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他人と時間を共有する、というのは、どうやってやるのですか。

お世話になっております。よろしくお願いします。 他人と時間を共有する、というのは、どうやってやるのでしょう。 目的を持たず、利害を考えずに、ただ、他人と時間を共有する、というのは、 どんな状態なのでしょう。どうやってやるのでしょう。 まるで感覚がつかめません。 自分の夫や子どもでさえ、時間を共有するのが、とても苦痛で、疲れます。 逃げ出したい・追い出したいばかりです。 「他人と時間を共有する」=「恐怖」「緊張」です。 お正月やお盆やゴールデンウィークなど、その時間が続くときは、かなり苦しいです。 ときどき冬眠したくなります。 他人と時間を共有して、喜びや安心を感じるためには、どうしたらよいのでしょう。

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回答No.12

こんばんは。 私は小さいときから、自然体ってなんだろうって思っていました。 人の輪の中で、意識してぎこちなくなってしまう自分。 つい見栄を張り背伸びしてしまう自分。 逆に気を使いすぎてしまう自分。 気疲れし、面倒臭くなって、ぞんざいな態度になってしまう自分 逆に何かにつけてやりすぎてしまい、バランスの悪い自分。 自然体でいられるには、どうしたらいいんだろうって思っていました。 私にとって重要だったキーワードは、 ・感じること   ・ゆるすこと でした。 自己嫌悪。自己否定。葛藤。抑圧。麻痺。 そういうのをほどいていくことで、段々ラクになりました。 感情にブレーキをかけてしまうと、 人は「自分と一緒にいられなくなる」と思います。 人と一緒にくつろぐとは、気持ちの上で一緒にいることのように思います。 聖書に、「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に共に泣け」という言葉があるそうです。 自分の気持ちを感じつつ相手の気持ちを感じられると、 気持ちのほうが自然に同調し、寄り添いやすくなる場合が多い気がします。 気持ちの波長が共振しているとき、通じ合ってる感じがあり、 通じ合っている気がするということ自体が慰めや喜びをもたらしてくれます。 何をどうするとか何をどう言うとかは関係ないように思います。 ああしようかこうしようかと悩むことなく、一緒にいられます。 どうか、自分の胸の中で去来する思い、想念、 それらに対する自分の感情的反応 痛みや空しさ、寂しさ 荒唐無稽かもしれない憧れやささやかな優しさ、 意外と落ち着いている部分、逆に意味不明の焦り、 ちょっとした優越感や批判の気持ち、 とかを、刻一刻、目をそらさないで、 温かい目で見守ってあげてください。 しっかり胸の中で感じてあげてください。 胸の中で、自分と一緒にいてあげてください。 気持ちを感じ続けていてあげてください。 それが、自分とつきあうということだと思います。 私の経験では、ネガティブな感情の多くは、 しっかり抱き止めて感じてあげるだけで、 溶けていく場合も多いようです。 胸の奥でネガティブな感情が変容していくときの静かな熱は そのまま愛と言い換えてもいいようなエネルギーに私は感じます。 ネガティブな気持ちを見ることで自己嫌悪が生まれたら、 嫌だなと思っているその自分をあったかい目で眺め、 感じている事の丸ごとを心の中で抱きしめてあげてください。 自己批判や人を裁く気持ちにきづいたら、 そのモノサシが合っているかどうかは脇において、 「罪を憎んで人を憎まず」の精神で、人、自分を許してあげてください。 許すという事がよくわからなかったりうまくできなかったら、 よく分からなかったりうまくできない自分を許してあげてください。 肯定しなくていいから、許してあげてください。 そして愛してあげてください。 今の気持ち。いま感じていること。 それがあなただと思います。 そのときの気持ちがどんなものであっても目をそらさないで受け止めて ちゃんと感じてあげられるようになるにつれ、 私は私の中に静かな落ち着きが生まれていくのに気づきました。 考えてみると、世の中に私を激しく傷つける人も、始終嘲る人も しつこく困らせる人もいないのに、怖がっていたことに気づきました。 結局、人が怖いというのは、人との接触が引き金で自分の中に引き起こされる ネガティブな感情を「感じる」のが怖かったのであって、 「感じる」ことは怖くないんだ、と気づいたとき変わり始めることができました。 一人のときに、「積極的に自分と一緒にいてあげる」 ことからはじめてみてください。 それはただ一人でのんびりしていることよりも意識的で疲れるかもしれませんが、 穏やかであったかいものです。 段々人と一緒にいる時間も穏やかであたたかい時間になっていくことと思います。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >自分と一緒にいてあげてください >温かい目で見守ってあげてください >肯定しなくていいから、許してあげてください :私本人が気づいていなかった私の問題を突いてくださりありがとうございます。 言われてみれば、私はこれらのことが、とても苦手です。 「>抑圧・麻痺」に慣れ、「自分の感情」に慣れていないようです。 「自分の感情とともにいる・見る・抱える・許す」ということが、とても苦手です。 私が恐れているのは、「他人」ではなく、他人と一緒にいることによって発生するであろう 「自分の感情」なのかもしれませんね。 おっしゃるとおり、私を意図的に傷つけようとする人が、実際いるわけでもなく、 いるのは、無駄に怖がり、無駄に傷つく私です。 私が「>自然体」でいられないのは、他人に目を向けることで、自分を見なくて済むから、 でもあるのかな~と思いました。 とても参考になりました。ありがとうございます。

