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自然を「あるがまま」観察する態度とは?
最近よくお世話になっております。いいかげん引き上げようと思うのですが、質問すればするほど疑問が膨れ上がるサイトですね、ここはA^^; ところで 哲学的態度とは要するに「自然を、あるがままに観察する態度」というふうに教えてもらったのですが、これって、どういうのですか? 本当に、できることなのでしょうか?? 赤ちゃんがえりすればいい、ということなのかなあ?とも思いましたが、なんかよく分かりません。。。 なお、いつもお願いすることなのですが私は回りくどい文章が、もの凄く苦手です。直截な御説明をいただけない場合、お礼は素っ気無いものになると思います。その点、悪しからず。 宜しく、お願いします。
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- TheUchuuNoKori
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観察された時点で「在るが儘」ではなくなります。
ぼくの生徒の日のノートの上に ぼくの学校机と樹々の上に 砂の上に 雪の上に ぼくは書く おまえの名を 読まれた 全ての頁の上に 書かれていない 全ての頁の上に 石 血 紙あるいは灰に ぼくは書く おまえの名を 金色に塗られた絵本の上に 騎士たちの甲冑の上に 王たちの冠の上に ぼくは書く おまえの名を 密林の 砂漠の 上に 巣の上に えにしだの上に ぼくの幼年の日のこだまの上に ぼくは書く おまえの名を 夜々の奇蹟の上に 日々の白いパンの上に 婚約の季節の上に ぼくは書く おまえの名を 青空のようなぼくの襤褸(ぼろ)の上に くすんだ日の映る 池の上に 月のかがやく 湖の上に ぼくは書く おまえの名を 野の上に 地平線に 小鳥たちの翼の上に 影たちの粉挽き場の上に ぼくは書く おまえの名を 夜明けの一息ごとの息吹の上に 海の上に そこに浮ぶ船の上に そびえる山の上に ぼくは書く おまえの名を 雲たちの泡立てクリームの上に 嵐の汗たちの上に 垂れこめる気抜け雨の上に ぼくは書く おまえの名を きらめく形象の上に 色彩のクローシュの上に 物理の真理の上に ぼくは書く おまえの名を めざめた森の小径の上に 展開する道路の上に あふれる広場の上に ぼくは書く おまえの名を 点くともし灯の上に 消えるともし灯の上に 集められたぼくの家たちの上に ぼくは書く おまえの名を 二つに切られたくだもののような ぼくの部屋のひらき鏡の上に 虚ろな貝殻であるぼくのベットの上に ぼくは書く おまえの名を 大食いでやさしいぼくの犬の上に そのぴんと立てた耳の上に ぶきっちょな脚の上に ぼくは書く おまえの名を 扉のトランプランの上に 家具たちの上に 祝福された焔むらの上に ぼくは書く おまえの名を とけあった肉体の上に 友たちの額の上に 差し伸べられる手のそれぞれに ぼくは書く おまえの名を 驚いた女たちの顔が映る窓硝子の上に 沈黙の向こうに 待ち受ける彼女たちの唇の上に ぼくは書く おまえの名を 破壊された ぼくの隠れ家たちの上に 崩れおちた ぼくの燈台たちの上に ぼくの無聊の壁たちの上に ぼくは書く おまえの名を 欲望もない不在の上に 裸の孤独の上に 死の足どりの上に ぼくは書く おまえの名を 戻ってきた健康の上に 消え去った危険の上に 記憶のない希望の上に ぼくは書く おまえの名を そしてただひとつの語の力をかりて ぼくはもう一度人生を始める ぼくは生れた おまえを知るために おまえに名づけるために 自由(リベルテ)と。 ――Liberte――ポール・エリュアール
「哲学的態度と哲学の目的とは?」という質問の削除依頼をしたのはご察しどうり私です。と白状したところで、今回の質問はとても有意義感を味わっていまして読み返す度教わることの多い回答が寄せられていますね。ツッコミ役のお姉ちゃんのお陰です。つまりお礼を言いに来たのでこれこそ「善悪の判断」すらする必要がなくなっています。お礼を欠かすことのない人だからこそ!この質疑で「ルールは無効」というのを実感しているかもしれないですね。 哲学的態度には主観と客観がないです。それで感情論ではなく冷静さによって全貌を把握するのですが、「虚空」とは違い「混沌」とするかもしれません。どちらでも同意義だとしたら余計紛らわしいでしょうか。 例えば映画を評価するのに一般素人は目立つストーリや配役によって好むとか良い映画と満足したり批判も評価します。しかし実際に映画の制作に携わったことのある現場を知る人やマニアックな人は視点が違い「この映画はどのように作られ」たかを観て、ここは改善すべきとかここが素晴らしいと評価する。感情移入して振り回されっぱなしでいることと、映画を作る情熱や実力とは別の次元であるからです。 「あるがまま」を観測する態度とは「当たり前なことが実は当たり前でない」というある意味当たり前なのですが「信じさせられている」ことに気がつけるのです。 人間が作った秩序、公理や規制は成立つのが当前という権勢に幻想を抱く信者の理屈は脆いものです。自然や現実にしてみればそれこそいい加減な検証で作ったものでしかなく、療養中の横綱がサッカーすることだって現実には可能ですから。 赤ちゃんに先入観はない。主客対立が起こってなく「価値観」は純粋な快・不快によるものだけで、先に修飾される形容詞も後に修飾される意味や目的もないまだ知らないが、知る余地が多くあり量を経験して遠回りして辿り付いた結論が哲学となって、先付けにしろ後付けにしろ「現実の質」になると「ルールは無効である」と気がつける、くというだけのことですね。 「一切のルールは無効」これを非社会的な捉え方というなら、それから遊離して有効な社会だけを辿って行く他ないですが、それこそそんな社会があるのか?というところです。 しかし自分が自由を考えたり求めることをするにはルールに従った上で求めるべきであって、最初から自由であれば何ら意義や説得力もないものですから、真の可能性としての自由があるのは、所属や所有しようとする以前にしかないのかもしれないです。
