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囚人
江戸時代、牢内には独自の掟があったようですが、作造りといった事はごく稀ではなく常態化していたのでしょうか? 公儀が未決勾留中の囚人が牢内で独自の秩序を形成することを黙認していた意図はどういうところにあったのでしょうか。
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1です。こんにちは。 作造りに関しては、言及しないで、サクッと通りすぎようと思っていました。 つまり、○○を握りつぶすという一文が、実は、ありました。 それが、どこまで、生命に対して危機なのかは、わかりません。 収容人員に対して、許容量が過ぎたときに、あっさり行われ、自然死として扱われるということですが、この一文に対して、さすがに疑念があります。 牢とは、このように恐ろしいところであるから、入らないに越したことはないという、犯罪抑止力として、使われたのでは、ないでしょうか。 処刑人が重要な街道に晒されたのは、抑止力という考え方と同じだと思います。
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- Pinhole-09
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先賢の答えに重複する所もありますが、 大牢には80~90人収容されたと書かれていますから、そのままにしたら収拾つかなくなるでしょう。 席の位置、食事などの順序、揉め事の種は多く、さらに環境の悪さから病人が出たときの看護、よほどの重病人以外は牢内で看護でしょうから、牢役人では手がたりません。 そこで江戸町奉行所では囚人のなかから、「牢内役人」の組織を非公式に作りました。 「牢名主」など12人を決めたそうです。 病人の看護役、出入り口で怪しいことをする、囚人がいないか監視する役などです。 奉行所公認で権限は強いとのこと。 牢内の重病人で、牢外で治療を受けさせるのは厄介だったとの事です。 重病人であっても、厳重に縛って「もっこ」で運び警備しながら治療所に運び、治療中の警戒も大変だったようです。 重病人を装い逃亡をはかる囚人がいるからです。 牢内で病死する囚人が少なくないのは当然です。 これに便乗した人減らし「作造り」をしてぎゅうぎゅうの牢内を、少しで楽にしようとするのは当然でしょう。 30人くらいの牢でもあったでしょう。 公的記録はあるわけはありませんが、相当な数にのぼったようです。 牢内病死者の記録はある筈で、これから推論できるでしょう。
お礼
大牢に100人弱が入れられていたというのは環境としては劣悪だったのでしょうね。 江戸時代は今と違って、環境の良くない牢内で病気を罹患する囚人も少なくなかったのでしょうね。 牢内役人は奉行所主導で作られたのですね。 現在の刑務所も、いろいろな係があるようですね。 >これに便乗した人減らし「作造り」をしてぎゅうぎゅうの牢内を、少しで楽にしようとするのは当然でしょう。 相当な数にのぼったのですね。 町奉行や石出帯刀、与力・同心も事情を知りながら黙認していたのでしょうか。 ありがとうございました!
ここいらへんはNO.1さんの縄張りですが、ちょっと横から口出しさせてください。 >秩序を形成することを黙認していた意図・・・ NO.1さんのおっしゃる通りだとおもいます。役所というものは自分達の手間のかからないように、何でも、できるだけ自治を奨励するものです。 ○○連合会という今の業界団体もそうです。弁護士連合会も(笑)。 牢内の囚人の揉め事に番人がいちいちかかわりあっていたら大変でしょう。 小生のような怠け者が牢番であったとしたら、囚人内で自然と秩序が形成されるのを見守りますね。 この質問で「作造り」という言葉を初めて知りました。掟についても知りません。 公然とした殺人はいくらなんでも取り締まると思います。 しかし、牢内の体制派にたてつく奴が出たら、みんなで四肢を押さえつけ、濡れた紙で鼻口を塞いで窒息死させ、自然死ということになった・・・このようなことはあったんじゃないかと思います。 「人権」なんて言葉がない時代です。悪いことをした奴はヒドイ目に会えばいい、当然だというのが、世間一般の思いでしょう。 江戸時代の刑罰規定も余りオープンになっていなかったと聞いています。秘密主義というのは人々の想像力をかきたて、実際よりも恐ろしいものとしてとらえられる傾向があります。 ひそかに洩れ伝わってくる恐ろしい噂・・・これが江戸時代の犯罪の抑止に大きく役立っていると思います。 今の犯罪者の人権尊重主義、明るい刑務所というのは犯罪の抑止力の低下につながっていると思います。獄窓記をハス読みしましたが、小生にとっては想像していたよりも明るい印象を受けました。 今後は「矯正」というのをもっと科学的に研究し、進めていかなければならないと思います。
お礼
>役所というものは自分達の手間のかからないように、何でも、できるだけ自治を奨励する おっしゃるとおりだと思います。その方が効率的ということなのでしょうね。 ただ弁護士会は少し事情が違うかもしれません。 ↓こちらの質問の#7に書きましたが、弁護士会は弁護士という職業柄、国家の干渉を排除する為の自治組織(弁護士自治・法定の強制加入団体)という点で、一般の業界団体とは違うかもしれません。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2841612.html >牢内の囚人の揉め事に番人がいちいちかかわりあっていたら大変でしょう。 狭い檻の中に何十人とひしめき合っていたら、体が当たったのどうのと揉め事も多発したかもしれませんね。 牢役人としてもイチイチ構ってはいられないという事ですね。 >悪いことをした奴はヒドイ目に会えばいい、当然だというのが、世間一般の思い 現在でも「人権」を強調すると叩かれる風潮がありますが、権利や適正手続というものは万人に、例え極悪人「にすら」、もとい極悪人「にこそ」保障されるから意味があるものだという事はなかなか理解されない事なのかもしれません。今の世の中でも人権を声高に叫ぶことは相当の覚悟が必要なのだと思います。話がそれました。 >江戸時代の刑罰規定も余りオープンになっていなかったと聞いています。 そうらしいですね。 江戸時代の幕府法は成文法主義を採らずに、慣習法・判例法などが大きな役割を果していたようです。それらも一般には公表されずに、幕閣と奉行、祐筆あたりが知ることができた程度なのでしょうね。 >ひそかに洩れ伝わってくる恐ろしい噂・・・これが江戸時代の犯罪の抑止に大きく役立っていると思います。 伝言ゲームではないですが、噂が噂をよび、どんどん恐ろしいものとなっていったのでしょうね。 >想像していたよりも明るい印象を受けました 私も一度読んでみたいです。 刑務所も一部民営化(官民共同運営)されるようですし、将来的にはアメリカのようにもっと開放的になるのかもしれないですね。 >今後は「矯正」というのをもっと科学的に研究し、進めていかなければならない そうですね。いろいろな理論も提唱されているようですが、まだまだこれからの分野だと思います。 ありがとうございました!
