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大般涅槃経について
私は今大般涅槃業について勉強しています。如来性品第4の文中にある「又解脱とは不空空と名づく。空空は無所有と名づく。無所有とは、即ち是外道・尼けん児(「けん」はうしへんに健康の健という字。ジャイナ教のこと)等の計する所の解脱なり。而も是の尼けんに実に解脱無し、故に空空と名づく。真の解脱は即ち是の如くならず、故に不空空なり。不空空は即ち真の解脱なり。真の解脱は即ち是如来なり。」をわかりやすく説明できる方はいらっしゃいますか?わかるようなわからないような。仏教における解脱はジャイナ教で説かれている解脱と同じなのでしょうか?
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- neil_2112
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まだ勉強されていますでしょうか? 過去ログを見ていて見つけましたので、遅れ馳せながらコメントさせてもらいます。 まず、大般涅槃経のスタンスとして、有限・差別の現実と、常住・平等の仏性との関係を述べるものであることに注目してください。同じ如来性品には例えば、迦葉と釈迦の問答もありますし、また牛乳の発酵の様を用いた譬えも出てきます。これらの意味するところは、現実と仏性は別のものとしてあるのではない、この現実に仏性を開発していくのだ、という立場(いわゆる仏性開発説)ですね。 この視点から質問の個所を見ると、 「空空」は後でジャイナ教のとるスタンスとして出てきますから、いわゆる十八空のひとつとしてではなく、文字どおり「空と空」つまり全てを空と見る姿勢を表すのでしょう。 このように考えると、次に出る「無所有」も、シマーティガ(煩悩を乗り越えていること)でなく、ナースティトバ(何もない)という意味と理解できるでしょう。 従って、大体の意味は 「また解脱とは全部が空だ、全てが相対的だという立場を超えることだ。全てを相対化するのはジャイナ教のいうところの(不定論という)解脱でしかない。このような立場のジャイナ教には本当の意味の解脱はない。本当の解脱はこのようなものでなく、如来(法)をさすのだ」 という風に受けとめてはどうでしょうか。 ジャイナ教は、全てを関係論のなかで理解しようとしますから、涅槃教の説く、この世に仏性を顕現させていこうとするポジティブな空観とはあい容れないのでしょう。
表面的な解釈ですが、こんなレベルの回答で間に合うのでしょうか。涅槃経も読んだことも無いのに。 ●文章の構造は単純ですよね。 <真の解脱>=<不空空>=not<空空> <ジャイナ教で説かれている解脱>=<無所有>=<空空> 従って、<真の解脱>≠<ジャイナ教で説かれている解脱> そして、<真の解脱>=<如来> ●<解脱>の定義を説明した一節でしょう。 仏教では微妙で難解な概念Xを説明するとき、「XとはAでもなく、Bでもなく、Cでもなく…」と定義していく場合があります。この場合もそれでしょう。 涅槃経が書かれた時点で<解脱>という言葉には手垢が付いていますから、この経典にいう<解脱>は「これ」と明確に示さねばなりません。 それを一言で言えば<如来>なのですが、そう言い換えたところで分かるわけでもない。しかも、<解脱>のような微妙で難解な概念は積極的な定義が難しい。 そこで、「XとはAでもなく、Bでもなく、Cでもなく…」と消極的に定義するわけです。 ●<空空>とは例えば「大智度論」では「内身・外竟ともに空であり、その空であるという概念も空である」と言う意味ですが、果たしてそういう文脈かは定かではありません。 まあ取りあえずは単にジャイナ教の解脱ではないということを言うための仮概念として理解してもよいかもしれません。 そもそも、「大般涅槃経のいうジャイナ教の解脱」概念と「ジャイナ教のいうジャイナ教の解脱」概念は異なりますから、ここの意味を確定するのはかなり厄介です。 ●<如来>はこの文脈では、般若経にいう<般若>のような雰囲気で理解しておけばよいのでしょうか。 大乗仏教は、ある意味で<無常>を否定しますから(常住仏身)、それが外道思想への思想的後退でないことを示さねばなりません。 そこで、それは<如来>に到達した上での否定であり、むしろ<無常>の超越であると言いたいのではないでしょうか。
お礼
回答ありがとうございます。
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