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マディソン郡の橋を 哲学

●こころのなかで ずっと想いつづけることの美しさ。  みなさんが こころのなかで思い続けていることを教えてください。  また マディソン郡の橋でぼろぼろ泣いた方 なぜ泣いたのかなど   この物語にまつわる哲学・雑感など教えてください。

みんなの回答

  • mcqgogo
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回答No.7

元気ですか? 僕は今、ノートパソコンを叩きながら、マジソン郡の橋の下にいます。 やぶ蚊を追いつつも切なく、今宵キンケードと寅さんのどちらかを愛するか、貴方に尋ねて見たくなりました。 ちなみに僕は、フランチェスカよりも、さくらに想いが行きます。 さくらが居ないと、あの映画はつまらないと思っていました。 僕はきっと欲張りなのです。 chihokoさんはどう思いますか? 生きることの美しさをトコトン知ると、涙腺が緩むようです。 aoihoshiさんは、そう言っているように思います。 貴方も彼女も、いい欲張りなのです。

  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.6

寅さんが出てきたのでもう少しお付き合いを… 寅さんはそんなに本数を見ていませんが、いまだ僕の中に生きています。 旅先であの映画を見たばかりに、旅にありて旅を知り、大学を辞めもし、今の人生があるようなものです。 貴方には、彼のシャイなSEXが想像できますか? 僕は正直言って想像できません、しないようにしています。 今は菊次郎がなにか、形を変えてなぞっているように見えますが、寅次郎の魅力にはまだ及びません。 不思議ですね、生と性の関係は。

chihoko
質問者

お礼

●わたしは 寅さんが どうして好きなのか?  それは 映画の中に寅さんが旅先でぼーっと風景をながめる描写がかならずあり  そこに展開している人々の情景があり その描写のなかには過ぎ行く時間のなかで  生きることの孤独と親和と一期一会性を確かに感じさせてくれる何かがあるからなのです。  そんなシーンでは わたしはかならず涙ぐんじゃいます・・・。  寅さんは 童貞ですよ。 でも希代の哲学者です。尊敬してますわたし・・・。  菊次郎って 菊次郎の夏しかありませんよね。  北野映画は独特の人間描写ができていて見ていて楽しいです。  北野映画のわたしのベストワンは 3-4x10月です。  あの田舎やくざの描写は爆笑ものです。  寅さんは 恋をずっとこころに留めているところが 美しいですね。  寅さんをフェラしてあげたかったなぁ・・・。  ご回答ありがとうございました。

  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.5

#3のものです #4の方 ありがとうございました。いろいろ参考になっています そう、マジソン郡、こころにずっと想いつづけることの美しさです chihokoさんが、何時でも何処でも何度でもこころに想いつづけているその長けを、そちこちに散りばめていたものが開花しているようで、まずは何よりです。 きっとそれも対象こそちがえ、ずっと想いつづける力の為せる技、業?であると思っています。 表現、表出は切り捨てることでもあり、生き方も同様です。しかし捨てられたものは、消滅しているわけではない。桜の木の根で肥やしになったり、涙のショッパさに転じているのでしょう。それを合わせ見たときに生は美しいと思います。哀愁を帯びたカノンの曲のようです。 なんかまた、旅にでたくなった。

chihoko
質問者

お礼

>それを合わせ見たときに生は美しい ●なるほど フランチェスカはキンケードに キンケードはフランチェスカに  それぞれ切り捨てられたと 捉えることもできるんですね。  ディルドを沢山並べて 入れてるもの意外は その時点で切り捨てられて  いるわけで とっかえひっかえ挿しこんでイクんですけど  なるほど 合わせ見たときそこに美しさがあるのかもしれませんね。  わたしの大好きな 寅さん いまどこでどんな旅をしてるんでしょう・・・。  ご回答ありがとうございました。

