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脳科学と意識について

カテ違いだったらすみません。 脳科学では意識を説明できていないと言う事を聞きました。 また、別次元(副産物)と断定付けているとの事でした。 これは事実なのでしょうか。事実だとしたら何ゆえ説明できないのでしょうか。そして別次元と断定できる証拠のようなものはあるのでしょうか。 なるべくわかりやすくご説明していただけると助かります。 よろしくお願いします。

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  • ruehas
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回答No.16

こんにちは。 ANo.2です。回答をお読み頂き、ありがとうございます。 >意識と無意識の違いはそんなに重要なのでしょうか。そこら辺をもう少しご説明していただけないでしょうか。よろしくおねがいします。 そうですね。 説明不足をお詫びし、もう一度整理をさせて下さい。 この場合、ご質問に即して最も重要なことは、意識と無意識の違いそのものではなく、その違いを生理学的に特定することができないということです。 従来、哲学や心理学では、我々の心理現象は意識・無意識を始め、喜怒哀楽、感情・理性など、様々な概念で扱われており、そして、心理現象といいますのはこのような分類の可能であることも事実です。ですが、心理学的には分類することが可能なのですが、現在の脳科学によって解明された実際の脳の解剖学的・生理学的メカニズムは、このような分類とは必ずしも対応しません。対応させるはずだったのですが、そうでないものが判明してしまったということでしょうか。 本能行動や情動行動のような無意識行動だけであるならば、それは中枢系の反応に基づく結果出力という生理学的機序と完全に一致します。ですが、我々の行動選択には、このような反応の結果や、知覚できない未来を予測した意識行動・自覚行動というものがあります。そして、現象としては分類が可能であるにも拘わらす、脳内にはこれに対応する解剖学的な実体はありません。では、無意識が意識となるのは反応の結果が出力されるだけでなく、その情報が何らかの形でフィードバックされるからです。ならば、この違いは何かと言いますならば、それは単に「大脳皮質におけるより複雑な情報処理」としか解釈することができないわけです。これが前回答の内容ですね。 このように、科学という立場に立つならば、分類が可能であるのも拘わらず実体が存在しないものは概念として扱う以外にないわけです。ですから、ANo.15さんがご紹介して下さいました「随伴現象」や「クオリア」といったものは、逆にこのような脳科学における解釈を前提として生み出された「新たな分類・概念」ということになると思います。出元がここなのではなく、そもそも脳科学がそういう立場に立っているわけですね。そして、当初のご質問は、それがどうしてなのかということですよね。 では、今回の質問者さんのご指摘は、様々な概念的分類において、どうして「意識」というものだけが別格な概念なのかということで宜しいでしょうか。 「意識という概念」は、他のものと比べるならば間違いなく別格です。 例えば、「理性という概念」であるならば、これは実体のない概念以外の何物でもないことは歴然とした事実です。何が理性的であるのかというのはその社会のルールによって決定されることですから、我々の脳内にこの理性行動と対応する解剖学的な構造というのは間違ってもありません。ですから、哲学的、あるいは道徳的には分類が可能ですが、生理学的には、それは大脳皮質の計画行動と分離し、分類するということはできません。 これに対しまして、「感情」というのは大脳辺縁系の情動反応によって生み出されるものであり、脳内にその解剖学的な実体の存在することが既に確かめられています。感情とは、大脳辺縁系の情動反応に伴って我々の身体に発生する様々な「情動性身体反応」の表出パターンが分類の可能になった状態を言います。 大脳辺縁系に発生した情動反応が「青斑核A6」に出力されますと、「NA(ノルアドレナリン)の広域投射」によって脳内の覚醒状態が一気に亢進され、行動選択、及び実行の可能な状態が整えられます。同時に、これが「快情動」であった場合は「腹側皮蓋A10」から前頭前野に対する「DA(ドーパミン)投射」が行われ、満足感や幸福感が発生します。では、「不快情動」である場合は「A10」は反応せず、「中脳中心灰白質」の反応特性に従い、それは怒りや悲しみに分岐してゆくのではないかと考えられています。ですから、「喜怒哀楽」といいますのは、大脳辺縁系を中心としたこのような神経伝達経路に従う身体反応の表出パターンに対する分類であり、生理学的実体に対応した概念ということになります。 もちろん、我々の情動といいますのはもっと複雑で繊細なものですから、これで解明されたとは逆立ちしても言えませんし、前回答でも申し上げました通り、理性にしても感情にしても、どうしてそれぞれに異なる結果として現れるのかに就いても全く分かっていません。 このように、心理現象の概念的分類には脳の実際の生理学的構造と対応するものとしないものがあります。ですが、「意識」だけは別格としまして、「理性」と「感情」、この全く性質の異なるものにも「外省」という、明らかに蓋然的な共通点があります。 それが理性的な行動であるかどうか、 そのひとは怒っているのか喜んでいるのか、 理性にしても感情にしても、それには客観的な判断の基準というものがあり、どちらも「外省」によって判断・分類をすることが可能です。従いまして、では、何故「意識」が他の概念とは別格でなければならないのかと言いますならば、それは外省ではなく「内省」であり、取りも直さず、これが意識というものの性質そのものであるからです。 「外省」といいますのは、その結果やプロセスを「客観的な規準」に基づいて評価するということです。ですが、「内省」であります以上それは、 「入力―情報処理―結果出力」 このプロセスを司るシステム自身がそのプロセスや結果を「主観的な規準」によって評価していることになります。このような情報処理に対応し、機序できる脳の生理学的構造は未だ何ひとつ特定されていませんし、果たして、脳以外にこのようなシステムはこの世に存在しません。そして遥か古来より、哲学、心理学を通してこの問題が解決されたという事実は人類の学識史上一度もなく、逆に脳科学に至っては、それが科学であるがために全くのお手上げということになっています。 このように、「意識」というものを概念として扱うならば、それは他のものと同じことです。ですが、「その性質だけは全くの別格」、これだけは、そう捉える以外にないと思います。 そして、私が意識・無意識を例に取りましたのは、無意識行動という行動の選択、及び実現が可能であるならば、我々動物の脳内に意識というものが発生する必要はないということです。もちろん、意識というのはより複雑で価値の高い選択を行ない、知覚入力では得られない未来の結果を予測するために発生するものです。では、「入力―情報処理―結果出力」というこのシステムの何処にその違いがあるのでしょうか。この辺りが、前回答では私の説明不足であったのではないかと思います。たいへん申し訳のないことであります。

