《日本における思想的座標軸》とは何か?
次の議論に拠って問います。
▲ (丸山真男:日本における思想的座標軸の欠如) ~~~~
( a ) 各時代にわたって個別的には深い哲学的思索もあるし また往々皮相に理解されているほど 独創的な思想家がいないわけでもない。
( b ) けれども 時代を限定したり 特定の学派や宗教の系列だけを取り出すならば格別 日本史を通じて思想の全体構造としての発展をとらえようとすると 誰でも容易に手がつかない所以は
( c ) 研究の立ち遅れとか 研究方法の問題を超えて 対象そのものにふかく根ざした性質――無常感とか義理とか出世とか――をまるごとの社会的複合形態ではなくて一個の思想として抽出してその内部構造を立体的に解明すること自体なかなか難しいが(九鬼周造の『いきの構造』(1930年)などはその最も成功した例であろう)
( d ) たとえそれが出来ても さてそれが同時代の他の諸観念とどんな構造連関をもち それが次の時代にどう内的に変容してゆくかという問題になると ますますはっきりしなくなる。
( e ) また学者や思想家のヨリ理性的に自覚された思想を対象としても 同じ学派 同じ宗教といったワクのなかでの対話はあるが ちがった立ち場が共通の知性の上に対決し その対決の中から新たな発展をうみ出してゆくといった例はむろんないわけではないが 少なくもそれが通常だとはどう見てもいえない。
( f ) キリシタンのように布教されると間もなく宣教師自身が驚嘆するほどの速度で勢いをえて 神学的理解の程度もきわめて高度に達したものが 外的な条件で急激に力をうしない 思想史の流れからは殆ど全く姿を没してしまうような場合もある。
( g ) ひと言で言うと実もふたもないことになってしまうが つまりこれはあらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与え すべての思想的立場がそれとの関係で――否定をつうじてでも――自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当たる思想的伝統はわが国には形成されなかった ということだ。
( h ) 私達はこうした自分の置かれた位置をただ悲嘆したり美化したりしないで まづその現実を見すえて そこから出発するほかはなかろう。
(丸山真男:『日本の思想』 I 日本の思想 まえがき 1961)
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1. わたしたちは 日本の思想として 《ちがった立ち場が共通の知性の上に対決し その対決の中から新たな発展をうみ出してゆくといった例》( e )を欲し問い求めます。
2. 《あらゆる時代の観念や思想に否応なく相互関連性を与え すべての思想的立場がそれとの関係で――否定をつうじてでも――自己を歴史的に位置づけるような中核あるいは座標軸に当たる思想的伝統》( g ) これは 次のような視座ではないだろうか。
(α) 日本教=クウキ教
: シントウイズムからブディズムからコンフーシアニズムまで
あるいはクリスチアニズムからコミュニズムまで
あらゆる宗教(オシエ)や思想を《清濁併せのむ》かたちで
寄せて束ね 中核のクウキないしそのミナモトのもとに
《共生》するという社会原理
(β) 《アマテラス公民圏(主導)‐スサノヲ市民社会(従属)》なる
逆立ちした連関制
: これが 前項の《社会原理》の具体的なかたちである。
スサノヲ市民は 姉のアマテラスらに《くにゆづり》をしたので
安易にはその《逆立ちの逆立ち》を図ろうとはしない。
アマテラス公民が おとなになって 主導するチカラをゆづり
返す(大政奉還する)ことを千五百年ほど俟っている。
(γ) アマアガリ・シンドローム
: アマテラス公民へとつまり二階へと出世するぞという意志
であり そうせずにはおかないという意地である。
(δ) アマテラス予備軍症候群
: アマテラス公民の成すことはすべてただしい あやまち得
ないという無謬性の神話をつよく信奉している心性。
言いかえると そのアマテラス公民の成すことに文句を言い
批判をするコトに対しては 条件反射のごとく・何の疑いもなく
否定しようと動くその心性。
3. 前項のことがらがたたき台ですが 全体として 現代日本の哲学をつのります。
4. 引き合いに出した丸山の文章について くわしい解説やあるいは批判をほどこしてもらえる場合 よろしくお願いいたします。
* 日本教やクウキは 山本七平の捉えた視座です。
* 社会形態が 国家として 二階建てになっており その一階と二階とは 主権ないし主導権にかんがみて《逆立している》と言ったのは 吉本隆明です。