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ゼノンのパラドックス克服法

・飛んでいる矢はどの瞬間をとっても静止している。 ・運動が可能であるには空間・時間は無限に分割することはできず、最小単位をもたねばならない。しかし最小単位時間、最小単位長さは存在しない。 この2つのパラドックスについて誰か教えてください。お願いします。

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回答No.8

(主に)asterさんへ: No.7のお話はそれなりに参考になりました。 1つだけコメントして終わりにします。 > ニュートンに始まる古典力学は、空間や時間の無限の細かさまでの「連続性・ > 一様性」を仮定し、「微分可能」という仮定で、「瞬間速度」を、df(t)/dt > で表現したので、これは、数学的な近似モデルとして非常に精密で有効、、 上は違うと思います。数学的な手続きと、物理的なスケールの問題がごっちゃになっています。微分操作は確かに変数に実数の連続性があることを要請しますが、これと実際の物理量がどこまで分割可能であるかということは別問題です。 例えば、区分求積の方法によって円錐の体積の公式が求まりますが、分子より薄く切ることができないからと言って、この結果に懐疑が生ずることはいささかもありません。結果が近似ということにもなりません。極限を見つけるための分割は、純粋に数学的な操作で、物理的な分割とは無関係だからです。 物理法則にはそれぞれ固有の適用スケールがあります。目的のスケールを記述するのに適した物理量変数と関数を使わなければ、美しい法則は現われてきません。これは、近似の問題ではなく、正確な法則を記述するための物理的な要件なのです。例えば、火山の裾野の曲線形を考察するときに、裾野にある木や砂粒の形まで考えなければ正しくないなどと主張することは、無意味なだけでなく、有益な情報をつかみ損ねる悪い結果しかもたらしません。 観測される物理量を実数として記述することで、巨視系から通常の量子力学的系までの美しい物理的体系が築かれています。

tess
質問者

お礼

数学的操作を考えるとわけわからなくなってたのですが今までのご説明、よくわかりました。ありがとうございまいた、

その他の回答 (7)

  • aster
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回答No.7

  立体を、薄い平面に切って分割して行っても、数学的な幾何学の空間でも、現実の物質の世界でも、この薄い分割された平面は、「分割を限りなく大きくして行けば」、「厚さが限りなくゼロに近づく」のであって、厚さがゼロになるのではないのです。 100万に分割すれば、一つの厚さは100万分の一になりますが、この分割部分を、100万個積み重ねると元の立体に戻るのです。100兆に分割だと、100兆集めると、元に戻ります。 現実の世界で、立体の形の物質を薄く輪切りに出来るでしょうが、削り屑も元に戻すとすると、どんなに薄く輪切りにしても、厚さゼロになって、集めても元に戻らないなどということはありません。第一、現実の物体は、そんな、100万兆だとかに分割できるのか、という疑問があります。 物体は原子で出来ていますから、原子の大きさより小さく分割すると、分割自身ができないか、または、元の物質ではなくなります。原子核の直径よりも小さいところまで分割することはできるのか、という疑問も出てきます。 微分は、Δf(t)/Δt が、Δtが「限りなくゼロに近づくとき」の、ΔtとΔf(t)の「比」が、一定の値に近づくというものです。他方、Δtが0の時が、「或る瞬間」の矢ということなのです。「瞬間」には幅があるのかどうか、つかり、「瞬間点」というものが、時間にはあるのか、という哲学的な問いが、ゼノンのパラドックスなのです。 ΔtとΔf(t)の比が、速度だというのは、Δtが「限りなくゼロに近づき」、かつ、ΔtとΔf(t)の比が、一定の数に近づく場合です。微分では、Δtが0になっては計算ができません。Δtが0の場合が「時間の瞬間点」で、この瞬間の場合を問題にしているのが、「矢の不動」のパラドックスなのです。 「時間の瞬間点」というのは、どうもおかしい。「運動」というのは、現在・過去・未来のあいだで連関し合って成立しているもので、運動する物体の瞬間点での位置というのは、考えるとパラドックスになるというのが、「矢の不動」の意味するところです。 アキレウスと亀のパラドックスでも、これこそ、微分の話に近く、現実の世界の経験的事実では、アキレウスは亀を追い抜くのですが、「追い抜く瞬間」の時間点というものを考えると、その瞬間時間点へと限りなく近づいて行っても、亀は、限りなく小さくなって行く距離分だけ、アキレウスの前にいるという話なのです。 時間は無限に分割でき、最小の単位はないとすると、おかしなことが出てくるので、古代インドの思想では、時間の最小単位を考えました。つかり、或る瞬間と或る瞬間は「飛躍」で結ばれていて、この飛躍の時間が、最小単位になるので、漢語で、この飛躍時間単位のことを、「刹那」と言います。 古代インドの思想には、時間の最小単位があったのですが、ニュートンに始まる古典力学は、空間や時間の無限の細かさまでの「連続性・一様性」を仮定し、「微分可能」という仮定で、「瞬間速度」を、df(t)/dt で表現したので、これは、数学的な近似モデルとして非常に精密で有効なのです。 (微分可能というのは、「微分可能空間」という特別な数学的なモデル空間で、この世界の空間は、「微分可能空間」だとモデルで考えたということなのです)。 しかし、現実の世界の時間や空間は、限りなく一様にどこまで分割可能なものではないと、考えないとおかしい、ということが、最近は、物理学の理論でも、予測されるようになったということです。 立体が、厚さのない平面が、「無限」に集まって出来ているというのは、無限集合論では、そうとも云えますが、(平面と立体の「無限濃度」は同じだからです)、しかし、「体積」とか「面積」というような、「量次元」を考えると、そういうナンセンスなことにはならないのです。  