- bobycoro
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心をリラックスして今から心の中に現れては消える思いを見つめてください、、、ハイ、この観察している状態があるがままに見るということです。普段は色々な知識や思いを通をして現実世界をながめています。これはサングラスをかけてみているようなものです。もっと奥の観察する心で見る事があるがままでみることです。最初は思いや雑念ばかり見えますが そのうちなくなって、現実の世界が光そのものに見えてきます。どれだけ偽物の世界を本物だと思い込んでたのかとキズクはずです
- stomachman
- ベストアンサー率57% (1014/1775)
ヴィトゲンシュタインの言う「語り得ぬもの」とはどういうことかについては、諸説あるようです。しかし少なくとも、ソレは「『語り得るもの』の否定、『語り得るもの』の不在」という形でしか示せない、ということがポイントでしょう。 ●もし、「幻想」については具体的に沢山語ることができる一方、「カオス」については「幻想」の否定、「幻想」の不在としてしか示せないのだとしたら、どちらが「語り得ぬもの」であるかは明らかでしょう。 ●もし、「幻想」については何を言ってもナンセンスである、という主張がなされたとしたら、従って、「幻想」について語られた言葉は全てナンセンスであり、すなわち、「幻想」の否定として示される概念もまたナンセンスであると主張していることになるでしょう。 ●もし、ナンデモ「幻想」であって、「幻想」を取り払えば善悪も真偽も区別がなくなる、という主張がなされたとしたら、従って、その状態においてはその主張自身もまた「幻想」でなくてはならず、「正しい」「正しくない」という判断も区別を失うでしょう。他人が「正しくない」道にいるかどうかの判断もまた捨てるのだから、それについて語る言葉はなく、だから、沈黙しなくてはならないでしょう。 ( なんとなく、「ある形式的体系が、その体系自身が無矛盾であることを証明できるならば、その体系は矛盾を含む[つまり何でも証明できてしまうナンセンスな体系である]」という超数学の基本定理を連想しまいます。) もし、それでもなおこれらのことが主張されうるとすると、それは(1)主張は「カオス」の外に居て「真の秩序」を知っていると自覚した超越者によるものであるか、(2)主張は単に無意味な雑音であるか、のどちらかの場合だけではないでしょうか。もしこのような態度こそが「自然を、あるがままに観察する態度」であって、それこそが「哲学的態度」だったのだとすると、そこで言う『哲学』とは、(1)『超越者』の名札を掲げる者のみが説教を垂れるものであるか、(2)『哲学者』がナンセンスな文章を生産するだけのものであるということになってしまいますね。 これは単なる極論ではありませんで、確かに哲学の中にある、「懐疑主義」の落し穴です。穴があるとは知らなかった人にとっては[役に立つ]話で、穴の縁から覗き込んで検分するのは必要な事ですが、けれども、今やそこにあると分かった穴にわざわざ落ちた上に、そのまま冬眠もしくは永眠してしまったとしたら、それこそ「哲学的態度」の反対物じゃないでしょうか。つまり、哲学における懐疑とは懐疑しつづけるプロセスのことであって、よもや、「懐疑が全てなのだから、懐疑してみるまでもなく答は分かっている」と言い放って懐疑を理由に懐疑を放棄することじゃない。それは哲学的態度ではない何か別の種類の態度でしょう。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
この質問が一旦削除され、また復活したわけですが、書く気が起きずにいました。 「卵の中にいる人は、それが卵であることに気づかない」ということはありうることですが、卵だよと教えてもなんにもならないのかもしれないな、と思い始めているところです。 >最低限の誠意という、人間に対する楽観的とも言うべき信頼の土台が要請されます。 なんでそんなものが要請されるのでしょう。 生きものは信じきることもままならず、疑いぬくこともままならず生きるしかないというのに。 私は、そんなものが要請されると思うことこそ、幻想だと言いたいのです。 だから、私は、いくら「これ以上分解できない」だとか修飾されようと、一切のルールは無効である(幻想の中でのみ有効)と言っているんです。 「これは自己利益確保のためだ」などと考える発想も、観測点を固定してしまうわけで、そのような見かけの利害関係でものごとを判断することを、私は幻想として扱います。 格闘技云々の話も、それは条件付けによって後天的に習得される類のものですからねえ。教育したからといって100%の人間が九九を駆使できるようになるとは限らないのです。ごくわずかでも落ちこぼれが出るということはありうる。そうした万が一の例外(「そうしないこともできる」)がある以上、本能先天説(「そうせずにはいられない」)が正しいことにはならないのですよ。 >矛盾を矛盾として認めることができるかどうかは各人によって違い、なかには矛盾などというものは相手側が作り出した恣意的なものに過ぎないと断ずる人もいます。こうした人は自己主観イコール世界と信じて疑わないわけですから当然、客観的な姿勢で話を進めることはできません。 矛盾という言葉を「幻想であるとの指摘」に変えてみましょう。 今私の言わんとするのは、schneewittchen7さんこそが「こうした人」になるのではないかな、ということなのです。 話が膠着するのはまさにこの点にありといったところだと思います。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