shift-2007
質問者

お礼

お礼が遅くなり申し訳ありません。関連する用語などを調べながら読み進めていますので、もうしばらくこの投稿は開いたままにさせてください。また質問させて頂きたい点が出てくると思いますので、その時はおつきあいいただけると助かります。 再度のご回答ありがとうございました。今後もよろしくお願いします。

その他の回答 (16)

  • kanpyou
  • ベストアンサー率25% (662/2590)
回答No.6

真面目な討論中、水を差すようで申し訳ないのですが、『意識』という言葉をどの様に捉えているのかという疑問が生じましたので・・・ 基礎心理学でフロイトがいうところの「意識」は、知覚、感覚器官での情報を、総合的に認識、知覚している状況を『意識』といい、身体内部からの働きかけで、本人が自覚していない状況/その働きかけを「無意識」と呼んでいます。 脳科学でいう所の「意識」とは、「自己意識(自己同一感)」または、心理学でいうところの意識の内、注意を傾注している状況の「注意意識」を表します 各研究者により、その定義は異なるのですが、shift-2007 さんが想定していらっしゃるのは、それらの内の「自己意識(自己同一感)」だと思います。 自己同一感、自己統一性など呼び方はあるのですが、各感覚器官から情報が、脳へと伝達されます。しかし、ただ知覚しただけでは、次々と送られてくる情報が錯綜し、脳が混乱してしまいます。そこで、物理情報を化学情報に変換し、飽和状態を作り出したり、伝達不能の状態にしたりしてうまく調整しています。 つまり、最終的に、さまざま場所からその対応する脳部位へと伝達されても、それら一つ一つの情報を統合して認識しなければなりません。 その、統一されたものを意識(自己意識)と呼ぶのです。 確かに、検査技術などが飛躍的に発達すれば、「現在の状態」を明確にすることは可能(技術的に可能という意味ではなく、空想的な理論として)でしょう。しかし、精神は、それら典型的なものばかりではなく、たとえば、「○○」と聞いて何を連想するか?どう思うか?ということを意識として説明することは不可能です。「連想」という、意識の闇から急速に湧き上がってくるものは、個人差があるのと同様、「●心と秋の空」のように人の感情の”選択過程”は謎なのです。 これを簡単に説明すると、「連続的なグラデーションの内、『朱色』と『オレンジ色』との境目は?」ということで、定義づけすること自体が難しいのではないでしょうか。 脳科学からと意識を解明しようという趣向のもので、アントニオ・R・ダマシオという神経学者の「無意識の脳 自己意識の脳(The Feeling What Happens);講談社」という本が参考になると思います。