tess
質問者

お礼

大変分かりやすい回答ありがとうございました。おかげでレポート提出ができそうです。哲学的要素が大きいとは思いませんでした。

回答No.6

hagiwara_mです。 少し補足します。このパラドクスは微分概念に関係するものです。似たようなものはいくらでもつくることができます。 (例)”あらゆる立体は高さをもたない” 「立体を薄い輪切りにして考える。輪切りの枚数を限りなく増やすと各輪切り片は面になる。厚さのない面をいくら重ねても高さは生じない。」 要するに「限りなく、、」というのが、近づき行く収束点を見つけるプロセスだということを忘れて、途中で極限値を代入して考えてしまうという誤りです。 飛ぶ矢の平均の速度 Δx/Δt を考えます。Δtをどんどん小さくしていくと、その間の移動距離Δxはゼロに近づきます。しかし、比の値 Δx/Δt はゼロでない値に近づいていきます。このことを承知して「飛ぶ矢の」表現を曖昧性ないものに書き換えればいいわけです。 なお2番目のご質問の記述についてですが、ゼノンのパラドクスは、人の目に見える巨視的な運動を問題にしていますから、物理的な意味での微小時間や微小空間の問題とは関係ありません。 位置の変化 x(t)を∫(dx/dt)dt のように書き換えるのは、数学上の見方を変えることであって、物理的にdtの時間間隔で起こることを問題にするわけではありません。矢の位置は我々が目にする通り進んで行くのです。これが唯一の事実です。もし最小時間なるものがあるとしても(ないと思うが)、時間を連続実数として扱うことに何の問題もありません。問題になるとすれば、それは、その最小時間のスケール以内で起こる現象を扱う場合だけでしょう。