neutral
質問者

補足

ご回答くださったみなさま、本当にありがとうございました。 とても参考になりました。

その他の回答 (11)

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.11

#10です。ご返事ありがとうございました。 再度お邪魔いたします。 >>わかりやすい存在として認識したいがために完璧性を求めていた :この場合の完璧性は、 「neutralさんが、彼らのキャパシティの範囲内にきちんと納まっていること」とお考えになっていただいて良いと思います。 >逆もありそうですね(私が自分に求めていることを他人にも求めるということ)。 これはかなり近所迷惑だと思うので気をつけます。 :見方にもよりますが、私はこれも完璧性の裏返しのような気がします。 超自我の肥大は(自他共の)自我への圧迫による軋轢を生みます。 ご存知と思いますが、 本能→快・不快 自我→損得 超自我→善悪 という3層構造を精神に想定する考え方があります。 近所迷惑云々よりも、もっと【自分に得になること】を考えてバランスを取ったほうが良いのではないかという気がします。 超自我の言いなりで自我が疲れている、といった印象を受けるわけです。 因みに超自我の根本は「規制」です。 色々と勝手なことばかり述べてきましたがご寛恕下さい。 他の方への回答を拝見するのをいつも楽しみにしております。 今後ともよろしくお願いいたします。  

neutral
質問者

お礼

ふたたびご回答ありがとうございます。 >彼らのキャパシティの範囲内にきちんと納まっていること :なんとなく分かりました。 「私が『取扱説明書通りの扱いやすいモノ』であること」を求められていた感覚は確かに あり、今は、私がそれを、私に(他人にも?)求めているという感覚も確かにあります。 人の、人間くささ・なまなましさを見ることに、少しずつ慣れていきたいと思います。 >超自我の肥大は(自他共の)自我への圧迫による軋轢を生みます >超自我の言いなり :かなりグサッときました。 実は、恥ずかしながら「『>超自我の肥大』が人生の目的ではない」ということに気づいた のが、ほんの数年前でして、目的地を間違えて歩いていた時間のことを考えると、 なんだか無駄に時間を喪失した気分になって悲しくなります。 バランスですね。「良い加減」「適当」をひとつひとつ体感していきたいと思います。 先日いただいたご回答をふたたび眺めて考えたのですが、 「私を軽蔑・侮辱する人がいた」→「私は軽蔑・侮辱されるべき人間である」 という論理も、やはり間違っている、ということが、今はぼんやり分かります。 よろしくと言ってくださりありがとうございます。感激しました。 「喜」を受け取ることを拒否しない、というのも、私の課題のひとつです。 こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。 ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.10