shift-2007
質問者

お礼

意識というものを意識しました。少し頭がうねうねします。 ありがとうございました。

  • kobarero
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回答No.5

脳科学から意識を説明することは「原理的に」不可能です。それは、非常に単純な理屈から明らかです。 脳科学が「科学」である以上、仮説や理論を客観的事実(観察や実験)によって実証する必要があります。ところが、意識は主観的現象ですから客観的に実証することは不可能です。脳科学で意識を説明しようとするのは、水に映った月影から月を説明しようとするようなものです。

shift-2007
質問者

補足

空腹は主観ですが、血糖値の変化として客観的に観察できるのではないですか。それとは違うのでしょうか。

  • nisekant
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回答No.4

意識の探求 クリストフ?コッホ 科学的な手段では意識を理解することは不可能 伝統的な哲学的態度に、「ミステリアン」と呼ばれる流派がある。ミステリアンは、意識の問題は複雑すぎて人間の理解の範疇を超えると主張する。この流派には二種類ある。一方は、「どんな認知システムもそのシステム内部の状態を完全に理解することができない。同じように、我々の脳は、脳内部から生じる意識の状態や仕組みを理解できない」という理論的な主張である。もう一方は、現実的ではあるが悲劇的な主張である。愚かな人間には、知性に限界があり、既知の概念を大きく変更することはできない。類人猿が一般相対性理論を理解できないように、意識がなぜ脳から生じるという問題は、人類にはとても及ばない問題というものである。 また別の哲学者は「ただの物質にすぎない脳が、意識をどのように生じさせることができるのか、全く予想もつかない。故に、単なる物質である脳の中に、意識が生じてくるメカニズムを科学的に研究しようとしても、絶対に失敗するに違いない」と断言。こういった主張は、彼等の無知を晒しているにすぎない。現時点で、脳と意識にはつながりがあるということを強く支持する議論がないからといって、つながりがないことを証明したことにはならない。勿論、これらの批判に答えるためには、科学こそが、このつながりを支持するような適切な概念や証拠を提出していかなければならないのだ。 将来、意識を生み出す脳の仕組みを解明することは、単に技術的に難しいだけでなく、原理的に不可能だと判明することがあるかもしれないが、現時点ではそのような結論を出すのは時期尚早というものだろう。神経科学は、非常に若い科学分野である。息をのむような速度で、常により洗練された方法によって、新しい知識が蓄積してきている。神経科学の発展が翳りを見せる前に、そんなに悲劇的になってしまう必要はない。