  • aoihoshi
  • ベストアンサー率0% (0/5)
回答No.4

   No.3の方のところで何故か私のHNが出ているようなので参加しづらいのですが・・  でも、お邪魔します。(*^_^*)  この物語の最重要ポイントは、主人公が現実の諸事情により、4日間限りで別れを決意した事にあると思います。  短期間で燃え上がった恋は、短期間で燃え尽きてしまうのが世の常です。そのまま家族を捨てて駆け落ちしたとしても、良心の呵責は常について回る事でしょうし、先々常に一緒に居れば、必ず相手の色々な面が見えてきてしまい、情熱が徐々に冷めて行ってしまう事は必至でしょう。そうなった時には、もう後戻りは出来なくなっているはずです。  ジェームス ディーン・マリリン モンロー・ブルース リーが、もし今も生きていたとしたら、同じように、大衆は相変わらず今ほどの魅力を感じていたでしょうか。・・輝いたまま、その存在を失う事により、大衆の心に輝いたままの存在だけが残り、その魅力を永遠に胸に抱き続ける事が出来るのだと思います。  世の中の多くの奥様方もそうだと思いますが、妻として家庭を持ってしまうと、日常生活に追われてしまい、夫に対して恋のときめきを維持する事が困難になってしまうように思います。家庭内での身だしなみも、きっとおろそかになってしまうことでしょう。恋愛期間中のように、恋愛だけに集中できるはずはありません。  この物語も広義に解釈すれば不倫という事になるのでしょうが、現実の諸事情により、4日間限りで別れを決意したのは正解だったと思います。なぜなら、ときめきを維持する事によって女としての輝きを保てるわけですし、そうなれば夫にも常に女としてのフェロモンを出し続けることが出来ることでしょう。  ・・したがって、この物語の主人公の束の間の恋は、本人にとっても、夫にとっても、子供達にとっても、別れた彼にとっても、永遠に素敵な存在であり続けるための必要な出来事だったと言えるのだと思います。(あくまでも結果論ではありますが。)  このスレッドは、chihokoさんからのメッセージであるように感じています。それぞれの人がそれぞれなりに「マディソン郡の橋」を考察する事によって、自分の今の生き方を再確認する事ができるのだと思います。私の亡き彼への思いも、「マディソン郡の橋」に通じるところがあるのかも知れません。  織姫と彦星を自分にダブらせてしまったために、いまだに寝付けないaoihoshiからのメッセージでした。(朝、起きられるかな~。心配・・。)  

chihoko
質問者

お礼

●織姫と彦星って とってもロマンティックですね・・・。  昨日は スティングの9.11テロ当日にイタリアで収録されたDVDを  もとめましたので 夜はそれを5.1で聞いてました。  彦星の主人は しきりに自分のPCに行きたがりましたけれども  わたしは むりやり自分の横に居るようにしむけて 最後までふたりで  楽しむことができました。主人はMr.ビーンのコンピレーションDVDを  見ようと言っていたのですけれども 彦星はビーンよりはスティングですよね。  そんなこんなで 主人は送られてきてからまだビーンのDVDを観れてません。ぅふふ。  家の彦星は むりやり隣に2時間も座らされて どう思っているのでしょう?  しかも お昼は模倣犯につきあわされ マジェスティックではポロポロ泣いて  目を真っ赤にはらしていた わたしの彦星・・・。  もし 彦星と離れ離れで今後を生きたなら フランチェスカのように彦星のことを  思い続けるのかもしれません。「時々思う。」ですけどね 正確には。  だって 主人が居ても居なくても いろんな方々とHしてしまうし  人生は主人が全てではありませんから。それでも わたしの骨は主人と  おなじ場所に散骨したいと 強く強く望んでいる自分が居ます。  寝付けないaoihoshiさん ほんとうに素敵な方ですね。  ご回答ありがとうございました。  

  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.3

●こころのなかで ずっと想いつづけることの美しさ きっと二人はミームや立場を超えて、見事に鋳型があったのでしょうね 正統派 やまとなでしこ aoihoshiさん のコメントは参考になると思います 何時でも何度でも夢を描こう ♪ 僕なぞは、やらずの雨 と 矢切の渡し の間で行ったり来たり転んだりです

chihoko
質問者

お礼

●深いご考察を ありがとうございます。  つまり だれとでも鋳型の合っちゃう わたしには到達できない境地で  いつでも どもでも 何度でも のわたしには 正統派という形容は  似合わずこころのなかでずっと想いつづけることなど不可能だと  おっしゃるわけですね。つまりその手の美しさとは無縁なわたしだと・・・。  ずいぶんはっきりと・・・。  でも ほんとうに美しいと・・・ そして切なくて・・・。  ま いいかきょうは寝とこぅ・・・。

