いわゆる「超訳」について
著作権の点では問題ないのでしょうか? 「超訳」は、解りやすさや面白さを優先させるために原作を大幅に省略したりする一種の意訳のことを指すようです。 「超訳」と言えば、アカデミー出版から刊行されていたシドニィ・シェルダン氏の一連の作品が頭に浮かびます。 それらはシェルダン氏存命中に発行されたものですから、その「超訳」については、著作者であるシェルダン氏と版元の間で了解があったものと推察します。
ところが最近、コンビニでニーチェや仏陀の「超訳」本を見かけました。かなり売れているようです。
ニーチェや釈迦本人は勿論のこと、仏典を書き上げた弟子達が無くなってから、50年はとうに過ぎてます。 日本語現代語訳についても、翻訳者の死後50年は経っているのではないでしょうか。 故に、これらの著作物に関する著作財産権は消滅しているのでしょう。 従って、誰が出版してもかまわないと考えられます。しかし、いわゆる同一性保持権についてはどう考えるべきでしょうか? ニーチェや釈迦が「超訳」の許諾を出版社に与えるべくもありませんが、こうした「超訳」が原作の意味や表現から大きく飛躍または逸脱して、もはや別物というべき作品と化してしまった場合、著作同一性保持の立場から、誰がどのように対抗しうるのでしょうか? いわゆる学界の良識や出版界の商業倫理を問う以外にないのでしょうか。
また、上記のような海外の文献のみならず、国内の著作物についても「超訳」本が刊行されている例は少なくないように思えます。 その際、超訳者のオリジナリティや創作性が介在するのは仕方ないことでしょうが、その訳された(翻案された)結果が、たとえ原作の意味するところを辛うじて保持していたとしても、表現が著しく変容し、原作のそれを大きく毀損していると考えられるような場合でも同一性保持の立場からの対抗は困難なのでしょうか。
いわゆる古典の現代語版というものがあり、その入門書としての意義は大いに認められるでしょう。 ただ、その場合でも訳者の趣向が少なからず加味されているが故に原本の持ち味を損なっている残念な例もあります。
読み継がれるべき古典は山ほどあります。それこそ版元にすればネタには困らないのでしょうが、売らんが為の「超訳」本の乱発は混乱を招くだけではないのでしょうか。
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