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自然を「あるがまま」観察する態度とは?
最近よくお世話になっております。いいかげん引き上げようと思うのですが、質問すればするほど疑問が膨れ上がるサイトですね、ここはA^^; ところで 哲学的態度とは要するに「自然を、あるがままに観察する態度」というふうに教えてもらったのですが、これって、どういうのですか? 本当に、できることなのでしょうか?? 赤ちゃんがえりすればいい、ということなのかなあ?とも思いましたが、なんかよく分かりません。。。 なお、いつもお願いすることなのですが私は回りくどい文章が、もの凄く苦手です。直截な御説明をいただけない場合、お礼は素っ気無いものになると思います。その点、悪しからず。 宜しく、お願いします。
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こんにちは。補足のご質問ありがとうございます。 >胎児が母親の腹中で笑ったりするそうですが、これはどう御考えになりますか? >我々に「生後間もない赤ちゃん」のようであることが実際のところ可能でしょうか? 母親のお腹の中の胎児の話になってきますと、お話の内容は確かに哲学的ですが、形而上学や神秘学の分野へと広くなってきてしまいまして、説明が少し複雑になってきますので簡単に私が感じることを書かせていただきますと、母親の中で笑うのは「純粋な喜び」の表れだと思います。私の体験では、知性は別にして、生後間もない赤ちゃんのような意識にすることは可能だと感じます。 >自他の相違を分析・判断・比較する前の「確認」行為に関しては、どう御考えになりますか? >「相手の価値観を認める」うえで不要な行為ですか? もちろん確認行為については分析になりますね。様々な影響を受けて、成長するにつれ、私たちは価値観を持ちます。そして、様々な体験を通して、分析、判断、比較することについて知り、不必要であることを認識することができます。もちろん、それは人それぞれのタイミングやどのように生きるかという選択が大きく影響すると思います。 >「自分の姿」は自分が決定できるということですか? >それとも「他者の鏡に映った自分」をも認めるということですか? >これによる暴力的影響に関して、どう御考えになりますか? 自分の姿(自分らしさという意味で)は自分が決定するものだと思います。他者がどう自分を思っていても気にならなくなりますので、他者の鏡に映った自分さえもOKという状態になります。暴力的な出来事が世の中で起きますが、やはり葛藤や判断等が生み出す現象だと私は感じています。 >「自分の価値観や判断を捨てる」 >これも一つの価値観や判断になりませんか? 確かにそのように捉えられるかもしれません。私の中の判断とは「自分が正しくなければならないという事を正当化するために、あっちの方がこっちよりも良いとか悪いと決定すること」です。価値観や判断は人の選択であって、良いとか悪いものではないと思います。この意味で「自分の価値観や判断を捨てる」という概念は、判断ではなくて、一つの体験上の認識になると思います。ただ、判断を手放していけば、自然のありのままの姿を観察することが可能になります。 以上ですが、体験したことはなかなか言葉で正確に表すことが難しいですが、参考になれば幸いです。
- nabayosh
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こういう質問は、その発言をした人でないと答えようがないと思います。 要するに、いろいろな偏見や思い込み(イドラ)から脱却しなさいってことだと思うんですね。 性善説や性悪説を捨てて、人間白紙説を、ということでしょう。 赤ちゃん返りをさらに遡って考えると、先祖返りになるかもしれませんね。 聖書のはじめで、アダムが善悪を知る木の実を食べて楽園を放逐されたという話がありますが、それならば話は簡単、楽園に戻るためには善悪を忘れればいいのです。 うん。 あとは角度によっていろんな見方ができるという問題もあります。 このへんは現象学の話になってくるかもしれません。 まあ、とっちらかるのでやめておきましょうか。 引くに引けない専門家・・・困ったなあ(←本当は「困る」というのは感情的なので、あるがままではないのですが)
お礼
先般は、せっかく良い御回答を戴いたと喜んでおりましたのに、あえなく「淘汰」されてしまいまして誠に申し訳ございません。 全く、このサイトは『皆の疑問、皆で解決』という看板を取り下げるべきだと思います。まさに「看板に偽りあり」ですね。 前回の御親切な御投稿がワヤになってしまったにも拘わらず今回また、お付き合いくださいまして本当に有難うございます。 >いろいろな偏見や思い込み(イドラ)から脱却しなさいってこと ●感覚における錯覚 ●個人の性癖、習慣、教育によって生じる誤り。 ●言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見。言葉や言語が引き起こす偏見。 ●思想家たちの思想や学説によって生じる誤り。 何種かのイドラのなかでは脱却しにくいものと比較的退けられることがあると思いますが結局、完全なる脱却は困難ではないかと思います。 脱却と言うよりは追究することを諦めて「手離す」というほうが近いですか? たとえば「冷たい、寒い」と感じるのを、ただ感じるだけにして「なぜ冷たい、寒いと感じるのだろうか」と疑問に思わないという感じですか? 