完璧性を求めないようにできるといいんでしょうね、多分。 なぜ完璧性を求めてしまうのかというと、これはやはり自分自身がそれを求められていたという記憶が強く刻印されているからと考えるのが自然かもしれません。 (広義の)完璧性を求められていたという感覚は、自分は常に不完全なものとしての対応を受けてきたという認識につながるでしょう。 そういった認識に至るのは自然な成り行きだろうと思いますが、しかし、そういう対応を受けてきたということと自分がそうであるということはまた別の問題です。 不完全ではないと言っているのではありません。(完全な人間などいませんから) 彼らが不完全だと思っていたのだから自分は不完全だという(無意識の)論理に誤りがあるのではないか、ということです。 それは不合理な思い込み(イラショナルビリーフ)と認定することができると私は思います。 彼らが完璧性を要求していたのは彼らのキャパシティに余る存在だったからでしょう。 つまり、わかりやすい存在として認識したいがために完璧性を求めていたということです。 そして、それが愛だと彼らもまた思い込んでいた(あるいは思い込まざるを得なかった)に違いありません。 ゆえに、責めることはできても責め続けることは難しいでしょう。 しかし、ケリはつけておく必要はあると思います。 存分に吐き出してください。 並行して、完璧性の放棄を試みてはいかがでしょうか。 neutralさんはたとえば掃除などを一旦し出すと、プロも顔負けというぐらいとことんやってしまうような気がしてならないのですが、いかがでしょうか。 その完璧性ゆえに持続せず掃除が苦痛になってしまう。 結果として全く何もしたくなくなる、という構図があるように感じます。 あえて中途半端を目指す。 手順としては、一旦思い切り手抜きをしてから完璧でなくても大した支障はない、ということを確認する。 それから「少しだけ」やってみます。 面倒なことはなるべくやらないように「心がけ」ます。 その繰返しです。 そして、その「少しだけ」の継続に慣れるようにする。 掃除と一緒にするわけにはいきませんが、人間関係も似たようなものでしょう。 完璧に関ろうとするから「そんなの無理」と最初から厭う気持ちが前面に出てしまうのではないでしょうか。 不完全でもいいのではありませんか。 そして、彼らも心の深いところでは、ありのままのあなたを深く愛していたのではないでしょうか。 ただ、その表現の仕方を知らなかった、というより、支配することでしかあなたを繋ぎとめておけない、と必死だったのでしょう。 しかし、いずれにしてもそれらは全て過去のできごとです。 過去のことだと納得するのは難しいかもしれませんが、過去のことであるのは事実です。 彼らの視点から見られているneutralさんはもうどこにもいません。 neutralさんの視点から見た誰かとの関係性がすでに始まっています。 視点を据えるのは自分自身ですから、完璧であるとか不完全であるとかいう判断は不要です。 『できることをやるしかない』ということですし、それ以上でも以下でもないでしょう。 他人がそれ以上を求めていると思うのは、これも不合理な思い込みにすぎません。 ただ、その前にやはり完璧性の放棄が先決でしょう。 なぜなら、他者は、neutralさんがご自身に求めているのと同じ事を求めてくるに相違ありません。 「愛する人が自身に求めているものと同じもの」を他者が求めるのは、愛の形態のひとつと言えるからです。  