この回答は決定打とはいきそうもないですが、schneewittchen7さんにとってさらに理解しやすいものとなるとよいですね(←願望ではあるが、ならなくとも仕方ないとも思っている)。 >「勝ち負けを判断する根拠」が本来ない或いは「善悪」など先天的なものでないからこそ「ルール」を設定するのではないかと思うんですが。 そうです。ではなぜ「ルール」が必要なのか。なぜ勝ち負けを判断したいのか。なぜあとづけの善悪を生み出すのか(なぜという問いには答はないが、こういう場合は反語的な用法)。自分の利益を確保するためという説を私は持っていますが、別にそれに固執するつもりはありません。しかし、別にルールなんか設定してもしなくても同じことだと思います。 >>ウィトゲンシュタインが語り得ぬものと指しているものこそ、私が言うところの「幻想」に近い >「幻想」の正体を見極めることは不可能だから、ということですか。 幻想については、どんなでたらめなことを言っても自由なので、正解がないのです(逆に何を言っても正解ということになる)。もちろん正解のないことを語ることがいいとか悪いとか言うつもりはありませんが、しかし幻想についてどのようなことを言ったとしても、何も言っていないに等しくなります。それゆえ、「語りうることについてははっきり語り、語りえないことについては、(沈黙しなければならないなどとは言わないが)一切黙殺される」のです。 >しかし、その人をして「虚偽だろ」と指摘することもまた「レッテル貼り」に繋がりそうでコワイですね~(笑) いきなり「虚偽だろ」は少し失礼かな(笑) まずは、世界を秩序として見る時、その秩序の根拠を問いただし、そしてその矛盾をつくことによって、虚偽であることを暴く必要があります。相手が虚偽であることを納得しないことには話は進まないのです。 >御回答者様御自身或いは御自分の大切に思うかたが、いきなり暴漢に凶器を突きつけられたとき、または甚大な被害を被ってしまったとき「可能の地平人」としては実際どのような御手本行動を示されるのでしょうか。こちらで説明いただいたほうが「幻想の地平人」には、もう少し分かり易いかもしれません。 はい、ではご説明します。衝撃を受けるかもしれませんが。 1.「大切な」ものなど、ありません。 形容詞をあまり信用しないようにしていただきたい。まず、大切なものというのがあるとすれば、大切でないものというのを同時に生じることになります。しかしその基準の根拠となっているのはまさしく目先のとらわれ。つまり、大切であるという考えそのものこそ、幻想の地平のものなのです。 ありませんと言いましたが、厳密には少し違います。「大切でないものなど何一つとしてない」と「大切なものなどない」というのは、ほとんど同じだということです。何も大切にしないことが、同時に全てを大切にするのと同じだというのは、逆説的で理解しづらいかもしれませんが、そういう考え方なのです。しかし、形容詞によってそれを「大切」とか「大切じゃない」と区切る必要がなくなるので、一切の形容詞は雲散霧消します。 2.被害など、ありません。 これはちょっとびっくりするかもしれません。人間万事塞翁が馬と言いますが、被害というものの見方は、既にネガティヴです。一見被害と思われる行為を受けることによって得ることがあるかもしれない。だとしたら、それはなぜ被害であると強調されなければならないでしょう。見せかけの段階で「被害」であると言うのもやはり幻想の地平の考えです。 3.行動はそう変わりません。 正常と異常の区別すらつけないということも、今までの説明からおわかりいただけると思います。もしその暴漢が幻想の地平の住人であったとしたら、私が別に何食わぬ顔をしていることに、かえって戸惑うでしょうね。しかし戸惑わせて撤退させるというつもりでそうするのではありません。 そもそもどう行動すべきか、というモラルも、幻想の地平のものじゃありませんかね。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
ここで「可能の地平におけるチェス」をご紹介しましょう。 チェスの駒は全部、白黒のまだらで、どっちのプレイヤーの駒だかわからない状態です。 駒はどのように動かしてもいいですし、いきなり取り除いてもいい。 さらには盤ごとひっくり返してもよい。 こんな無法地帯こそが、可能の地平におけるチェス、です。 しかも、このチェスのすごいところは、勝ち負けを判断する根拠がどこにもないことです。 ですが、駒に触れることなしに勝ちを宣言することができます。宣言したって勝ちということにはならないから、まあ意味はありませんが。 これで、少しは幻想の地平から可能の地平への導入になると思い、ちょっと書いてみました。 >御回答者様は死刑反対論者でしょうか。 レッテル貼りがお好きなのかわかりませんが、私は賛成でも反対でもありません。ルールが悪いものだとも言いません(確かに、ルールには弊害はある)。ただ、ルールとは、あってなきがごときものだということなのです。 例えば、ルールによって、何かを禁じるとしますよね。その時に禁じられることというのは、「できること」であり、「できないこと」であれば始めから禁じたりなどしません。つまり、禁じられることは常に「できること」なのですが、禁じたことによって「できること」が「できないこと」に変質するか、というとそのようなことはありません。相変わらず、「できること」は「できること」のままです。 >「幻想」また「カオス」とは哲学にとって、どういう位置づけになるのでしょう。 哲学にとって、という質問をされるなら、私の答えるところではないようですね。私よりももっと優れた哲学学者ならいくらでもいますから。 ウィトゲンシュタインが語り得ぬものと指しているものこそ、私が言うところの「幻想」に近いと思います。 私が「カオス」と呼ぶものは何に当たるか、というと、ずばり語りうるもの、ということになるのでしょうか。 多くの哲学者が、世界の全貌というカオスを、1つの秩序(コスモス)におさめようとしてきたのではないかと思いますが、無秩序を指して秩序だ、ということは虚偽なわけで、しくじってるな、と思いますね。