事象対象の背景を探ることをやめる、ということでしょうか? それはやはり経験体験を重ね尽くしてこそでなければ、そういう境地には至らないかと思いますが果たして「重ね尽くした」と言い切れるものですか? >楽園に戻るためには善悪を忘れればいいのです。 失礼ながら本気で仰ってます?(笑) 犬や猫ですら最低限の善悪の判断は持っているようですのにヒトが? 善は「善」というレベルを貼ってもらわなくても、まして貼ってもらっても何ら不つごうはないでしょうが悪は「悪」というラベルを貼られないで済むのを大歓迎するでしょうね? >このへんは現象学の話になってくるかもしれません。 私は現象学のことは難しくて、よく分かりませんが本当は、このあたりにカギが潜んでいるのかもしれませんね。 >困ったなあ この一言に、すべてが表れているように思います(苦笑) 困らせてしまって本当にスミマセン。 あまり突っ込むと、この質問も「淘汰」の憂き目に遭いかねませんので、いい加減にしておきます。 決して御無理を強要するものではないことを、お断りしておきます。 と言って「疑問が解決」してもいないのに「ははー、よく分かりました」とは言えない(苦笑)
こんにちは。No.1を回答させていただいた者です。 >早速のアドバイス有難うございます。 >実際の赤ちゃんというのは母親等、周囲から受け取る影響が非常に強い、つまり「巻き込まれ」易いのではないかと思うのですが、これとは>違うのですか? 赤ちゃんを育てると分かりますが、確かに成長するにつれて周りの影響を受け始め、自意識が生まれ始めます。赤ちゃんは確かに親の影響を強く受け取りますが、生後間もない赤ちゃんは遺伝子的な生物学的な影響を除外すれば、あるがままの姿をしていると思います。つまり、分析や比較する対象が一切無い状態なので、感情的に巻き込まれることは無いと思います。 >>相手に巻き込まれない >というのは、つまり「テキトーにあしらう」ということですか? 巻き込まれる状態とは、自分の中にある価値観が、相手の価値観との間に相違があると分析・判断し比較している状態です。そこから、争いや、ストレスが生まれます。そして「あの人にこうしてもらいたい」とか「自分が正しい」等と相手や自分を「コントロール」し始めます。例えば、相手に巻き込まれないとは、No.2の方も書いているように相手の価値観を認めることに繋がります。そうしてくると、結局価値観という概念は不必要であるという境地になってきまして、この世の全ての人は自分と全く同じ人はいないことから、人々が自分とは異なる考え方をしていることが自然であって、自分は自分の在る姿でいるだけでよいということが分かってきます。こうして見ると、完全な受身のように感じられますが、決してそうではありません。受身とか積極性という概念すらなくなるので、あるがままの自分自身の姿でいられます。 決して相手を見くびったり軽んじてあしらうことにはなりませんが、「巻き込まれない態度」とは「適当に対応すること」という言葉でも表すことができるように感じます。「他人は他人だけど自分でもある」という一見矛盾していますが、このような感覚なので、相手は常に尊重している状態です。 ただ、長年人生を歩んでくると自分の価値観や判断を捨てるのは非常にハードに始めは感じられます。でも、実践することで得られる事は私は大きいと思いますし、誰もが選択さえすれば自然をあるがままに観察することができるようになります。みんな同じ人間ですしね。 以上、私の体験からの説明になりますが、参考になれば幸いです。
補足
再度のアドバイス有難うございます。 >生後間もない赤ちゃんは遺伝子的な生物学的な影響を除外すれば、あるがままの姿をしていると思います。つまり分析や比較する対象が一切無い状態なので感情的に巻き込まれることは無いと思います。 胎児が母親の腹中で笑ったりするそうですが、これはどう御考えになりますか? 我々に「生後間もない赤ちゃん」のようであることが実際のところ可能でしょうか? >巻き込まれる状態とは、自分の中にある価値観が相手の価値観との間に相違があると分析・判断し比較している状態です。 自他の相違を分析・判断・比較する前の「確認」行為に関しては、どう御考えになりますか? 「相手の価値観を認める」うえで不要な行為ですか? >自分は自分の在る姿でいるだけでよい >あるがままの自分自身の姿 >「他人は他人だけど自分でもある」 「自分の姿」は自分が決定できるということですか? それとも「他者の鏡に映った自分」をも認めるということですか? これによる暴力的影響に関して、どう御考えになりますか? 「自分の価値観や判断を捨てる」 これも一つの価値観や判断になりませんか? (御答えを強いるものではないことを予め申し上げます)
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
>自然を「あるがまま」観察する態度とは? う~ん、難しいですね。 どこかで言われた言葉は、その言われた環境を含んでいます。 そういった前提とか経緯を捨象して、あれこれは、難しいのです。 哲学的態度が問題でしたら、一番解り易い例は、人間学との比較ですね。 尤も、哲学の定義も人間学の定義もできませんが ただ、人間学とする場合、人間の認識作用の限界の中で、肯定的に存在であるとか認識であるとかを記述する事は可能です。 ところが、哲学が普遍性を目指して、人間の認識能力を超え出て、神の視点とか、猿の世界観、蜜蜂の世界をその客観ではなく、彼らの生のなかに入って理解しようとすると、困難が現れます。 人間学も恐らく哲学の一部ですから、哲学的態度にも、程度の差と本質的な違いが同居しているのかもしれませんね。 判りにくいとの事ですから、疑問があれば、具体的に補足してください。素人ですから、お答えできるかわかりませんが。
