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涅槃(=無)が最高なのか?

 仏教で涅槃(=無)が最高と聞いたんですが。私にはどうしても無が最高に思えないのです。  快楽は執着を生み、その執着によって苦が生じるから、快楽を得ることを考えるよりも、快楽を得ない涅槃が最高だと考えたんですが、もっと快楽を感じたいと思い、涅槃が最高と思えないのです。  どうすれば、涅槃が最高という考えを持てるのでしょうか?

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回答No.15

考え方にいろいろあると思いますが、 涅槃 = 無 という意味は、 人間の「心を波の状態」を表現しているように思います。 人間はいろんな事に対して反応し、感情が高ぶったりし、 心の波が大きく揺れる、そして、苦しいという状態になることが よくあります。 快楽とは、ほどほどならいいかもしれませんが、あまり のめりこむと、そこから抜け出せなくなります。 のどが渇いて、海水を飲み、さらにのどが渇く、という状態に近いです。 なので、もちろん、心がそのことに囚われ苦しい状態です。 涅槃の境地とは、心が穏やかで、全く波立たず、しーんと静かな心境です。全く囚われのない心境。 ですから、涼しい心境というか、心地よい心境が 「涅槃 = 無」 と思っています。 

spitzer3
質問者

お礼

>涅槃の境地とは、心が穏やかで、全く波立たず、しーんと静かな心境です。全く囚われのない心境。 ですから、涼しい心境というか、心地よい心境が 「涅槃 = 無」 と思っています。  涅槃が最高っていう感じがしますね。回答ありがとうございました。

その他の回答 (18)

noname#117439
noname#117439
回答No.8

「煩悩」、特に欲望を自らが生み出すものと勘違いしているから「無」が納得できないのだと思います。 「煩悩」とは絶対悪であり、非人間的衝動です。 仏(真に人間らしい姿)となる資質を持って生まれたわれわれ人間とは相容れない感情です。 判り易く言うと、悪魔と無意識のうちにに契約を結んでしまっているのです。 ちなみに当方は無の境地までとは行きませんが、頭を真っ白にして何も考えない状態になれます。 そうすると自らが生きて、そして存在することに喜びを感じます。 ただし少し油断すると自らの心の奥底にまだ煩悩があがく気配を感じ、そんな喜びが打ち破られます。

spitzer3
質問者

お礼

>ちなみに当方は無の境地までとは行きませんが、頭を真っ白にして何も考えない状態になれます。 そうすると自らが生きて、そして存在することに喜びを感じます。 確かに考えると辛くなりますね。アドバイスありがとうございます。

  • ANASTASIAK
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回答No.7

突きつめて考えれば、無以上のものがあると思いますか? 無は最高の価値観です。 それを悟ることは誰にでもできることではありませんが。

spitzer3
質問者

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>突きつめて考えれば、無以上のものがあると思いますか? やはり、ちょっと無っていうのは、嫌なんですよね。なんというか、動き続ける方がいいと思ってしまうんで。

  • lightgrid
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回答No.6

仏教において最高のものが「無」である、と考えるのは誤解です。 お釈迦様は、全ての執着を切って「涅槃」に至ることが最高である説きましたが、涅槃とは、「無」ではなく、「空」を悟って全ての執着(煩悩)を切った境地です。 又「仏陀」とは、空を悟って、人間としての全ての執着(煩悩)を切った人のことです。 「空」とは、ものごとが因縁によって「無」と「有」の間で変化する法則を意味します。 人間は、「有」(ものごとに)(例えば、地位、名誉、金、権力、快楽、生)に執着します。「空」は、それが別のものに変化したり、なくなったりすることを意味します。 したがって、「有」(ものごとに)に執着しても、それは永遠に存在するものではなく、因縁によって変化したり無くなってしまうものなので、人間はその変化に対して「苦」を感じます。 全てのものごとが、「空」であることを悟れば、どのような人生の変遷にも動じることなく、逆境にも苦を感じることなく、楽に生きることができます。 全ての執着を切ることは大変困難ですが、その執着を切る方法を説くのが、仏教でありその方法として修行(霊的な修行)があるのです。 この修行法は、南伝仏教上座部の阿含経に伝えられています。