補足
いつに変わらぬ根気強いレスポンス有難うございます。 御無理を強いているのではないかと、ちょっと心配ですが、なにしろ不出来な生徒で、なかなか疑問が尽きず申し訳ございません。(私は相当アタマのほうに無理がきております笑) >レッテル貼り ま、ラベリングは学問の出発点のようなものと御容赦いただきまして。 強調しておきたいのは「死刑反対論者」そのものに対して私個人は、とくにどうとも評価基準を持っておりません。 或るサイトでの参加者の御意見をお借りすれば「遠い人種で自分側の理解力がなく且つ関わらざるを得ない時、人はレッテルを貼ろうとする」心理に近いのでしょう。 差異、区別をつけることを無用とする姿勢の人が哲学から離れるのは、なるほど必然だろうと思います。 >チェスの駒は全部、白黒のまだらで、どっちのプレイヤーの駒だかわからない状態です。 駒はどのように動かしてもいいですし、いきなり取り除いてもいい。 さらには盤ごとひっくり返してもよい。 こんな無法地帯こそが可能の地平におけるチェス、です。 しかも、このチェスのすごいところは勝ち負けを判断する根拠がどこにもないことです。 我々人間の通常の生活基準では「盤ごと引っくり返す」ことはイコール勝負なりゲームなり何事かの「放棄」(しかも負けのニュアンスを含む)と見なしますよね。そのような「無法地帯」においては、そもそも「チェス」を始めようとすらしないでしょう。 「勝ち負けを判断する根拠」が本来ない或いは「善悪」など先天的なものでないからこそ「ルール」を設定するのではないかと思うんですが。 >禁じたことによって「できること」が「できないこと」に変質するか、というとそのようなことはありません。相変わらず「できること」は「できること」のままです。 そうだと思います。 実際やりたかったらルールご無用で実行する輩がいる現実ですから。「できること」だからこそ「させない」圧力をかけようとしているに過ぎませんね。 >ウィトゲンシュタインが語り得ぬものと指しているものこそ、私が言うところの「幻想」に近い 「幻想」の正体を見極めることは不可能だから、ということですか。 ところで以前の質疑応答での (御回答者様) >「守ることができること」は同時に「守らないこともできること」でもあります。それでもあえて守るというのは幻想の地平の行為です。 (質問者) >私の実感では「守らずにいられない」そこに選択の余地はないのです。「守らないこともできる」のであれば往々にして守りません。 で単純な興味を抱いたのですが 御回答者様御自身或いは御自分の大切に思うかたが、いきなり暴漢に凶器を突きつけられたとき、または甚大な被害を被ってしまったとき「可能の地平人」としては実際どのような御手本行動を示されるのでしょうか。こちらで説明いただいたほうが「幻想の地平人」には、もう少し分かり易いかもしれません。
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
言葉のひとつひとつに取り付いているネガティヴとポジティヴを逆転させると、新しい見方ができますよ。 さて、私としてはもはや重箱の隅しかつつく余地がありません。 それにしてもあまりにも重箱の隅すぎる納豆のくだりは軽い冗談としてとらえておいて下さい。 >むむ。。。このへんは難しいですね。「暴力」というコトバに関しては >○乱暴な力・行為。不当に使う腕力。 >○合法性や正当性を欠いた物理的な強制力。 >というマイナスイメージな意味でしか使用されないようですから。 まあそうでしょうね。 しかし、「暴力反対!」と叫ぶこと自体が暴力だとするなら、人間は暴力からどうやって離れたものか、ということになります。 自然をあるがままに観察したホッブズは、「万人の万人に対する闘争」と言っていますよね。もちろん彼の場合は「自己保存の本能」を根底とした発想なのですが、それはそれとして、自然状態は暴力が起こりうる状態になっているのです。 そこで社会が形成される、ルールが作られる、法が作られる、となっていくわけですが、法そのものが暴力になってしまうケースがしばしばあります。死刑や極刑が暴力の容認であるのはもちろんのこと、懲役や禁錮でもその人の自由を奪う暴力たりえます。合法であり、それゆえに正当性を持ったとしていても、強制力は暴力ととらえられうるのです。 自然状態も文明化されたと言われる状態も、暴力のひそむ位置が変わった程度で、大差はないと私には思われます。 schneewittchen7が思っている現実とは「日常」であって、幻想の地平でものごとを考えているようです。その一方で、私は可能の地平(なにが可能であるのかを見極める観察態度の次元)の住人として思考しています。可能の地平には、欲望だとか願望だとかいった感情的な側面がありません。幻想の地平の住人はそれを感情の欠落として障害だととらえるでしょうが、可能の地平の住人はむしろ重荷から解放されていると肯定的にとらえることができます。 schneewittchen7さんが体験した「驚き」とは、未知との遭遇により誘発されるもののようですね。異なる地平と邂逅した時の衝撃は、相当なものだろうと思います。私もかつては幻想の地平の住人でしたから、この可能の地平を知った時は衝撃でした。 