  • aster
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回答No.5

  ゼノンのパラドックスは「哲学的問題」なのです。そこで問われていることは、「時間は無限分割可能か」「空間は無限分割可能か」、そして「時間の瞬間」とは何か、「運動の連続性とは何か」と云った問題です。 ニュートンに始まる古典力学は、空間の基本的な「等方性」と「等質性」を前提にし、無限分割可能と「仮定」して構築されています。また「時間」は、空間同様「等質性」を持ち、これも無限分割可能で、「瞬間」は、実数線と等価とされる時間の次元において、デーデキントの切断点が、瞬間点であると考えています。 これは古典力学の「時空」であって、このなかで、速度は、質点の「連続運動」における「時間微分」であると定義し、このように「物理数学的モデル」を作っているのです。 しかし、ゼノンのパラドックスが現代でも問題になるのは、それは、モデルを構成する際に、現実の世界はどうなっているのか、空間や時間の無限分割可能性を認めると、おかしなことが起こるのではないか、という「問題提起」をしているので、なお意味があるのです。 ゼノンのパラドックスを数学的モデルで解決することは、簡単に行えるのです。「亀とアキレウス」のパラドックスでは、ゼノンに限らず、誰でも、アキレウスが亀を、現実の時間のなかでは、追い抜くことは「分かっている」のです。 では何がパラドックスかと云えば、「時間の無限分割」という過程が、一段一段の分割において、有限の時間を必要とするのではないのか、それとも、「分割は瞬間に可能なのか」ということが問題なのです。 数学的モデルのなかでは、例えば、微分操作は、瞬間に完了するとされているのです。また、「微分可能空間」「微分可能時間」というものを考えてモデル化しています。 しかし、現実の世界の「経験する時間」や「経験する空間」は、数学的モデルの時間や空間とは違っているというのが重要なのです。もし、この重要性がなければ、2世紀か3世紀前に、ゼノンのパラドックスは、古代の無知な人が、曖昧な概念で思考した結果出てきた、つまらない錯覚だで、解決されていたでしょう。 しかし、今なお、このパラドックスが問題になるのは、例えば、湯川先生は、素領域の理論というものを提唱したのですが、これは、詳細は理解できませんが、空間の「等質性」を、微細構造において、否定しているのです。空間が等質なら、どんなに細かくして行っても、同じ性質の空間がどこまで存在しているはずですが、どうもそうではないと先生は考えられたのでしょう。 また、実際に、空間や時間の無限分割可能性や、等質性など、どこにも証明も実証もないのです。古典力学のモデルは、その誤差のなかで、実用的に(プラグマティックに)有効であった。観察事実と理論計算のあいだに、誤差が見出せなかったということなのです。 しかし、超弦理論などは、超弦の太さというか、直径が、「空間の最小単位」を決めているらしいのです。これが、空間の最小単位かどうか分かっていませんが、無限に微細な構造にまで、空間が等質であるなどという証明はないのだというのは、事実なのです。 あるのは、モデル理論が、観察誤差の範囲で、現実のできごとと数値的に一致するということで、観察精度をもっと高めて行くとどうなるのか、数学モデルでは、どこまで空間は微細化でき、だから微分操作も可能なのですが、現実の空間は、どうも違っているということが、分かってきているのです。 違っているのが当たり前であって、古典力学は、相対性理論の時空理論で修正され、更に量子力学の時空理論でも、制限が加わりました。 現在、統一場理論は、完成していません。完成する見こみが疑わしく、仮にできあがったとして、その時、更に、微細な時空の構造について、観測精度が高まると、従来の観測データを元に構成された統一場理論は、そこで、成り立たなくなってしまう可能性があるのです。 人間は神ではありませんから、無限に高度な観測精度で、データを得ることはできません。また、精度を上げるには、例えば、直径が、地球の軌道ぐらいの加速器を使って実験するしかないというような話になり、もはや、現実に観測可能な実証データ取得の可能性を超えてしまっているのです。 しかし、そのような巨大な加速器を使っても、もっと高いエネルギーで観測すると、更に別のデータが出てくるかも知れないのです。 こういう問題は、時間は無限分割できるのか、空間は無限分割できるのか、という問題に、すでに、含まれていた問題なのです。 ゼノンのパラドックスは、適当な数学的モデルに当てはめると、簡単に解決するのです。しかし、「実在の時間や空間」はどうなのか、という問題として、この問題は解けないのです。 「パラドックス」の形を取って、時間や空間や、点の問題(アポリア)を、提示しているのが、ゼノンのパラドックスなのです。だから、解決すると言えば、簡単に解決するし、解決しないと言えば、本当に解決しようがないのです。 「無限」に関する問題は、メタ数学でも、解決できないディレンマを生んでいるのです。  

