frauさま、
私は今までの色々な経験と勉強から
「自分の周りで起こること又は自分が見聞することは、全て自分自身の内面の何らかの反映である・・」と思っています。
言い換えれば、私の周りに登場する人物達は、家族も友だちも行きずりの人も含めて、私の内面のある部分を表現して見せてくれている・・」と思っています。
勿論、相手との関係の濃淡によって重要度はちがいますが。
自分自身が認めたくない自分の内面のある部分・・自分の性格の至らない部分・・
人の性格や行為のある部分をいつも強く批判していたところ、実はそれこそが自分も持っており、しかも現在の困難の原因になっている性格や行為上の欠点だと気付くことがよくあります。
だからこそ無意識に気になり、こだわり、強い拒否感を抱いていたのだ・・と気付くのです。
このときのその批判相手は、私自身にとっては真実を見せてくれている重要な役回りをしてくれているのです。
全ての困難は、実は自分自身の内面の問題であって、外的に被害者のように思えても、根本原因は自己の内面からきていることに気付くことがよくあります。
ですから、すべての事象(自分にアピールしている事実)は、自分自身にとって意味があることであり、自分でその事象を他より強く認識することを好んで選んでいるのです。
このようなことから偶然は存在せず、すべて成るべくして起こっている・・
つまり、自分自身で引き寄せている・・と感じております。
そしてその事象の根本原因は過去と現在の自分自身だと思っています。
言い換えれば、現在の自分次第で未来は心地良くも、不快にも成り得る・・ということです。
すべての困難と苦しみから、自分にとって未来に役立つ何か・・苦しいからこそ貴重な経験から得ることが出来た将来役立つアイテム・・を手にすることができる・・と信じます。
苦しみと困難を自分にとってプラスのエネルギーに変えることが出来れば花丸大正解です。
それでは、何が何でも頑張って自分の未来を明るく変えていこう!・・と決心します。
そのために為すべきことは・・・
昔からあらゆる宗教や教えに尊い言葉が述べられています。
最近、心から感動」した言葉の一つに「聖フランチェスコの祈り」があります。長いですが紹介します。(私は特にクリスチャンと言うわけではありません)
「聖フランチェスコの祈り」
私をあなたの平和の道具としてください
憎しみのあるところには愛を
諍いのあるところには許しを
分裂のあるところには一致を
疑いのあるところに信仰を
誤っているところに真理を
絶望のあるところに希望を
闇に光を
悲しみのあるところに喜びを
もたらす者としてください
慰められるよりは慰めることを
理解されるよりは理解することを
愛されるよりは愛することを
私が求めますように
私たちは与えるから受け
許すから許され
自分を捨てて死に
永遠の命を頂くのですから
お礼
>「自分の周りで起こること又は自分が見聞することは、全て自分自身の内面の何らかの反映である・・」 ようやく、それを実感、受け入れられる心境になってきました。 聖フランチェスコの詩、感動しました。いや、本当に心底感動したんです。 でも同時に正直「キレイゴトじゃあないか、誰しもフランチェスコのような聖人になれば神様に近くなるけれどそれにはとうてい及ばないのだから」とも思いました。でも絶望の先の希望のことをうたっているのかもしれない。もしかすると「絶望」とは利己主義の終焉であり、その先にあるのが愛を待つのではなく与えるときが「永遠の命を頂く」とき、そして神に受け入れられるということでしょうか。また業の連鎖の途切れかもしれません。 言い換えれば「身を捨ててこそ浮かぶ世もあれ」!?なのかなあとも(笑)。 >全ての困難は、実は自分自身の内面の問題であって 本当にそう思います。でも人ってそれを対外的なもののせいにしたがる。そうしている限り進歩はないし、何しろ問題解決にはなりません。すべての現象(結果)には原因があり、不条理なことであればあるほど何か目に見えないものに求めるのは仕方なく、でも案外自分の直接的、近時的な言動こそが真正面に向かい合っている問題の要因となっていることが多い。連鎖を打ち切るのは、tokytime様がおっしゃられるような素直さ、真摯さに鍵があるのかと思いました。 ご回答ありがとうございました。