ううううーーーん・・・
参考程度でいいから、ひとまず情報の一つとして聞いてくださいね。
>アメリカのカバラ・センターというところでゾハールなどが販売されてました。
古代ヘブライ語ではなく、アラム語で書かれたものですよね。
(確か、一部の地域では今でもアラム語を話す人がいるのだとか。)
えっとですね・・・・。
まず、そのサイトを訪れてみました。
赤い紐を販売しており、アメリカではブームのようですが、、、、、
恐らくそれ、、、、経血のことだと思います。
カバラは、精神世界と物質世界という概念があり、人間はその中間にいるわけですよね。
両方持っている。
そして、上位世界にいくってことは、精神世界オンリーなわけです。
肉体を持たない、人間じゃあない。
さきほどまで、エヴァギャリのオープニングをyou tubeで見ていました。
主人公のシンジは精神オンリーの世界を求め、「みんな 死んでしまえ!! 俺も死んでしまえ!!!」でした。
死へ向かっており、青。
アスカは「何がなんでも生きる!!!」です。
にもかかわらず、人間が作った永遠の命を持つ天使によって食われてしまうのですが、最後の最後まで「そのためには自分を殺すものを殺してでも生きる」で生の源 つまり 赤のシンボルなわけです。
赤と青は一番相性が悪いので、二人も相性最悪。
そして、シンジは消滅を望み、赤に還元された。と。
血が意味するものは、女神の生命のスープ。だと思うんですね。
そしてその某センターは、その女神のスープに全人類を還元しようとしていると思えました。(あくまで私個人的にですが)
結局 「我々の宗教を信仰しないやつらは全員地獄行きだ」と教える某宗教と一緒。
しかも、全人類を救済するためと称して、正義と平和という言葉を看板にして、各国から核兵器を取り上げながら、抵抗する国には冤罪を着せ戦争をしかけて破壊し、自分の国では全人類救済のためとして、核兵器の開発にいそしんでいて、信者はその殺人兵器の開発を全力で後押ししている。
なにをかいわんや・・・・です。
いくら 平和だ 愛だ 正義だと言っても、実質全人類滅亡への死の木を歩んでいる。
木が逆さまだと知らないで、ずんずん上っていっていると思えた。
人間とは、天と地の狭間すものですよね。
両方持っている。
天化、つまりシステム化してしまったら、ロボットです。核兵器です。
人間を捨て核兵器になる。 実に愚かなことです。
前、紹介した本の内容を書きます。
主人公の名前はアリー。敬虔なユダヤ教のハシディームです。
対する彼の父親は考古学者です。安息日すら守っていないユダヤ人です。
『もとはと言えば、1947年4月の朝のことであった。はじめに1947年4月の朝があった。とも言える。だが、実際はもっとずっと昔に始まっていた。
2000年以上の前の昔に・・・。
紀元前200年、モーセの五書すなわち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、そのトーラー、その戒めに独自の解釈を与える敬虔なユダヤ人のセクトが生まれた。
それはエルサレムのユダヤ教最高法院を激烈に批判し、神殿の祭司達の放任主義またはその精神的腐敗を告発するラディカルなセクトであった。
セクトの信者達は他のユダヤ人とは相まみれようとはせず、社会の”外”に生きようと欲し、死海のほとりのクムランの荒涼とした土地をすみかとして選んだ。共同体のすべての富は共有物と定められたが、それは共同体のメンバー各々が独立した修行生活を営むことを目してのことだった。
子音だけで書かれているヘブライ語を「声」にする時、子音字の方に母音をひきつけるためには、人が戒律を実践する時のごとくに、多くの待望と欲望が必要なのである。
(青が赤にひきつけられ実体化する)
欲望がなければいかなる行動もありえないとまったく同様に、潜勢態にある言葉が現働するためには、つまり見えないものが見えるおのになるためには、欲望の果実である母音によって言葉が物質化されねばならないのだ。
