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「超訳」について著作権の問題はあるのか?
- 「超訳」とは、原作を大幅に省略して解りやすさや面白さを追求した意訳のことです。
- 最近、コンビニでニーチェや仏陀の「超訳」本が売れていますが、著作権の問題はどうなっているのでしょうか?
- 超訳が原作の意味や表現から大きく逸脱し、別物と化してしまった場合、同一性保持の観点からの対抗は困難です。
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質問者が選んだベストアンサー
おっしゃるように、まさしく「混乱」を招いているのだと思います。 超訳はいわば、連載漫画の映画化とか小説の漫画化みたいなもので、原作にインスパイアされた別の作品ととらえたほうがいいのではないかと思います。それがなまじ「訳」と銘打って「本」になっているから紛らわしいのだと思います。 とはいえ、世界各地の研究者が集まって聖書を分析した結果、聖書の中で間違いなく事実であると断言できる記述はほんの数パーセントに過ぎないのだそうです。つまり、作品が古くなればなるほど、別の言語圏や文化圏で普及すれば普及するほど、いろいろな人のいろいろな解釈や意図がくっついて違うものへと変貌していくのは世の常ではあります。 一方で古典になればなるほど、誤った解釈を非難するのは、著作者ではなくファンになります。つまり、ファンがどんどん増えて、誤りを指摘して、その誤りや指摘が淘汰されていくのです。しかしながら、ファンというものは、必ずしも著作者の意図を正しく汲み取っているわけではありません。存命の著作者がファンの解釈を非難することも多々あります。 いずれにしても、超訳を排除することなんてできるのかな、とは思います。それこそ、表現の自由なわけで、排除しようとしたところで、誤訳交じりの非公式版が大量発生しかねません。それに、正確な翻訳のようなふりをして原作の世界観を完全に変えてしまっている翻訳版の多さを考えると、超訳だけを責めるのもどうなのかなとは思います。
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- tarohkaja
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質問者の危惧にも、また回答者の方々のご意見にも、納得も賛同もいたします。 そしてまた、雑誌「プレジデント」 の古典の簡約軽薄解説、その他の大人のなになにといった雑誌の古典書物や古典文化の解説の低俗化や誤謬も、見逃しがたい思いがします。
お礼
御回答ありがとうございました。 プレジデント誌もそのような俗解物を世に流しているのですか? あれを読んで、エグゼクティブや管理職の人が変な自意識を持って世に害毒を流さなければとの懸念を抱きました。 現代的感覚を注入しなければ古典というのは解釈が困難なのでしょうか。 あくまでも、違う世界での違った時代に於ける話であるとの前提は、読者にとっては高すぎるハードルなのでしょうかね。 ただ、突き放しすぎると、啓蒙書が与えるべき臨場感に欠けてしまうというジレンマもあるのでしょう。
- tachan28goo
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質問者さまの疑問、ご意見には基本的に賛成なのですが、 名著が絶版していく中、質問者さまもおっしゃられているとおり「いわゆる古典の現代語版というものがあり、その入門書としての意義は大いに認められるでしょう・・」というだけでも意義はあるのだと思います。そいう入門書が出版されなければ学者や専門家じゃないかぎりニーチェなんて読まれることはないでしょうし、そこで興味をもった方が専門的な訳本にあたっていけばいいのではないでしょうか。 「超訳」本の乱発も出版不況の中では止むをえないのではないでしょうか(出版社が無くなるよりは)。 わたしも、中村元の『龍樹』がなければナーガールジュナの「中論」なんて一生読まなかったと思います。 徹底した原著主義だと村上春樹訳の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』にみられるような訳者による解説が掲載できないという弊害もあります(村上春樹は柴田元幸との共著「サリンジャー戦記」でそのへんのところを述べています)。 柴田元幸が同著で述べているように「訳者は原作者の奴隷にすぎない」という真摯な態度に我々読者はかすかな希望をもつしかないのかもしれません。