回答No.4

ゼノン(BC.5C頃)のパラドクスは、私も大学の授業で題材にしたことがあります。いずれも、現代から見れば、命題自体が曖昧な(論理的でない)ことが原因であって、パラドクスは解消してしまうことが分かります。 ご質問はいわゆる「飛ぶ矢は不動」という(一つの)逆説ですよね。後半の、「空間・時間は無限に分割」云々は、この説明に関連して誰かが付け足した話ではないでしょうか(的外れの付け足しですが)。 一般に、命題が論理的に扱えるためには、その命題に使われる用語の定義または認識の共有が確立していなければなりません。先ず、「飛ぶ(運動する)」と「静止する」と「瞬間」の意味を再確認して下さい。ゼノンの時代には、実数概念も微分概念もできていませんでしたから、これらに明確な意味を与えることができなかったのです。 現代の我々は、以下のように答えることができます。 「運動している」=位置(ベクトル)の時間に対する変化率(微分係数)がゼロでないこと 「静止している」=ある有限の時間が経ても、位置(ベクトル)が変わらないこと 「瞬間」:これが曲者。一つの時刻の値で指定される時点とする人と、ごく短い時間間隔とする人がいるだろう。前者を「時点」、後者を「微小時間間隔」として、使い分けよう。 そこで、ゼノンのパラドクス: 「弓を離れた矢は、瞬間瞬間、空中に位置を占めながら飛んでいく。ある瞬間をとらえると、矢は空中で止まっている。止まっている状態をいくら繰り返しても動くことにはならない。」 を正しく書きかえると、 「弓を離れた矢の位置は、時間の関数として連続的に変化する位置を占めながら飛んでいく。ある時刻をとらえると、矢の位置ベクトルは一つに決まるが、その時点での速度はゼロではない。速度を時間に対して積分すれば位置の変化が求まる。」 ということになって、全然パラドクスでなくなってしまいます。