spitzer3
質問者

お礼

>仏教において最高のものが「無」である、と考えるのは誤解です。 仏教の最高が「無」ではないというのが分かりました。回答ありがとうございます。

noname#69788
noname#69788
回答No.5

苦も快楽もなく平穏な世界は、最高だと思います。

spitzer3
質問者

補足

>苦も快楽もなく平穏な世界は、最高だと思います。  でも、やっぱり、何かを感じたいんですよ。苦も、快楽もしない感じを感じたいんです。

回答No.4

涅槃(サンスクリットのニルヴァーナ(nirvana))は、吹き消すという意味で、本来、煩悩を滅して絶対的な静寂に達した状態を指します。(広辞苑) 涅槃は衆生の悟りとして語る場合と、釈尊の生涯に重ね合わせて語る場合とがあります。 さらに、spitzer3さんが質問されたように虚無主義的に受け止められる原因などが下のURLに簡単に載せられています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83 通仏教的にも本来、涅槃は煩悩の束縛から離れ全く自在の活動態であり、能動態であり、智慧と慈悲の完成を指します。 浄土真宗の門徒しての私は、まず『歎異抄』九条を思い浮かべます。 「念仏申し候へども、踊躍歓喜のこころおろそかに候ふこと、またいそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらんと、申しいれて候ひしかば、親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。よくよく案じみれば、天にをどり地にをどるほどによろこぶべきことを、よろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふなり。よろこぶべきこころをおさへて、よろこばざるは煩悩の所為なり。しかるに仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫と仰せられたることなれば、他力の悲願はかくのごとし、われらがためなりけりとしられて、いよいよたのもしくおぼゆるなり。また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく候ひなましと[云々]。 非常に大雑把な大意ですが、 「浄土に生まれ悟りを得ることに、飛び上がるほどの歓びがおきません。」 「私もそうだよ。唯円あなたもそうでしたか。天地に踊るほど歓ぶべきことを歓べないのは、よくよくの煩悩のせいだと思います。そこまで見通した上での阿弥陀仏の本願により往生は本当に確かだと、心強く思います。 煩悩まみれの世界は恋しくて捨てがたく、まだ見ぬ悟りの世界は行きたいとも思わない、よくよく煩悩が盛んなんだな、と思わされます・・・・」 縁によって結ばれたもの、自分の財や身体や知識までも自分の所有物と思い込みそのことに執着して新たな苦しみと不自由が生じる。 知識や財そのものは善でも悪でもない、執着による煩悩が不自由と苦しみを生み出していく。 その執着を超えた自由自在な活動態を示すことばが、涅槃だといえるのではないかと思っております。 大変大雑把ではありますが。

spitzer3
質問者

補足

>通仏教的にも本来、涅槃は煩悩の束縛から離れ全く自在の活動態であり、能動態であり、智慧と慈悲の完成を指します。 能動態なんですか。勉強になりました。でも、無余涅槃となると、大宇宙が永遠に常住し、永遠に動かないと能動態とならない気がするのですが。どうすれば、大宇宙が永遠に常住し、永遠に動くことをどうやって証明すればいいのでしょうか?

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.3

五欲というのがあるでしょう、 食欲、性欲、睡眠欲、金銭欲、名誉欲なんですね。この世では、これらがないと生きていけないんですね。 だから悪いものではないですね。でも仏神の世界ではこれらはまったく不要なものなのですね。あの世の仏神の世界では、欲と呼ばれるものは何にもいらないということなのです。逆に言えばこの世の欲がある限りあの世の幸福感は得られないということです。 仏神の世界は、えもいわれない幸福な世界です。この幸福を生きたまま体感するのが生きた涅槃の境地ですね。この世の価値や欲を捨てさって得られた幸福感がこの世の快楽をはるかにしのぐということなんです。 これは、体感するか信じるしかないことですね。どの価値観、幸福感に立脚するかの問題でもあるわけですね。 解脱や涅槃の結果が何もないわけじゃないですよ。生きながらあの世の大いなる幸福を感受できるから意味があるのですね。

spitzer3
質問者

お礼

>これは、体感するか信じるしかないことですね。 座禅とかして、体感すればいいのかもしれないですね。体感の必要性を感じました。回答ありがとうございます。

  • vrtemjin
  • ベストアンサー率39% (28/71)
回答No.2

一応仏教系の学校に通い、宗教について学んだものです。その内容を自分なりに解釈したところ、涅槃に関する釈尊の教えとは以下のようなものだそうです。 欲望も快楽も悪いものではありません。ただ、それらに執着して振り回されると苦しい、というただそれだけのことです。苦痛も快楽も、一見自分の内から生じているように見えても実際は外界(色界)からもたらされた実態のない幻にすぎません。涅槃とは苦痛も快楽も欲望も何もかもをただあるがままに感じ、受け入れることのできる状態であり、そうなってしまえば、苦しみも執着もない状態になる、ということだそうです。 苦しみを避けたいとい思いも、快楽を得たいという思いもそれ自身は単なる生理現象であり、それらを善悪のカテゴリーで分けることは単に言葉の上でのことでしか意味はない。 むしろ涅槃を最高であると思い込もうとする行為自体が執着であり、涅槃をよいものと感じられない自分を素直に肯定することこそ大切であり、そしてそれが真の涅槃に通じるのだそうです。 ようするに快楽を追い求めたいと感じているのなら、そう感じている自分をそのまま受け入れることが涅槃に通じるのです。 快楽が執着を生むから快楽は悪であるという考え自体が執着です。 そもそも釈尊が涅槃に到達できたのは、悟りを開きたい、衆生を救済したい、という強い欲望と執着があったからこそであり、また、悟りを開いた釈尊はかつて無い宗教的快楽に包まれたそうです。 長くなりましたが、最後に一つ。日本の昔のお坊さんの言葉です。 「苦しいときはただ苦しめばいい。楽しいときはただ楽しめばいい。そうすりゃ気楽に生きていける。悟りだの涅槃だの知ったことか」

spitzer3
質問者

補足

>涅槃とは苦痛も快楽も欲望も何もかもをただあるがままに感じ、受け入れることのできる状態であり、そうなってしまえば、苦しみも執着もない状態になる、ということだそうです。  確かに宇宙が人間にとっていいようにはできていませんからね。しかし、そう思っても嫌なんですよ。  宇宙が消滅せず、永遠に動き続ける場合はこれでもかまわないんですけど、なんか宇宙が消滅または、永遠に静止状態になるとこの考え方がきかなくなってしまったんです。

  • sirowan777
  • ベストアンサー率14% (270/1906)
回答No.1

これは「最高」を突き詰めると「0」になるという考え方ですね。 数学でも∞と0はよく似た働きをします。 (極限の考え方など) 数値化できる快楽には、まだまだ上があるということです。

spitzer3
質問者

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>数値化できる快楽には、まだまだ上があるということです。 これは快楽がいいということなっちゃうんじゃないでしょうか?

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