微妙に説明が下手なので少し補足すると、幻想の地平は可能の地平に取り囲まれているということ、可能の地平は幻想の地平の土台であるということです。これでもまだうまく説明はできていないとは思いますが、大体わかっていただけるかと思います。 >全ては「関係性から起きる」 うーん。。。関係というのはことばで説明する時には非常に有効な考え方なのですが、説明に便利だからといって、関係そのものがあるということにはならないのです。「関係」というものの考え方は説明のために組まれた仮設の足場であって、説明が終わったら取り除かれるようにならなければその説明は完成しないのです。ウィトゲンシュタインの梯子のように。ですから、関係性で説明することができる、からといって、「全ては関係性から起きる」と結論してしまうのは、可能の地平のやり方ではありません。むしろ可能の地平においては関係性が取り払われている状態です。だから善悪などの関係性に依存する足場は撤去されている、ということです。
補足
――チェスゲームにおいて指し手は駒を動かすことにより、体系上に移動を生じさせ作用を起こさせようと意図している。ラングが一手指した場合(通時的な変化)ラングはあらかじめ何も意図していない。 ~エングラー版講義(第三回講義 コンスタンタンのノート)~ ――見えない駒は強い関係性で引かれ合っており、どこかに”自然発生的でまた偶発的”な変化が起こると、その時初めて変化そのものが対象として立ち現れる。 ――同じくチェスプレイヤーであり、言語を語るにあたってチェスの比喩を多用したヴィトゲンシュタインにとって語は駒である。 「語とチェスの駒には類似性がある。―ある語の使い方を知っていることはチェスの駒の動かし方を知っていることに似ている」 ――ヴィトゲンシュタインが「駒=語」とするのに対して、おそらくソシュールは「駒=変化」としか考えていない。 ――駒が着地した途端その駒移動を決断させた論理が一気に消え去ること。その不思議のことをのみ、ソシュールは考えている。 だから、チェスの比喩を手放さない。 だから、沈黙してしまう。 (いとうせいこう氏55ノートより引用) 「語りえぬものについては沈黙せねばならない」 前回にも増して御丁寧な御説明をいただき誠に有難うございます。少しく考えておりました。 >言葉のひとつひとつに取り付いているネガティヴとポジティヴを逆転させると新しい見方ができますよ チェスの白黒のごとき「光と影」ですね。 単語一つひとつだけではない文節、文脈においてもまた然りでしょうか。コトバの反転は、それを発した者の内実までを暴き出し反転させてしまいかねない。迂闊に使用できるシロモノではないですね。 「万人の万人に対する闘争」 う~ん。。。なるほどぉ。。。 >ルールが作られる、法が作られる、となっていくわけですが法そのものが暴力になってしまうケースがしばしばあります。死刑や極刑が暴力の容認であるのはもちろんのこと懲役や禁錮でもその人の自由を奪う暴力たりえます。 御回答者様は死刑反対論者でしょうか。 小規模ながら、このサイトでも具現されていますね。質問者には、どんなに有り難くない投稿であっても一応「ルール」に抵触しない限りは受け入れなければならないとか。それに抵抗すると、やがては淘汰される。よくあることです。 優先座席なんかでも、それがあるために疲労が激しい人や心臓等の内部障害を抱えている人が反って利用しにくくなったり。どうしてこうなるんでしょう。ルールのせいなんでしょうか。 >自然状態も文明化されたと言われる状態も暴力のひそむ位置が変わった程度で、大差はないと私には思われます。 と言うか種類が増えただけとも言えますよね。 >可能の地平には欲望だとか願望だとかいった感情的な側面がありません。幻想の地平の住人はそれを感情の欠落として障害だととらえるでしょうが 欲望あってこそ人類発展、願望も持てないやつぁ、だらしがない、と巷間よく言われますが私は、とくにそんなふうには思いません。欲望が肥大し過ぎていても、やはり異常だとか障害とか言われますから。 もしも全人類から欲望が消えたために、この世界が消滅するとしても私は別段の感慨もありません。欲望と欲望の争いのなかで、やはり消滅するものなら穏やかに消滅させてもらうほうが、よっぽどマシだと思います。まあこれも願望のうちに入るのかもしれませんが。 >幻想の地平は可能の地平に取り囲まれているということ、可能の地平は幻想の地平の土台であるということです。 ソクラテスの洞窟の比喩のようなものでしょうか。しかし私には、まだやはり「可能の地平」というものを具体的に思い浮かべることができません。 それは「光あれ」のコトバとともに光が生じるようなものとは違うのですか。でも、これだって願望ですよね。「なにが可能であるのかを見極める観察態度」と仰いますから違うのでしょうね。。。 曰く「幻想」また「カオス」とは哲学にとって、どういう位置づけになるのでしょう。 私は、まだまだ「梯子をはずす」わけにいかないようです。でも、そのことを苦にすることもない、とも思います。 哲学にしてもボランティアにしても本来は暇とステイタスあってこそ、と言いますが、しがない娑婆の戦いへと戻って行かねばならない虚弱な私の脳内は、すでにブドウ糖の消耗激甚です。ああ情けない;=□=A (でもやっぱり御回答者様が思いっきり焦ったりアタマから湯気出して怒ってるところ見てみたいですネ笑)
- nabayosh
- ベストアンサー率23% (256/1092)