  • mcqgogo
  • ベストアンサー率25% (19/75)
回答No.2

僕は翻訳物を読んだだけで、映画は見ていません。 ナショナルジオグラフィックのキンケード(だったかな)の生き方は、旅に暮らすという意味で僕の理想です。 確か彼女の方は情熱的なイタリア系アメリカンの筈ですが、あえて退屈な田舎に留まる生活ということで、SEXとは別に、その抑制や落ち着きに惹かれるものがあります。 好感の持てる頑固者同士の一期一会を、屋根のある不思議な橋とともに旨く描いた作品だと思いました。 ちなみに、読んだあとその本を×一同士のカップルに進呈したところ、明らかに明るさが甦っていました。 男女関係まで連想を膨らませると、とめどもなく溢れ出てきますので、一例だけ哲学めいた考察をします。 マジソン郡の橋と、およその筋を知っている失楽園を比べると、その二人の出逢いが次にどう繋がってゆくのか、そこにその作者の生きる場としての世界観のありようが如実に現れていることでしょう。 マジソン郡の橋は、僕の尊敬するスタインベックの好短編「菊」が下地にあるのでは?と思いました。何の変哲もないように思える小品、「菊」の彼女も、逞しくしたたかでとても素敵です。

chihoko
質問者

お礼

●mcqgogoさんの とめどもなく溢れ出てくるものを 拝見したかったです・・・。  数多く存在する不倫ストーリーのなかで マジソン郡の橋がわたしに哲学させる  理由は 夫を差し置いて生涯のしめくくりとしてたった一度まじわった男を  選んだというところにあります。自分の遺骨を彼と同じ場所に散骨する  その気持ちを察すると そこに想像するふたりの繋がりは わたしの経験では  なかなかあてはまらないものがあり また 想像力をつかってもなかなか  どんな心理状態なのか分からないところなのです。だからこそ つらくて  切なくて涙が溢れたんだと思います。  ご回答ありがとうございました。

回答No.1

哲学と限定されちゃうと困るんですが、私もこの映画では号泣しました。 そこでこの映画の感想を書かせて下さい。 物語の半ば頃、彼が先に浸かったバスタブに彼女が体を横たえて (彼が数分間浸かったバスがこんなにも熱いなんて・・・) と思いに耽ります。それを見て、私もずーっと以前にはこんな想いをしてたっけ。 いつそれを忘れたんだろう、と思いました。 その疑問は、それからしばらく話が進んだところで、彼女の 「女は結婚して子どもを産むと時間が止まってしまうのよ」という台詞で、 私もそうだ、そうなんだと納得しました。 それからこのふたつの出来事の間だったと思いますが、 ラジオから流れて来る音楽に合せて二人がダンスをしているととてもいいムードになり、 彼は彼女にキスしようとします。でも、彼女はそれを躊躇します。 その時、彼が彼女に囁いた言葉が私の心に強く残っています。 「君が嫌ならやめるよ・・・」なんて、なんていい言葉なんでしょう! しかし、彼女は彼と別れる決心をします。雨が降りしきる中、 きしくも彼が運転する車のすぐ後ろについた夫の車の中で、彼女は前方の車を見つめます。 赤信号が青に変わるのですが、彼はすぐには発車させずに停車しています。 そして左折を知らせるウィンカーを点滅させています。 その点滅が、私には「僕は左へ曲がるよ。君も車を降りて早くこっちへおいで!」 と熱い手招きをしているように思われました。ドアノブに手を掛ける彼女。 でも、結局は夫の下に留まったのです。 年月が流れ、彼女の元に届いた彼の遺品。その中には、彼女が書いた一枚の走り書きまでもが。 そんなメモ書きをも大切に保存しておいた彼の彼女に対する想いは、 「生涯一度の確かな愛」だったのだと私は思います。 映画のキャッチコピーとして、鑑賞する前からこの言葉は聞いていましたが、 生涯一度の確かな愛だなんて、年老いてから回想してみてならともかく、 その場で軽々しく吐けるものか、と思っていました。 でも、私が遭遇できずにいるだけであって、そういうものは本当にあるのかもしれないと思います。 この映画を観てから長い間、私の耳には「君が嫌ならやめるよ」と優しく囁いた彼の言葉が残り、 (早く、早くおいでよ!)と点滅を繰り返すあのウィンカーが目に焼き付いて離れませんでした。 しっとりとした、とてもいい映画だったと思います。

chihoko
質問者

お礼

●たった一度だけ袖を通したお洋服。  少女のように無垢の笑顔が橋に寄り添う写真。  たった一人の女性のほんのひとときの姿を 抱きしめるように綴ったアルバム。  使いこまれた 愛用のカメラ。  たったひとつの思い出のかけら 一枚の走り書。  ラストシーンでキンケイドの車が フランチェスカの住む町を  白い土ぼこりをあげて去っていくとき わたしの涙は嗚咽に変わりました。  その後 エンドクレジットと共に俯瞰で延々映されるマディソン郡の橋  わたしの嗚咽は止まりませんでした。  フランチェスカの少女の笑顔を すべての女性たちに・・・  いつでも どこでも なんどでも・・・  わたしの切ない願いです。  ご回答ありがとうございました。

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