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 このご回答をいただいたとき、私は(自分を含めて)人を信じる力が弱いのだな~とつく づく思い、なんだか恥ずかしくなり、悔しくもなり、そんなことを考えているうちに悲し くもなりました。 >完璧性 :図星です。掃除もそうですし、学生の頃の宿題も、要領よく片付けるということができ なくて(理解できない部分を少しでも残しておくのがとても不安で)、睡眠を削り娯楽を放 棄しているうちに、だんだん、「最初から私には睡眠や娯楽なんか必要ないのだ」と、自然 に納得してしまったほどでした。仕事でもそうで、困ったことに、完璧にこなそうとしな い他人に対して勝手に腹を立てていた時期もありました。 私は、軽蔑と侮辱が、とてもこわくて、大きらいです。 そのわりに、一番、私を軽蔑し侮辱しているのは、私だったりします。 にもかかわらず、私は、軽蔑と侮辱を「完璧に」避けようとしているということですね。 よく考えるとおかしくて笑えます。 そういえば、今も、失礼のないように「ちゃんと」お礼を書こうとしていることに、 またやってらあ・・と苦笑しました・・。 確かに「>人間関係も似たようなもの」かもしれませんね。 >わかりやすい存在として認識したいがために完璧性を求めていた :すみません、これ、よく分かりませんでした。 >『できることをやるしかない』ということですし、それ以上でも以下でもない :本当にその通りですね。当たり前のことなのに、私には、とても新鮮です。 私は「できないことでも『できなさい』」と自分に強要しては逃げていたということですね。 >他者は、neutralさんがご自身に求めているのと同じ事を求めてくるに相違ありません :逆もありそうですね(私が自分に求めていることを他人にも求めるということ)。 これはかなり近所迷惑だと思うので気をつけます。 長くなってすみません。 とても参考になりました。ありがとうございます。

neutral
質問者

補足

お世話になっております。ご回答ありがとうございます。 不完全な自分の存在を許された感じがして感激しつつ、 グサッと来た感じもするのは図星だからでしょうね。 少し時間をかけてゆっくり理解したいと思います。 まだ頭の中が整理できていないのですが、すぐにお礼を言いたかった次第です。 ありがとうございます。

noname#31063
noname#31063
回答No.9

neutralさん、お礼で更に情報をありがとうございます。参考になりました。って私ったら!たいした人間でもないのに意見しようとし、勿論neutralさんの心境、立場をまだ完全に理解もできるものではないのですけれどね。こういう人間は本当にアテになりませんね。 >関係の持ち方が歪んでいる私から~、なんて? お人柄からいっこも感じられないのですが、というか見習うべき!私です。 そこに至るまで自分とも向き合って戦ってこられたのですね。 立派な意見ができる訳ではないですが、私としてもよく「浮いてる」といわれるので(苦笑)一緒に考える価値があるのです。 心理学より深い根源からとなると哲学になってきまして(私は心理学と哲学の違いも判ってないのですが)、脳の空容量を考えずに考えようとして私の頭が散らかってしまうと比例して、家の中も散らかります!。 これも根本原理です? 落ち着きませんので家の片付けもしながらしています。 話したいことは 1)実在と価値観と共感について 2)自由と時間について 3)親と教育について。で 輪郭はあるのですが、中身がまだ薄いです。 どうにかこうにか(いつになるやら)埋めようと儚い作業中です。 neutralさんも模様替えなど気分転換していてくださいね~~。 他に良い回答が入るのも一緒に期待している私です。どなたか・・・。

neutral
質問者

お礼

何度もお付き合いいただき、本当にありがとうございます。 哲学からの考察もありなのですか。 「自分が何に困っているか」に気づくことだけで精一杯で、 どこに答えを求めたらよいのかも分からない状態でして。 確かに頭が散らかります。そして家の中も散らかります。 とりあえず活字を生産するのを休止して、他人の生産した活字を喰らいつつ、 頭と家を片づけつつ、たんたんたん・・と生活しております。 「時間について」は、とても気になります。 実は「時間が気にならない瞬間・時間を忘れる瞬間」というのが、ほとんど無いんです。 「愛する人の手を握っていたら時間が消えていた」みたいな感覚が分からないのです。 「ただ『する』」ということができないのがどうしてなのか分からないのです。 「ささげる」ことができないからでしょうか。それはどうしてかしら・・。 時間さえ、溜め込もうとしているのでしょうか。 ときどき逃げて休憩しつつ、試行錯誤を続けます。 いつも、ありがとうございます。

noname#31063
noname#31063
回答No.8

開いてて良かった♪ それでNo7さんの >人を求める思いが強過ぎると人に対する恐れも強くなります。  強い願いや期待ほど、かなえられないとショックですよね。 と重なるのですが、人と時間を共有するという願望があって、 安らかなものを得られない、実感として持てないから 不自由を感じるのですよね。 順番が逆であったから、こともありそうです。 「人と時間を共有する」という目的があって 「人と時間を共有したい」という願望が出るものじゃないからです。 そのことについて、お願いがあるのですが、 遅筆(脳の具合からしても遅いです) 表現力の鍛錬も行いませんとですし、 整理して書きこみますのでしばらくこの掲示を開けておいて下さい。