どうも話が枝葉末節になってきましたね。 >「つもり」というコトバを繰り返してらっしゃいます。 当然ですね。私というのが自分ではこうであると思っているからといって、実際にそうであるとは言えないのですから。「私」というのは世界の断片であり、それゆえ一知半解の状態であるにすぎない、いや、どこまでも個人のレベルでは一知半解にしかならない、ならないものは仕方ないのだが、ならないものをなるかのように言うのは偽りであるから「つもり」というコトバを使用しているのです。 >その「無数」を、どの数だけ設定できるのかということにもまた個人の限界が表れましょう 無数は、特定の数ですかね。そんなことはないと思いますよ。 多いということは確かですが、それがいくつかということは大して問題ではないはずです。 >「人間の認識能力を超え出る」ことも「彼らの生のなかに入って理解」することも、まずできないという前提付きの「客観的」なのですよね?ということは所詮、御回答者様の全ての御考えもまた「虚しい」の一言に帰する、そしてその「あるがまま」にまかせるというのも結局は自己の主観を肯定することに他ならない。 そうなれば我々にできることは。。。虚しさを承知で! 詳しく説明すると複雑なので、できるだけシンプルに言いますが、「虚しい」という言葉をネガティヴにとらえていませんか? 不純な意味や価値から解き放たれた状態が「虚しさ」であれば、それのどこがネガティヴでしょうか。 それに、自己の主観を肯定していると一見思えるかもしれませんが、出発点は逆です。自己の主観ではどうにもならないこともある、どうにもならないことに対してはどうもしない、あるがままにするしかない、ということですよ。だから自己の主観を信用しきるはずもないし、それゆえ「つもり」も多用される。そういうことです。 >野放しにしていればイドラに取り付かれる、とは具体的には?「野放し」とイドラは別ものなんですね?自分が受け取った印象のままにしておくと、ということでしょうか? そんな印象至上主義な(笑)ことは言いませんよ。わかりやすい例で言えば、私たちは日々、情報というイドラにさらされています。そしてその情報の多くを半ば無意識のうちに鵜呑みにしているのです。 「AはBである」という情報が入った時、頭の中で「AはBである」と反復します。そして「AはBであるのか?」という批判が次にくる。このような手順では、明らかに「AはBである」という先入観の方が有利に働きます。野放しにするということは、無批判であるということですね。無批判でありつづければそれだけ凝り固まるでしょうし、無批判にテレビを観続ければ、そりゃもう納豆を大量に買ってしまうでしょうよ。 >そして「攪拌」とは? 固定観念を粉砕するために常に必要なのは、批判、そしてその根底にあるのは、懐疑でしょう。 >中和「したい」というのは、つまり御回答者様に置かれましても未だ願望のレベルにあられるということでしょうか。 「生まれぬが幸せ」と最初に持ち出したのはschneewittchen7さんです。しかもその時に「否定の哲学」という語句を併置していましたね。そこでそれに対峙するものを提唱し、「生まれぬが幸せ/生まれてきて幸せ」の二項対立を示したわけです。そして、ジンテーゼは言わずにおきました。質疑の本筋と違いますからね。でも言いましょう。「幸せかどうかなんて関係ない」と。おそらくそうしないと話がほぐれて来ませんからね。 中和「したい」というのは、願望なのではなく、中和すれば話がもう少しすんなり進むだろう(別に進まなくてもいいけれども)という程度のものです。 >「気付きを刺激すること自体が暴力である」という見解(実際おられます)に対しては、どう御考えになりますか? ナンセンスですね。その見解は、それが暴力であると無自覚な人に対して、気付きを刺激していませんかね。 さらに覆せば、暴力否定、暴力はいけない、という考えにとらわれているのではないでしょうか。 私なら、「暴力ねぇ。暴力かもしれませんね。だから? 暴力はどうしていけない?」と居直るかもしれません。 もし、暴力について否定的な見解を持っていないのならば、「気付きを刺激すること自体が暴力である」という見解は「だから?」になると思いますよ。 >「殺人を起こしたい」者は起こし得ている。 殺人者は、自分が殺人を起こしたいのだと思い込む、まさにそのとらわれによって殺人をするわけです。幻想の地平を生きている人がすることだから、仕方ないでしょうよ、それを憎んでも。 >「泣き寝入りの哲学」なるものは詰まり「全世界肯定の哲学」というわけですか。しかも自分自身の願望以外は、という条件付きの。「泣き寝入り」というより「自虐的哲学」ですね。 自分自身の願望以外を全肯定というと違うような気がします。願望になどとらわれる「必要がない」のです。殺人者の願望だろうが、関係ありません。 schneewittchen7さんが幻想を「実感」している限り、話は平行線になるでしょうね。実感していると思うところが幻想なんですがね。
お礼
いつもいつも迅速な御対応をいただきまして有難うございます。 「けだし、驚異することによって人間は哲学をはじめた」 (アリストテレス『形而上学』) 「驚くというその感情は特に愛知者(哲学者)のものだ。 そうじゃないか、それより他に愛知=哲学のはじめはないんだ」 (プラトン『テアイテトス』)とプラトンはソクラテスに言わしめたそうです。(或るサイト主の受け売りです^~^;) 「驚異が哲学のはじめをなす。不思議のないところに学問の発展は期待できません」 (田中美知太郎著『古代哲学史』筑摩叢書) 書物に絶望したデカルトは幾多の遍歴の後、世間からも何一つ学び得ないと悟り~自己の内に帰還する。 「私の内にある観念から出発するのでなければ、私の外にあるいかなる認識も得られない」 (レヴィナスに関する或る書評から) 『あらゆるものから醒め、対象との距離を保つ』 ここに至るまでの私の道は、まだまだ遠そうです。でも至らなくても、それはそれで、とも思います。 『本当に哲学することとは、哲学さえなかったはずの場所へ身をおき、その誕生に立ち会うことである、とオルテガは言う。彼はまた弁証法とは考え続ける義務である、とも言う。純粋理性ならぬわれわれ歴史的理性は常に目の前の具体的現実を、一様相を認識するほかにない。われわれが手にする真理が常に部分的な真理であるならば、われわれは考えることをやめることはできない。であればオルテガは「哲学とは存在への問いかけである」という手垢にまみれたフレーズに安寧しない。それではまるで「存在」なるものがわれわれの眼前にあるかのごとくではないか、と彼は言う。むしろ彼はその存在なるものが要請される場へと向かうのである。』ホセ・オルテガ・イ・ガセット 『哲学の起源』 書評より
