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人間の志の強度
私はある志(音楽、スポーツを自分なりに極める)を持っているのですが、その練習にかかる前にまず性欲の処理を行おうとしています。つまりは、志よりも性欲のほうが強いわけです。これは人間一般にいえることなのでしょうか。所詮人間の「志」などは本能に比べれば取るに足らないのでしょうか?
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私が聞いた話では、格闘技だと逆効果になるらしいです。 殺人犯のほとんどは男性ですよね。 レイプ犯もほとんど男性。 どうしてなのか? 男性ホルモンが原因。 普段はおとなしい女性が凶暴化した。 避妊薬により男性ホルモンが増えてしまったから。 で、お相撲さんは場所だったか試合の前だったか忘れましたが、とにかく戦う数日前から、妻との性交は禁止らしいんですね。 闘争心を高めるためらしいです。 だから処理しちゃうと闘争心が減るので、駄目らしいです。 志はどこからくるのか? 男はトップに立ちたがりますよね。 例があれなんですが、猿山。 一匹のボス猿が君臨しており、多数のメス猿を独占している。 すると負けたオス猿は自分の子孫を増やせないわけです。 それで、性欲によるというより、子孫繁栄の本能により、ボス猿に挑むわけです。 負ければ集団にいられなくなる。 勝てばハーレム。 ということは志の本当のところは、この支配欲や子孫繁栄の本能からくるものではないかと思います。 音楽は、、、格闘技ではありませんが、トップに立とうと思うから技術を磨くのであれば、それは結局、支配欲、子孫繁栄の本能によるものだと思います。 でも芸術と格闘って全然違いますよね。 実は音楽・絵画って女性が発明したのだそうです。 しかし後に男性に取り上げられてしまった。 だから芸術は本来子孫繁栄の本能によるものじゃないように思えます。 その業界のトップに立ちたいと賞取りレースになったとき、芸術が格闘の世界につながっていくように思います。 音楽をやる時、性欲により集中できないということで、それで処理するのはわかります。 でも日本の太鼓。フラメンコでもいいですが、最初は静かですが、だんだん激しくなりますよね。 フラメンコなどは、もう性と性の激しいからみあいのような状態になり、男と女の性交をイメージします。 ということは、このような音楽も結局、性欲を高めるために編み出されたのではないかと思います。 ってことで、格闘技の場合、その前の性処理しちゃうと能力を爆発させることができない。 音楽の場合も、躍動する性(生)を表現できなくなる。 で、クラッシックは? これはキリスト教の歴史に関係あるかも。 キリスト教は性を大変嫌っており、罪だとしてきた。 しかし、人間の性欲はとどまらない。 それで、萎える音楽を作り出した。 もし、性欲に困り果てていたら、こういった萎える音楽を聴けばいいってことです。 どんどん死へいざなってくれます。 インポテンツになるかもしれない。 賛美歌は決まりがあり独特の音階を使っているらしいです。 パターンが決まっているらしいです。 だから似たような曲になる。 それで死の学問を追及する修道院ではこの音楽が歌われることになった。 映画でも効果的に取り入れられており、おどろおどろしさを強調するとき、宗教音楽が流れるんですね。 映画の中でも絶対的な死の魔王をイメージするように取り入れられています。 この死の魔王を倒すヒロインが登場するとしたら、フラメンコの音楽に乗って登場するのが一番わかりやすいような。 ジプシーのフラメンコが生の音楽とすれば、賛美歌は死の音楽といえるかもしれません。
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- hakobulu
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性欲を人間活動の源泉とみなしてリビドーと名づけたのはフロイドでした。言ってみれば内面から湧き出てくる本能ですから、これを無闇に抑圧しようとすると様々な支障を生体に及ぼすと彼は考えました。精神科医としてヒステリー研究を重ねてきた結果として導かれた仮説であったわけですが、精神分析学の出発点ともなったものです。 ユングなどは性欲一辺倒の考え方に反発して袂を分かったわけですが、性欲そのものの影響を否定したわけではなく「生きる力」といったようなものに敷衍して考えるべきだと主張したにすぎません。 いずれにしても、性欲と生欲には密接な関係があることを否定できる人は誰もいないはずです。 つまり、汚いものでも醜いものでもないわけで、一方的に忌避するだけでは健全な精神の確立は覚束ない、ということです。 しかし、性欲の禁制が人類の文化文明を発展させてきたこともまた事実です。 バランスが取れているのが理想的なのですが、性欲の処理によって明らかに「志」の向上が妨げられているという客観的な事実がなければ特に問題にする必要はないのではないでしょうか。 人が生まれてくる過程を考えてみれば、性欲は生命欲と考えるのが自然ですが、生命欲だけというのであれば原生動物も変わらないわけですから人として生きる以上「ある程度の禁制」は必要ということになるでしょう。 とはいえ先に述べましたように、リビドーを抑圧しすぎると行き場を失ったエネルギーが変態的(性器支配以外で性欲を感じるようになる)に逆行したり、ヒステリー症状を呈したり、あるいは何らかの心理的歪みとして現れるのはむしろ当然のことだと思われます。 その意味で、「性欲の処理」は強迫性がない限り健全なことでしょう。 「志」と比較する性質のものではありません。 ただ、リビドーは本来他者に対して発動することを目的として蓄積されるものなので、セックスではなくマスターベーションによる処理の場合、自らのエネルギーを無駄に使ってしまったという無意識がある種の虚しさを惹起し罪悪感となって若者を悩ませるのは古今からの定番と言えると思います。 マリリンモンローとの関係を取りざたされたかのケネディ大統領が、さる相手に「貯まると首筋の裏が張ってどうにも不快な気分になる」と言っていたのは有名な話です。 人間は決して清らかさのみで生きているわけではなく、生体とは流れる血でありいずれは腐る肉です。 崇高な意志を維持するむくつけき土台もまた同じ我が身ですから、忌避せず正面から見据え、また認めていくことが必要でしょう。 忌避しすぎると反動が生じ、逆に捉われてしまうのは何事も同じです。
