初期の大奥研究でもネタにされています。肥後随喜という怪しげな商品がありますが(詳細は検索してください)これは、肥後に移ってから肥後随喜という器具を大奥の方々にプレゼントしていたことから名前が付きました。 原典のその中で、やれ逃亡する百姓を途中で押さえたとか、逃げられたとか、黒田家と細川家に集中して書かれています。

hirarno36
質問者

お礼

肥後随喜って夜に使うアレでしょう。大奥の贈り物として気が利くと思います(笑) 細川、黒田の争いの種は百姓にあり、ってところですか。 その他の福島、両加藤らを含め仲は良かったのでしょうか。所領が離れていたので問題はなかったと考えてよいのでしょうか。 回答ありがとうございます。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.1

大名の行動は、○○派だからこうする、というものではなく、自家にとって、あるいは自分にとって有利になるにはどうなるか?という一点で行動を決定します。 細川家と黒田家の因縁は関ヶ原の戦いの恩賞として、旧黒田家の領地(豊前)に細川家が入った。これが最大の係争ポイント。しかも、黒田家が豊前の隣の筑前だったことが、係争を熱くしました。 豊前での年貢を黒田家が、全部取っていったのはゆるさんというのが、細川家のスタンス。 黒田家では、当然の権利を行使しただけというもの。 この辺の、隣国の仲違いは、越後を巡って、関ヶ原の戦いの前に、上杉家と堀家でもありました。 さらに、江戸初期は、耕地拡大の時代で、慢性的に農民不足。筑前という隣国に移動した黒田家にとってみれば、豊前時代に知っていた優秀な農業経営者を一緒に移動させたいというので、かなりヘッドハンティングしていたようです。これが両家の関係をさらに悪くした。 後藤の件に関しては、後藤が「奉公は一代限り、如水なら主君として仕えられるが、息子の長政になんか仕えたくない」としたので、かなり長政が嫌ったという側面もあります。

hirarno36
質問者

お礼

あの反三成系にそんなことがあったのですか。詳細を知って納得しました。 私個人は黒田如水や幽斎は好きなのですが、あのグループの中では長政も忠興もあまり好感をもてません。 堀といえば秀政のことでしょうか。上杉ともめるとは根性?あります。 (反三成系グループは三成の一件で佐竹に手出ししませんでしたが) 隣国とはとかくもめがちですが、大名家の優秀な農業経営者のヘッドハンティングは痛いでしょうね。折角苦労しての穀倉地を持って行かれた悔しさも手伝っているのでしょうか。 それにしても知行を与える難しさ・・・。 回答ありがとうございました。勉強になりました。

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