小伝馬町ですが、3~400人の未決囚を収容とありますが、その人員に対して、同心50人、下男(しもおとこ)38人での管理となりますと、当然人手不足であると思います。 24時間に対してのシフト勤務でしょうし。 「獄秘書」によりますと、牢役人と称する、11人の組織があり、一番えらいのが牢名主で、畳を10枚重ねた「見張り畳」の上に座って、牢内を取り仕切るとあります。 このような質問もあろうかと、連休前に本をたくさん借りておきました。
お礼
十枚も重ねた畳の上に鎮座すると気分も良かったのでしょうね。 遅かれ早かれ、皆、獄門台か八丈おくりになる運命でしょうから、束の間仲良くすれば良さそうなものですが、そんな牢内にも囚人同士で厳格な秩序を形成してしまう人間は面白い動物ですね。芥川の「蜘蛛の糸」ではないですが… 吉田松陰は野山獄で囚人達と読書会を開いていたということですから、やはり士分となると心もちも違ったのでしょうか。野山獄は独房という環境もあったのかもしれませんが・・・ 萩に行った時に野山獄跡にも立ち寄りましたが、思いのほか敷地が狭かったのでビックリした記憶があります。 http://yosidasyou.sblo.jp/article/3690406.html ↑こちらのHPによると、松陰は1年2ヶ月の在獄中、実に492冊の書物を読んだそうです。さすがは「象門の二虎」と称された人物だと驚きました。この泉の如く湧き出づる熱い想いが明治への原動力の一因となったのでしょうか。 >「獄秘書」 手にしたことはありませんが、演歌歌手と同姓同名の、元代議士が書いた本ですよね。氏は今は、累犯障害者の問題をライフワークにされているとか。 新入受刑者の2割が知的障害者だと言われていますが、我々の社会もこれ以上見て見ぬフリを出来る問題ではない事ですね。 刑事政策も、興味はあったのですが如何せん超マイナー分野でなかなか勉強する機会がありませんでしたが、これではいけないと思って、今年は卒業認定要件の単位はほぼクリアしていて余裕があるので、履修登録せずに刑事政策の講義に潜り込んでいます。小さい教室での開講なので履修者が少なくて、この人数だと教授に顔を覚えられそうです(笑) それにしてもお隣りが図書館というのは、まさに自宅の書庫代わりですね。某CMではありませんが、お金に換算できないプライスレスな価値で羨ましい限りです。 ありがとうございました!
補足
>演歌歌手と同姓同名の、元代議士が書いた本ですよね。 山本譲司氏の著書は「獄窓記」というタイトルのようですね。 アマゾンで「獄秘書」と検索して、これしかヒットしなかったのでよく見ずに勘違いしました。 失礼致しました。 根っからそそっかしくてすみません。
お礼
>つまり、○○を握りつぶすという一文が、実は、ありました。 >それが、どこまで、生命に対して危機なのかは、わかりません。 ただ間引くというだけではなくて、ボールを握りつぶすとなると私刑・拷問の様相を呈してきますね。 >牢とは、このように恐ろしいところであるから、入らないに越したことはないという、犯罪抑止力として、使われたのでは、ないでしょうか。 実際頻繁行われていたのか、牢の恐ろしさが口伝される中で犯罪抑止力として利用されたのか、浅学な私には判断がつきかねますが、作造りが事実であれ誇張であれ、当時の江戸町民の認識としては、牢はこの世とは思えない恐ろしい場所、生きて出られない事も珍しくない場所として認識されていたという事なのでしょうね。 >重要な街道に晒されたのは、抑止力という考え方と同じだと思います。 そうでしょうね。獄門は抑止力を狙ってのことでしょうね。 今も日本近隣の某独裁国家では街中で公開処刑が行われているそうですが、秩序を保つ手段として古今東西行われた手法ということでしょうか。 ありがとうございました!