お礼
お礼が遅れまして失礼致しました。 人間学とは 人間の本質を哲学的に研究する学問。哲学の基礎学としての性格が強い。 ということだそうですが >哲学的態度にも程度の差と本質的な違いが同居しているのかも 似たような御意見を他でも伺ったことがあるのですが結局は個人的なレベルの問題だということになりそうですね。だから或る哲学者の研究者は、どこまで行っても研究者に過ぎないのだと。 それにしても「所詮、個別イロイロなのだから、そのイロイロを、そのままにしておけ!」という人自ら、そのままにしておこうとしない行動に出る、というのは、どういうことなのか甚だ疑問です。 「ヤマ」と言えば「カワ」じゃないですが 「哲学」と言うと「普遍」と返って来そうなものですが、いったい「哲学の普遍」って何なのさ?と思う、このごろです。 アドバイスいただき有難うございました。
- orayama
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おそらく全ての人間的価値観から脱却して"見る"ということではないでしょうか? 極めて客観的に観察し、"木"は"木という名前である"ということすら捨てて"見る"事だと思います。 そこには善も悪もなく、ただ単なる"真実"しかありません。 私の個人的な哲学としては、そういった"真実"を目の当たりにして、自らがどう生きていくべきかを悩み、結論(行動)を出していくことが哲学的態度だと考えています。 過去の哲学者たちも、それらの真実を自分なりに解釈して(様々なアルケーがいい例です)後世に伝えてきたのだと思います。
補足
早速の御回答をいただき有難うございます。 >自らがどう生きていくべきかを悩み、結論(行動)を出していくこと >自分なりに解釈して これらは思想とは違うものですか?
まさにお考えのように「赤ちゃん」のような心境だと感じます。 自分の中にある分析や比較する思考、そして「良い」「悪い」等という個人的な判断を捨てていくことで、物事を自然に任せ観察することができます。こうなってくると、何が起こっても感情的に巻き込まれることは無くなります。つまり、自分の中にある「価値観」を捨てていくことにもなります。 中庸、行雲流水という言葉もあるように、様々な体験を通して来ると、まさに自然に任せて出来事を観察するほうがとても楽で、物事もスムーズに想う様に流れてくることを、あくまでも私の個人的な体験ですが、実感しています。相手に巻き込まれないと、その人そのもの(例えばその人の個性等)を見ることができますし、他の人がどのように考えているかどうでもよくなってきます。 以上ですが、何かの参考になれば幸いです。
補足
早速のアドバイス有難うございます。 実際の赤ちゃんというのは母親等、周囲から受け取る影響が非常に強い、つまり「巻き込まれ」易いのではないかと思うのですが、これとは違うのですか? >相手に巻き込まれない というのは、つまり「テキトーにあしらう」ということですか?
補足
何度も拙い補足にお付き合いいただき恐縮です。有難うございます。 >母親のお腹の中の胎児の話になってきますと、お話の内容は確かに哲学的ですが形而上学や神秘学の分野へと 私は、むしろ科学的な話になるのかと思っておりました。。。 >「相手の価値観を認める」 >確認行為については分析になりますね。 「確認行為は分析ゆえ、不要である」ということですね? 結局のところ自分自身が受け取った「相手の価値観」への「印象」つまり自分が感じた「第一印象」を、そのまま受け取っておれば宜しい、ということになりましょうか? それとも何らの印象も感じないでいる、ということでしょうか?(私には想像もできません) では私が御回答者様の印象について 「>私の体験では~生後間もない赤ちゃんのような意識にすることは可能だと感じます。 >「自分の価値観や判断を捨てる」という概念は、判断ではなくて一つの体験上の認識になると思います。ただ判断を手放していけば自然のありのままの姿を観察することが可能」 などと述べていることは欺瞞である。それが証拠に、ここで私に回答を繰り返しているではないか」 などという選択をした場合にも、決して気にはなさいませんよね? そしてそれを公の場で触れ回ったとしても。 実際には「自分の価値観や判断を捨てる」という選択を迫られる場面は日常生活のなかで直面することだと思います。 要するにタイミングや場面に応じて、ということでしょうか? そうすると、どのタイミングや場面で、「それ」を選択するのかという、また一つの判断を迫られていることになりますね? >私の中の判断とは「自分が正しくなければならないという事を正当化するために、あっちの方がこっちよりも良いとか悪いと決定すること」です。価値観や判断は人の選択であって、良いとか悪いものではない これは哲学ではなく思想の問題だということでしょうか。 では、そもそも哲学が起こりきた原因とは何なのでしょう? 「禅」というものは無知な私が思うに多分「とらわれのない心境」を目指しているのであろうかと察していますが、これはそのまま「とらわれた心がある」ことの証拠に他なりませんよね? (重ねて申し上げますが決して、お答えを強要するものではございません。)