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5世紀の高句麗と中国王朝(北魏 南宋)の関係
5世紀の高句麗と中国王朝(北魏 南宋)の関係についてですが、5世紀に高句麗は南北両朝の北魏、南宋との間に冊封関係を結んでいる、というのが私の解釈なんですが、間違っているでしょうか?確かにきちんとした書籍で確認した情報なんですが。ご意見ください。
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(北)魏書と宋書ともに、高句麗王にXX将軍の称号を与えているようですので、その理解で間違っていないと思います。少なくとも両国と朝貢関係はあったわけで、「冊封関係」は解釈のしようにより微妙ですが。
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- straker505
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回答No.1
「更に475年には百済の首都を陥落させて百済王を殺害し、百済は南に遷都した。この時期には遼東半島、朝鮮半島の半ば、満州を領有する大帝国となり、高句麗の最盛期とされる。しかし5世紀末になると盟下にいた新羅の勢力が大きくなり、百済と新羅の連合軍により領土を大幅に削られる。危機感を覚えた高句麗は百済に接近し、中国には南北朝の両面に朝貢を行って友好を保ち、新羅との対立を深めていく。この頃の高句麗が最も危惧していたのは北朝の勢力であり、その牽制のために南朝や遊牧民族・突厥などとも手を結びながら包囲していく戦略を採ろうとしていた。」 以上ウィキペディアですが・・・ 米国の大学では不可でもgooならいいでしょうか