補足
御指摘通り確かに「枝葉末節」化してくると、そろそろ切り上げどきだということでしょうね。私としては気が済むまで確認させていただいて嬉しい限りでございますが、それでもコトバによるアプローチというものが、いかに不安定なものかということを改めて実感致しました。いや、認識と言っておかないと、また突っ込まれそうですが(笑) >無批判にテレビを観続ければ、そりゃもう納豆を大量に買ってしまうでしょうよ。 無批判、という状態から「納豆を大量に買う」という行動にイコールで繋がるのか?とか「生まれぬが幸せ」「否定の哲学」という仏教関連の語句に対して私個人は、とくに何の感慨もないことなど挙げたところで「枝葉末節」化を促進するだけですから置いておいて今回、紆余曲折の末、全体として、とくに前半部に関して理解が進んだと自分では思います。まことに御手数を掛けました。 >「虚しい」という言葉をネガティヴにとらえていませんか?不純な意味や価値から解き放たれた状態が「虚しさ」であれば、それのどこがネガティヴでしょうか。 なるほど! 一般的に「虚しい」というコトバはネガティブな印象で受け取られています。 ○空虚である。内容がない。 ○無益である。むだである。かいがない。 ○かりそめである。はかない。 ○事実無根である。根拠がない。等々 ところが ○(「己をむなしゅうする」などの形で)我欲・先入観などを捨てる。 《「漢書」五行志上から》私情を捨てて謙虚で素直な気持ちになる。 といった意味もある。 「批判」だって ○ 物事に検討を加えて判定・評価すること ○人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し正すべきであるとして論じること 以外にも哲学では ○認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること、とされているらしいし 「矛盾」にしたって、ヘーゲル弁証法で、概念の発展に必要不可欠な契機とされているらしい。 (大辞泉 ) 素人の哀しさで、つい日常使用されているイメージで判断しがちですね。 >>「気付きを刺激すること自体が暴力である」という見解(実際おられます)に対しては、どう御考えになりますか? >その見解は、それが暴力であると無自覚な人に対して気付きを刺激していませんかね。 さらに覆せば、暴力否定、暴力はいけないという考えにとらわれているのではないでしょうか。 私なら「暴力ねぇ。暴力かもしれませんね。だから?暴力はどうしていけない?」と居直るかもしれません。 いやぁスッキリしました。しかし >もし暴力について否定的な見解を持っていないのならば「気付きを刺激すること自体が暴力である」という見解は「だから?」になると思いますよ。 むむ。。。このへんは難しいですね。「暴力」というコトバに関しては ○乱暴な力・行為。不当に使う腕力。 ○合法性や正当性を欠いた物理的な強制力。 というマイナスイメージな意味でしか使用されないようですから。 >殺人者は自分が殺人を起こしたいのだと思い込む、まさにそのとらわれによって殺人をするわけです。幻想の地平を生きている人がすることだから仕方ないでしょうよ、それを憎んでも。 仰るとおり「とらわれている者」と、そうでない者との差異でしょう。しかし「罪を憎んで人を肉まんず」という言いかたもされますが私は「仕方ない」だけでは済ませられません。飽くまで現実的生活上においてですが(おっと)このあたりで我々のズレが生じてしまっていたのかもしれません。詰まり御回答者様は純然たる哲学の概念上で、お話されているのに対し私のほうは現実の生活実感を絡ませてしまっている。言ってみれば日常性からの遊離では、それこそ「仕方ない」じゃん、というカンジ。 まあ精神異常とされる人の罪を、どう扱うかという困難さにも通じてくることでしょうが、この「仕方ないでしょ」というコトバひとつを巡っても私が御回答者様の御真意を察することの難しさを感じずにいられません。 >殺人者の願望だろうが、関係ありません。 読み違いをしているのでしょうが、ここでも同様、全ては「関係性から起きる」と思えてしまうので。 こんな不安定な心許無い欠陥だらけのそれでも『言葉は魂を洗う』(どこかで拾ったコトバ)という希望を捨て切れません。 >幻想を「実感」している限り話は平行線になるでしょうね。実感していると思うところが幻想なんですがね。 どうやら、そのようです。しかしこの「幻想」というもの。。。名称イメージに逆らって実に力強い。と「実感」せずに「いられません」。まさに「暴力」的です。まさに驚異的な。
お礼