お礼
御回答有難うございました。 私も、噛み砕いた表現で記された入門書がなければ、日本で書かれた低俗本に偏った読書習慣に陥ってしまったと思います。 実を言えば、そのような入門書の類に関しても、私は数多くの挫折経験があります。 翻訳調の文章には終に馴染めませんでした。 学識が勝りすぎている人が、それこそ原典に忠実であることを原理とした場合には、どうしてもそうなってしまうのでしょうか。 かと言って、分り易さを優先するあまり、登場人物の人格までが安易に翻訳されて、時代背景や現代との乖離がなどが見えなくなってしまうのは問題だとも思います。 「訳者は原作者の奴隷にすぎない」という姿勢は持っていただきたいと考えます。
指摘の思想・哲学書の古典の超訳版しかなければ憂慮するべき問題も大きいと思いますが、既存の訳書が難しくて読みにくい人にはよろしいんじゃないでしょうか。 児童文学全集にもこども向けに要約し直した海外名作や日本の古典がありますが、読んだ人がそれをきっかけに大人向けの正式版を読むこともあります。 ただ残念なのは、ニーチェの本なら昔は総合出版社の文庫本になっていて読もうと思えばいつでも読めたのが、いつの間にかちょっと難しそうな内容の本がニーチェに限らず文庫から消えた時期が続いたこと。光文社の古典新訳文庫が転換点の役を果たしたみたいですけどね。 実際には超訳(といっては語弊がありますが)のほうが人気でオリジナルを読まない場合もありますね。平家物語、太平記、三国志演義、水滸伝、源氏物語などの新作。戦国時代、幕末明治維新期の歴史小説。塩野七生のローマ人の物語。このあたりは後世の研究の成果を盛り込めたり、現代社会に生きる日本人読者向けに分かりやすく噛み砕いたりの工夫があればこそ読まれます。また強く惹かれるものがあった読者は新作も原典も機会に恵まれれば読む人が案外います。駄作、愚作、凡作は長い目でみれば自然淘汰される運命にあるのであまり気にならないと思います。ただし、論語や三国志随書東夷伝みたいに通俗書がとりあげて的はずれ、筋違いの解説のうけうりが横行すると厄介には思います。
お礼
御回答有難う御座いました。 現代人にも分り易くする工夫は大切だと思います。それを入り口として、読書の世界が広がり知識欲が向上すれば(出版社にとっても)それに越したことはないでしょう。ただ、工夫が無ければ読まれないということは、それだけ私たちの側に知的基盤ができていないことの証左なのでしょう。 しかし、教育を取り巻く環境を俯瞰してみると、子供がどの時期にそのような基盤を獲得できるのか、果たして親や教師にその手助けは可能なのかとの疑問も湧いてきます。 自国の古典からもすっかり断絶してしまい、自らの文化的基盤さえも揺らいでいる状況で、外国の、所詮は異文化圏の古典をその根本から理解するのは無理なのではとも思えます。 突き詰めれば、そんな基盤作りはもはや不要かも。 だからと言って、通俗書が的外れで筋違いの解釈を垂れ流している状況には悲しくなりますね。 せめて自国の古典については、不誠実な書物が横行しないように願います。 回答者様が仰るように、「駄作、愚作、凡作は長い目でみれば自然淘汰される運命にある」のであれば心強いのですが。
お礼
御回答ありがとうございました。 キリスト教徒にとっての現代の聖書は、たとえそれが原典とは表現や内容が異なっていたとしても、その解釈が今後大きく変化したり、所謂”超訳”が登場して従来のものを凌駕し圧倒してしまうとは考え難いでしょう。 多くの人の目に晒されているが故に、突飛な解釈など跳ね返されてしまうでしょう。 コーランの場合なら尚更でしょうね。 ただ、それ以外の、”題名は知られているけれども、その内容までは深く幅広く浸透しているわけではない”ような古典には”超訳”が忍び寄る恐れはありますね。 それが異文化圏へ”輸出”される場合には、その恐れは更に強まるのでしょう。 仕方ないことなでしょうけど、本来ならばそうした古典とは知力をふり搾って格闘すべきなのに、通俗化された磊落版で安易に理解してしまっては勿体ないように思えます。 ただ、そうした新解釈がより強い影響力を持ってしまう状況が存在しているのなら、そっちの勝ちという気もします。