shift-2007
質問者

補足

結局、なぜ理解できないのかが理解できないということでしょうか。

  • 4G52GS
  • ベストアンサー率71% (1969/2770)
回答No.3

非常に詳しい方の回答の後で恥ずかしくなってしまいますが、昔からコンピューターとの比較で自分の分析をしてきました。あくまでも自分の内部での話ですけどね。 動物学(生物学)的に大差ないはずなのに意識の持ち方に差がつくのは、コンピューターとは根本的に異なる点があるのではと考えました。 コンピューターの場合は電気回路に信号を流すことによって演算を繰り返します。 人間の場合も基本的には同じようなプロセスなのだろうと考えていましたが、幼い頃、青年期、老年期と機能に大きな差が出てきます。 その差はなぜ出るのか。 ここで思ったのは、脳はその時点での必要性で様々な回路を構成していくことが出来るということ。 また、その回路は電気回路のようなソリッドなものではなく、論理だけの回路かも知れず、肉体的な劣化(老化)で回路構成が曖昧になっていく、と言う事です。 全く新しい回路が出来上がれば、その上を走るOSやアプリケーションも全く新しい概念のものを使うことが出来ます。 今のコンピューターでは基本構造は大差ないものの、性能は少しづつし、それによって新しいOSが走るようになりますが、そのOSでさえ以前のものの焼き直し的なものです。 どんなに進化していっても、WindowsとMacが一つのコンピューターの中で矛盾せずに存在するということは出来ないのでしょうね。 人間の場合はそういった矛盾は、とりあえずそのままにしておいて、便利な部分だけをつなげて利用する、もしくは全く新しい発想で共存させる術を見つける能力があるのでしょう。 自己増殖進化型コンピューターとでも言えば分かりやすいのかな? 自分をそうやって見つめてみると、過去に学習してきたことの意味、これからの進むべき方向など、答えらしいものを感じることも出来るようになりました。 今年で50歳、子供も3人おりますが、子育ての途中で子供と自分の比較で思ってきたことで、考えがまとまってからは子育てで苦痛を感じたことも無く、子供たちの成長を見ても十分満足いく状況です。 まぁ、あくまでも個人的な考えですが、「脳自体のメカニズムにも未解明な部分」というのは脳の自己増殖進化と言う部分でしょう。 それが分かれば自分の意識の持ち方を変えることもさほど難しくないことになり、商売柄(自営ですので、営業もあります)、どんなに悲しいことがあっても、お客さんの前では全くそれを感じさせない、程度のことは非常に楽に出来ます。 専門家に皆さんには笑われるような話でしょうけど、私としては意識(個性)は解決済になっています。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。

  • ruehas
  • ベストアンサー率68% (816/1194)
回答No.2

こんにちは。 現在の脳科学を以ってしても「意識」という現象の本質をきちんと説明することができないのは、それは「意識」と「無意識」の構造的な違いを特定することができないからです。 「脳科学」といいますのは神経系の情報伝達として我々の脳内に発生する心理現象を解剖学的・生理学的に解明しようというものです。ですから、「意識」というものを説明しようとするならば、その性質や構造の原因が特定されなければなりません。ところが、意識という現象が実際に発生しているのは事実なのですが、それが意識現象であれ無意識現象であれ、神経系の情報伝達というメカニズムは両者全く同じであり、現在の脳科学ではその生理学的な違いを特定することができません。 構造的なメカニズムに何の違いがないにも拘わらず、意識現象には発生するのですが無意識現象には発生しません。従いまして、心理学的には「意識」という現象は分類できますが、脳科学の立場から言えば、それは片方にしか発生しない「特異な現象」であり、「副産物」としてしか取り扱うことができないわけです。 「意識」といいますのは大脳皮質「連合野」における「認知作業」に伴う現象です。 神経系の情報伝達はといいますのは、 「知覚入力―中枢処理―末梢出力」 というプロセスで行われます。 我々高等動物の脳内には知覚入力に対して情報処理を行う中枢系が大きく分けて三系統ありますが、このうち「意識」が発生するのは、 「知覚入力―大脳皮質―計画行動」 というプロセスだけであり、これ以外の、 「知覚入力―生命中枢―本能行動」 「知覚入力―大脳辺縁系―情動行動」 この二系統では「意識」というものは発生しません。 「本能行動」や「情動行動」は自覚の伴わない「無意識行動」であり、入力に対して結果が得られるならば、それは直ちに対応する適切な行動が選択されるようになっています。これに対しまして、大脳皮質の司る「計画行動」といいますのは、過去の学習記憶を基に未来の結果を予測して選択されるものです。このため、大脳皮質では知覚情報と記憶情報の複数を比較選別する「認知作業」が行われます。従いまして、計画行動といいますのは未来の結果を自覚した「意識行動」であり、「意識」とは大脳皮質の「認知作業」に伴って発生する現象ということになります。 大脳皮質における「認知作業」といいますのは、入力された「知覚情報」や呼び出された「記憶情報」など、いっぺんに「複数の情報」を扱う作業です。このためには、これらの情報は「連合野」内での認知作業が行われる間、「短期記憶」として一定の時間そこに保持されていなければなりません。「意識」が発生するのはこのときであり、連合野が認知作業を行うために知覚情報が一時保持されたり、過去の記憶情報が呼び出されたりすることによって、我々は初めてそれを自覚することが可能になります。そして、「思考」といいますのはこのようにして処理された認知結果を統合する作業であり、過去の体験を基に未来の結果を予測した計画行動というのは、大脳皮質における認知作業が行われなければ実現できないものです。 これに対しまして、「本能行動」や「情動行動」といいますのは大脳皮質を経由せず、情報処理の結果が直ちに行動選択に結び付いています。ですから、これらは何らかの反応が発生したあとでなければそれが意識に上り、自覚されるということはありません。 ならば、意識と無意識には、 「それは大脳皮質の機能である」 「複数の情報を扱う複雑な作業である」 「情報の一時保持というタイムラグがある」 などといった違いがあることになります。 ところが、ではこの意識という現象に対応する大脳皮質の解剖学的な特長とはいったい何でしょうか。何処まで複雑な情報で、どの程度の時間が経過するならばそれが意識となるのでしょうか。そして、何処にどうやってそのような生理学的な線引きをしたら良いのでしょうか。 このように、意識であれ無意識であれ、それが神経系の情報伝達という点では全く違いはなく、ここに解剖学的・生理学的な特徴を特定することができません。あたかもそれは、何か意識という情報が作られ、何処かに投影されているようにも思われますが、我々の脳内にそのような解剖学的構造はありません。従来の心理学とは違い、脳科学では、ないものをあるとすることはできないわけです。 さて、これは「意識」に限った話ではありません。例えば「意志」「感情」「理性」などといったものは哲学から心理学を経た古来より間違いなく実在する概念であり、我々の心理現象といいますのは外に現れ出た結果を基にこのような分類が可能です。しかしながら、近年の脳科学の発達により、脳内のメカニズムが詳細に調べられるようになったのは良いのですが、果たして、それは全て神経系の情報処理の結果でしかありません。 只今ご説明しました通り、「意識とは何か」「感情とは何か」、このようなものが脳内の何処で生み出され、どのような経路で伝達されるのかは、この先技術的にはほとんど追跡が可能です。ですが、その情報処理の結果が何故、感情や理性といった全く異なる性質の違いを持つのかということになりますと、心理学の仮説ならば山積みになっていますが、科学的にはまだ解明の糸口もないというのが現状ではないかと思います。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 何度も読み返したのですが分からない部分があります。意識と無意識の違いはそんなに重要なのでしょうか。そこら辺をもう少しご説明していただけないでしょうか。よろしくおねがいします。