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清濁併せ持つ!これこそが真実であり不可避な宿命ですね。非常に納得いたしました。
- konagoo
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ローリングストーンズは、SEX、DRUG and Rock'n'roll と豪語してましたし、マイクタイソンのそれは凄まじいものですね。 逆に、ストイックな世界で活動している人も多い訳で、目指す方向によってうまく利用すればよろしいのではないでしょうか。 >所詮人間の「志」などは本能に比べれば取るに足らないのでしょうか? 志と本能を比べるのは、ドラゴンクエストとカレーライスを比べてどっちが好きかと言われているような感じでしょうか。
お礼
やはり、次元が違う問題かもしれません。しかし、燃料的なものとその燃やす対象と言う関係性はあるのでしょうね。
- nisekant
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上手く説明できませんが 男性が能力を付けようとしたのは、女性に気に入られようとするためです。意識せずとも、そのように仕向けられています。我々は、超能力(生き延びる以外の能力の意)を付けるためではなく、生き延びるためのシステムが備わっているのです。 ハンディキャップ原理というものがありまして、有名なのが「(雄)孔雀の尾」ですね。一見して孔雀の尾は邪魔のように、しかも天敵から目立つようになってしまいます。 「孔雀の尾」は、天敵から目立つという危険を冒してまで、生き抜くことが出来る「強さ」の証明を雌に示すことにより注目を集めるのです。我々の能力(生き延びる以外)も不要なのかもしれません。 性欲が強いほど、偉業をなせると思います。 我々の先祖は何十億年も個体維持と種族保存を続けてきました。 意識が生まれて、4千年前だという仮説があります。
お礼
「性」はいろいろ裏に回されたり茶化されたり、扱いが難しいですが、人間の根本に関わってくる問題です。それが内部燃料となって、人間の社会活動とか志の問題を回転させているのでしょう。共感いたしました。
宮沢賢治もエロ画(名前が分かりません)を隠し持っていたらしいですからね。(死んだ後にでてきたらしいです) それで銀河鉄道とか書いてるわけですから 悲しからずや、と思いました 性欲と志では領域や性質が異なると思います 一方は即物的、一方は持続性があります 1の方が書いてる、次元が異なるということでしょうか
お礼
どうも一緒くたにしてしまう傾向があります。別物と言う認識のほうがいいのかもしれないですね。
- shun393
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人間の3大欲求って聞いたことありますか? ・食欲(食べたい) ・睡眠欲(寝たい) ・集団欲(ひとりでいたくない願望) です。 集団欲を性欲と置き換えて3大欲求と言う人が多いですが間違いです。 あることに本気で集中すれば性欲は消えます。 本気でですよ? 性欲って心に余裕があるときに出てくるんですよ。 また、同時に言いたいことがあります。 【「志」と「性欲」は比べることができません】 別物です。 性欲を持ちながら志を貫くことは十分可能ですよ。 その志に、性欲は邪魔ですか? そのままでいいんじゃないですか? 【志の強さ】は【心の強さ】です。 性欲に勝つか負けるかではありません。 もしも性欲に負けると考えてしまっているなら、それは【性欲に対する「志」が強い】んじゃないですか?
お礼
「性欲」どころじゃないという状況はあると思います。というか生存がかかっている場合、まずそっちを優先しますから。襲われるとか殺されるとかでなくて、社会的に生死がかかっているようなものもやはり性欲に優先か並行するでしょうね。「志」と「欲」は同一次元とは確かにいえないかもしれないですね。
- luune21
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「志」も「性欲」も学問的には「欲求」といわれるものです。 欲求は低次元のものから高次元のものまで積み重なるように階層化しているという説があります。 http://www.innovetica.com/resource_02.html 一般的に、高次の欲求は低次の欲求が満たされた後に求められるものです。 性欲は、食う、寝るといった次元と同じ生理的な欲求です。一方、「志」は自己実現の欲求で、もっとも次元の高いものです。 こまごまとした日常行動には、機械的にそのまま当てはまらないことも多いのですが、そんなときでも、同時に二つ以上の欲求が重なった場合は、やはり、低次の欲求充足から優先していこうとしやすいといえるでしょう。 このことは、国単位のレベルで考えるとわかりやすいようです。 食う(生理的欲求)に困るような国では、「教師になりたい」とか「ワールドカップに出たい」というようなことを考えることはあっても具体的に行動する余裕はありません。
お礼
マズロー理論は知っていました。それが本当にそうなのかどうも疑わしいと思うのですが、私の実例もありある程度はいえるのではないかと考えています。低次の欲求は実はすごく大事なんですよね。それをどう処理しうまく方向付けできるか。
お礼
世にある芸術文化スポーツなどは、意識されないところで実は「性欲」が密接に関わっているのでしょうかね。確かにご説明の事例は、それを感じさせます。格闘技家は試合前に云々は真実でしょうね。つまりは、求めてなかなか求めえないものをやっと獲得して○○する。という精神の高揚感は、やはり人間文化活動の原動力だといえるのかもしれません。そういうことを学校で教えて欲しいモンです。 「死」の賛美歌に対抗する「生」のフラメンコ。私も非常に賛同してます。