(ちなみにエヴァギャリの主人公の父親の名前は ゲンドウ)
父が私に教えてくれたことによると、文字が初めて近東に登場したのはおよそ紀元前3000年はじめで、それは祈りのためでも、精神的な作業のためのものでもなく、行政的要求からであったそうだ。
その文字が叙情的、叙事的詩等の言語芸術の構成分子として用いられるようになったのは、せいぜい紀元前2000年頃からなのである。
そして父親はとんでもないことを教えてくれたのだ。
モーセは自ら律法を書いたことなど一度としてなかったという事実である。
「でもお父さん、律法はモーセが神の声を聞いて書いたものだよ。申命記にちゃんとそうかかれているもの」私は言った。
「その申命記には神が自らの指で岩に刻んだとも記されている。”それを『私』に授けられた”とはっきり書いてあるよ」
「モーセが律法を書いたということはありえんな。というのは律法が人の手によるものだと考えるにはあまりに文体が変化しすぎているからだよ。少なくとも三者の手になるものだ。法学者、エロイスト、ヤヴィストの三者のね。」
「でも律法のテキストが普通の人間達によって書かれたものだったら、啓示にはならないんじゃない」』
とまだまだアリーの父親の説明は続きますが、、、、文字の歴史についてまだまだ彼は言っています。
口伝の役割、そしてもともと口伝だけだったものが何故ヘブライ文字によって刻まれたのか?
記憶を保存するためだけじゃあない。
口伝を完全にするために使われた。
ということで、文字の歴史が書かれています。
あなたは、英語なり、アラム語の文字を見ようとしている。
読めるだけじゃあ駄目なんです。
記憶を持っていなければ読めないんです。
例えば、外国語の歌ありますよね。
真似ることができるし、その意味も知ることができるでしょう。
でも、その歴史を生きた人と、全く第三世界の人では、その歌の重みが全然違ってきますよね。
本物と物まねの違い。
真似ることはできても、それ(本質)は知ることはできない。
何故なら記憶を持っていないから。
忘れたのではなく、最初から無い、無いものは引き出せない。
借りてきたところで、所詮拝借したものにすぎず偽者です。
女神の経血のアクセサリーを手に入れて、女神気取りになったところで偽者ですよね。
古代の人は、なんとか女神と同じになろうと、女装したそうです。
赤い布を使って女神を模す行為をしていたらしいです。
現代の赤い紐を手に入れて嬉々としている人々も、所詮 女神のまねをしているだけ。
その某センターのメンバーは男性の同性愛者が多いのだそうです。
女神になりたがる男性たちが多いってわけですよね。
創造主になりたがる人たちなわけです。
絶対的な者になろうと形から入っている。
性転換をしたりして、外見が変わったところで、生理は起こりません。
生命を創造できません。
妊娠もできませんし、出産もできません。
精神的になったつもり? でも現実は男のまま。
生命をはぐくみこの世に排出できません。
小説の冒頭で、主人公のアリーは救世主とされたラビを殺したことを告白しています。
何故アリーはラビを殺したのか。
2巻目の最後の方で、赤から切り離される(まるでへその緒を断ち切られるかのような情景)アリーが描かれています。
そして神を呼び出す儀式をはじめる。
つまり神の御前に出るわけです。
大衆者と呼ばれる人々を従えて。
アリーは神の前で大贖罪をはじめることになる。
神を呼び出すということは、神が現れ裁かれるってわけです。
裁きの結果 アリーは殺されるかもしれない。
ここで第二巻が終わった。
アリーはシステム化してしまうのか・・・・。
第三弾で明らかになるのかもしれないが、出ないんですよ 日本語訳も英語訳も。
とまあ、つらつら書きましたが、あくまで私個人的な見方なので、聞き流してくれてもいいです。
お礼
ご回答有難うございます。どうやらカバラーは日本にはないようで、アメリカのカバラ・センターというところでゾハールなどが販売されてました。