  • 4G52GS
  • ベストアンサー率71% (1969/2770)
回答No.1

専門家ではありません。素人のたわごととして聞いてください。 人間が生まれて、誰にも接することなく成長したとするとどうなるか? 三大欲望と言うものはあるはずですので、腹が減ったら何かを食べ、眠くなったら眠るのでしょうね。 このあたりは誰に教えられなくても、こなしていく作業なのでしょうね。 パソコンにたとえれば(少々乱暴なたとえとは思いますが)、BIOSになるのでしょう。 普通は親が育てて、社会に放り込み学習させて社会性などが出来ていくわけで、これらがOSと考えることが出来ます。 成人して職にでも就くと取得してきた知識などの一部を伸ばし、さらに追加の知識を習得してエキスパートになっていくわけです。このあたりはアプリケーションと見ることが出来るでしょう。 人間は性質も形状的な要素も千差万別ですが、細胞レベルで見れば(ぶっちゃけ、内蔵レベルで見れば)大きな差もないはずで、脳の作りだって、それほどの差はないでしょう。 仮にある程度の差があったとしても、活性化している細胞の数の差で演算能力が変わるというのは納得できますが、個々の性格については何の要素で差がつくのか説明が出来ませんね。 自我が芽生えてからの回りの環境の影響は大きいでしょうが、生まれ持った性質の影響も強いように思われます。 ただ、なぜそういった差が出るのかはメカニズムも含めて不明ですし、確認する術も無いでしょうね。非常に長い時間をかけて人体実験をすることになるでしょうし。 だから、脳自体のメカニズムを研究することは出来ても意識はそこで動いているOS+アプリケーションですので、外から見ただけでは何が動いているかも分からない訳で、個々の成長の環境などで大きく変わってしまうので、考えないとしているのではないでしょうか。 個々の意識や個性などは成長の過程の環境などで形成されてくる場合もありますので、副産物と言えばその通りでしょう。

shift-2007
質問者

お礼

なるほど、分かりやすい説明ありがとうございます。 また疑問が沸いたのですが、脳自体のメカニズムにも未解明な部分があると思うのですが、その部分に意識が隠れているかも知れないとはいえないのだろうかと思いました。説明できないとする説明に今ひとつ納得できないでおります。 お暇があったらまたお付き合いください。

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