>そもそもどう行動すべきかというモラルも幻想の地平のものじゃありませんか 行動すべき、というよりも、せずにいられないと言いたいのです。モラル以前です。 私は数年前、私にとって重要な人物に大きな「犠牲」を捧げました。まさに私自身の内なる利益を大きく上回るデメリットを受け取る破目になりました。しかし、もしまた同じ情況に陥ったとしたら、結果を承知で私は再び同じ行動を選択します。いや、そうせずにいられないでしょう。 そうしてみると私の場合とは逆に他者の犠牲を欲さずにいられない者にとって、たとえ「ルール違反」だと知っていても彼らには彼らの「もうこれ以上には分解できない」欲求というレベル設定があるのでしょう。となれば人間存在の、このどうしようもなさは。。。!! 先に挙げた、以前のデカルトに関する質疑応答で デカルトが『我思う故に...』を言った時、彼の弟子の一人に 「その言葉の中には“思うものは存在する”ということの証明が抜けているので論理的に真であるとは認められないのではないか」 と問われ 「これは霊的直感によって生まれた真理なのであり、霊的直感に哲学的証明はいらない」 と答えたそうです。 結局、哲学の行き着く最後は宗教同様、思考停止しかないのか、と思いました。 宮本久雄・岡部雄三編「「語りえぬもの」からの問いかけ─東大駒場<哲学・宗教・芸術>連続講義─」講談社2002年 を紹介するサイトより ~思考可能なものは語りうるものである。そして、その「語りうるもの」がそれとして変化していくにもかかわらず、その変化自身は「語り得ない」。語りえないものについては沈黙せよ、というのがウィトゲンシュタインのテーゼだが、それに対し野矢氏はきっぱりと言い切っている。 「語りえぬものを語りえぬままに立ち上がらせるには、語り続けねばならない」 沼野充義氏 「文学的創造とは、「表現されないもの」と向き合い、かりにそれを克服できなくとも、表現されえないものがいかに表現されえないかということを表現しようとする過程から成り立ってきた」
補足
「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する。」 「論理は世界に充満する。世界の限界は論理の限界でもある。思考できないものを思考することはできない。かくして思考できないものを語ることもまたできない。」 「語りえぬものについては沈黙せざるをえない。」 デカルトのこぎとに関する、ずっと以前の私の質問に御参加くださった或る回答者様の御回答より 「言語は思考を規定するという別の命題を持ち出すつもりはありません。しかし言語の枠組みによる規定を良い意味でも悪い意味でも利用しつくすこともまたヨーロッパ哲学の伝統の一部です。」 枝葉末節現象のワラワラを経て禅問答も、いよいよ佳境に入り痒い所まで、もうちょっと、というモドカシサを抱えつつワクワクしております。有難うございます。 >なぜ勝ち負けを判断したいのか。なぜあとづけの善悪を生み出すのか~自分の利益を確保するため 先日の補足において私は 「これ以上は分解できないレベルのルールが必要だと思うのです。そのシンプルさは我が身を守ることはあっても決して他者を脅かすことはないと思います。」 と述べました。これは「勝ち負けの判断、あとづけの善悪」とは無縁のものです。しかし同時に、それは最低限の誠意という、人間に対する楽観的とも言うべき信頼の土台が要請されます。そもそもそれが期待できるならばルールとして設定するまでもない。そしてそれを義務などとは心得ない人間が跋扈しているのが、この現実(という名の幻想?)世界です。 「分解できる」レベルのルールということであっても両者の出発点は善悪無用の自己利益確保が目的には違いありません。 しかし後者においては「勝ち負けの判断、あとづけの善悪」といった余分の自己利益確保を図ろうとする動きが生じることを当然のごとく見越している。それは、どうあっても出現する人間ならでは肥大した浅ましさとも言えましょう。そこでさて我々に可能な態度は…?という問題が出てきます。 >まずは世界を秩序として見る時、その秩序の根拠を問いただし、そしてその矛盾をつくことによって虚偽であることを暴く必要があります。相手が虚偽であることを納得しないことには話は進まない 矛盾を矛盾として認めることができるかどうかは各人によって違い、なかには矛盾などというものは相手側が作り出した恣意的なものに過ぎないと断ずる人もいます。こうした人は自己主観イコール世界と信じて疑わないわけですから当然、客観的な姿勢で話を進めることはできません。 >2. についてはまあ確かに「人畜有害」としか言えないような人が(笑)殺されたのであれば「被害」は一転して「有益」ともなろうと思いますが。。。(笑)或いは起きた事は全て摂理に適っているとか? >3. については >もしその暴漢が幻想の地平の住人であったとしたら私が別に何食わぬ顔をしていることに、かえって戸惑うでしょう これは、そうと限ったものではないと思いますが、やはり一度、御回答者様の肉体に凶器をブチ込んで反応を確認してみるしかないでしょうか(笑) これも以前の質問で格闘技カテゴリにおけるものですが 「人間の繰り出す「突き(パンチ)」や「蹴り(キック)」というのは人体の構造が誰でも一緒であるため“人を倒す”という目的を達成するための動作は地球上のどこの誰がやっても同じ「動作」になるはず」 ここで「万人の万人に対する闘争」というコトバを思い出しました(笑) 「早い話がルールなど存在しない護身の世界と同じです。つまり相手が複数でも急所を攻撃しても武器を使っても反則などない戦い」 「決まった型にはまると対応できないことがあるので常に相手がどんな動きをしてきても対応できるよう、いろんな動きから反応して反撃することを体に染み付けさせる」 「~寝技に持ち込めても噛み付きはもちろん手が片手でも使えれば目をえぐる、耳の穴に指を入れてえぐる、金的を握り潰すなどすると」 「例えば首を絞められたら両手は自然に絞めている相手の手に向かいますね。この自然防衛的な反応をどのようにしたら自分の手が「当然のごとく至近距離にいる」相手に反撃をする事が出来るか、という精神的な訓練も必要となります。その為にも自分にどれだけの時間が与えられているのか(窒息なのか頚動脈が抑えられているのかで「安全時間」が非常に異なる)を知る必要があるわけですね。窒息であれば自分で息を止めればいいわけで時間は充分あります。しかしそうでなければ20秒もないかもしれない」 上記のようなことは御回答者様にとって一切無用なことなのでしょうか。