  • aster
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回答No.3

  こういった問題は、新書を見ると、必ずどこかの本に載っています。有名過ぎて、「パラドックス」に関係する本だと、たいてい出ています。参考URL1にも、簡単に述べられています。 これらは、論理的パラドックスというより、(論理的パラドックスも、その面はあるのですが)、「時間」と「空間」とは何かという問題に関係しています。 数学的に考えている空間や時間や運動、そして、点があり、点を通過して運動があるという、数学的な考え、「時間の空間的把握」などによって、パラドックスが発生しています。従って、同じ地平で、パラドックスを解決しても、見かけの解決で、根本的に解決になりません。 第一の「矢の不動」のパラドックスは、例えば、瞬間瞬間には、確かに矢は、ある点で止まっているのであり、「連続的な運動」というのが、実は錯覚なのだ、という考えで解決できます。 運動が、「連続」しているという根拠はないからです。量子論ではありませんが、時間も空間も、最小単位があるとすれば、矢の不動パラドックスは、パラドックスではなくなります。 二番目のは、超弦理論では、確か、空間と時間の最小単位があったはずです。普通の数学で考えると、時間や空間に最小単位があって、かつ「運動が連続」とすると矛盾が出てきますが、超弦理論では、空間の最小単位があるのですから、そもそも「連続運動」という、数学的理想概念は成立しません。 これらは、「無限」と「無限分割」の可能性の問題で起こってくるパラドックスで、更に、時間とは何か、空間とは何かという把握で起こってくるパラドックスです。 時間や空間は、実はよく分からないのです。数学的に形式化された概念はありますが、それは現実の時間や空間ではないのです。「矢の不動」パラドックスは、「運動の連続性」という、実証できない概念を数学概念として、入れると、発生します。 1を2でどこまでも(無限に)割って行くと、どういう数になるのかと問題の答えは、「極限は0」というものです。「極限」ということは、この計算は限りなく0に近づくということで、決して0にはならないのです。 では、どういう数になるのかと尋ねて、そういう数が「ある」と考えると、パラドックスが起こります。なぜ起こるかというと、この演算操作は、無限の「操作」であって、「完了していない」からです。完了したとき、初めて特定の数が存在できるので、完了していないのに、特定の数を仮定すると、パラドックスになるのです。 「矢の不動」でも、物理学が教えるのは、或る瞬間という時間を厳密に指定すると、量子力学的には、不確定性原理で、粒子の存在位置は、確定しなくなります。 粒子を矢だと考えると、運動している粒子=矢は、或る瞬間を指定すると、止まっているどころか、どこにあるかも分からず、時間指定を少しゆるくすると、大体この辺りという、存在可能性確率の三次元関数になります。 どこかにいるのでしょうが、どこかは分かりません。 宇宙は、こういう構造を持っているということが分かっているのであって、それを、パラドックスとは言わないのです。 そういう次第で、解決方法は色々あるが、根本的には、時間や空間や運動とは何かという、哲学的に答えが出てこない問題に、最終的には帰着するのです。ゼノンのパラドックスは、時間、空間、運動などの「本質」を考察する契機になる重要な問題なのです。 形式的な解決は色々あるのですが、それで何かが解決するかというと、当面の疑問が解決するので、時間や空間の問題は解決しないのです。 >参考1:パラドックスの話(3)ゼノンのパラドックス >http://www.ffortune.net/kazu/logic/paradox/para03.htm >参考2:No.305411 質問:今触れたものは、永遠?失われる…? >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=305411 >No.210187 質問:パラドックスについてデス。 >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=210187  

  • acacia7
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回答No.2

有限の長さの物を無限に分割すると無限個になるから、 もとより有限なんてものはないんだ。っていう詭弁に近い言い分ってことかな・・ 現在は、無限の数列の総和が有限になりうるという事に合意されているため、 考えられないパラドックスなんだと思われます。 でも、実は、「最小単位」があるから「運動可能」なのかもしれないですね。

noname#6938
noname#6938
回答No.1

おはようございま~す。ふはぁ~、ねむいねぇ~。(~o~)~~~ 矢については、 「飛んでる矢」は、矢が空中で位置を変化させていることだから、矢はそれぞれの位置で「静止」してるんだという逆説だよ。    ←←←←←←←←←←←←←←←←←←←← でもこれは「飛んでる」という運動の概念を「矢」という物自体と切りはなして考えればいいよね。「飛んでいく矢」はまだ存在しないし、「飛んできた矢」はもう存在しないんだから、結局あるのは「飛んでる」という概念を付与された「矢」ということになるね。 そのつぎのは、 たぶん「アキレスと亀」とかの話だと思うけど・・・ 亀は割愛して、アキレスさんがA地点からB地点に行くまでには、途中のC地点を通らなければならない。そしてA地点からC地点まで行くにはそのまた途中のD地点を通らなければならない。AからDに行くにはEを、AからEへはFを・・・というふうに、アキレスさんは、いつまでたってもB地点にたどり着けないということになるね。 でもよくよく考えてみると、どこまでも無限に狭くなる2つの地点の間に、新たな地点がどこまでも無限に生まれるというのは、なんか無理があるね。だってこの地点というものは、ほんとうは量をもたない概念なんだし。存在しないはずの概念を存在の世界に持ち込むと、こんな逆説がおこっちゃうのかもしれないね。 う~ん、まだ眠くてよくわかんないけど・・・ 大学のレポ-トかなんかなら、先生の言葉で説明したほうがいいかもね。

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