neutral
質問者

お礼

たびたびありがとうございます。 最初にあるのは「人と時間を共有するという願望」ではなくて、 「人と時間を共有しているという状況」です。 私の願望は、「その中で安らぎたい」+「逃げたい・追い出したい」というものです。 その時間をどう扱ったらよいものか、その時間の中で自分をどう扱ったらよいものか、 がまるで分からなくて困っている次第です。 「恐い」「逃げたい・追い出したい」という気持ちは、多分、もともとは、親に対しての もので、それを不特定多数の(いや、全ての?)人に転移させているのだろうな~とは 思うのですが、勝手に湧きやがるこの気持ちをどう扱ったらよいのかも分かりません。 私が他人と時間を共有すると、必ずその中に、気分的支配服従とか優位劣位なんかが 生まれてしまうのですが、これを生まないためにはどうしたらよいものか、そもそも これを生まない関係がどんなものか、感覚的に分かりません。 関係の持ち方が歪んでいる私から、子どもが何か学ぶのかと思うと、かなり恐いです。 ところで何か思いついたのですか? まだ閉めませんのでよろしくお願いします。

回答No.7

人を求める思いが強過ぎると人に対する恐れも強くなります。 強い願いや期待ほど、かなえられないとショックですよね。 >一人でいる時間の「緊張」を解くことにはある程度成功したのですが、「目的を持たず、利害を考えずに、ただ他人と時間を共有する」という状況においては相変わらず緊張 一人という状態は他者に期待しないで済みますからね。 「目的」という衣があれば、それを纏えるが、何もない情況だと「裸」でいるような気持ちになるのでしょうか? 「目的」「利害」というものは必然的に自他の立場と力関係を明確にします。 「歯科医院」「美容院」は、もちろん目的や力関係が伴うわけです。 カラダの緊張が強いということが体質から来ているのか心理的なものから来ているのか私には分かりませんが、やはり、ここに本当の原因が潜んでいると思います。 押さえ込まずにはおれないものがあるのでしょうかね?出してしまうのを恐れているような。 御質問者様は、どうやら、いろいろお勉強なさっている教養と知性の高いかたという印象ですので、もうすでにお試し済みかもしれませんが 『バイオフィードバック』療法というものは御存じでしょうか? 「過緊張」というものが諸悪の根源であるのなら、こうした根本的な改善が必要かもしれません。 あとヨガや太極拳とかもいいらしいです。 御参考に。

neutral
質問者

お礼

たびたびありがとうございます。 >人を求める思いが強過ぎると人に対する恐れも強くなります。 >他者に期待 :ご指摘ありがとうございます。図星です。 「>出してしまうのを恐れている」のも図星です。 脆弱な「自尊心もどき」を壊されないように必死で守っている感じです。 私を傷つける意思がない人(ほとんどの人がそうだと思いますが)をも警戒しています。 どうやら私は、わざわざ、他人の中に悪意を探しているみたいです。 以後、気をつけます。ありがとうございます。 >自分を守ろうとする意識が強い割りに実際はバランスがガタガタで自分の足で立ってい られないから他者に依存する気持ちが非常に強い :他の質問の回答から引用してすみません。 これを拝読したときにかなりグサッときたので、多分、私が、そうなのだと思います。 この点も、以後、気をつけます。 >『バイオフィードバック』療法 :聞いたことがないので検索してみました。 普段意識していない部分を意識化してコントロールできるようにする、「緊張していない 状態」をカラダで覚え、自分の意思でその状態になれるようにする、という感じですね。 今は「緊張していない状態」をカラダで覚えるべく「安定剤」のお世話になっていますが、 自分で緊張を解く方法は、今後もいろいろ覚えて行きたいと思います。 ヨガはいいですね。1年前に始め、わりとドンピシャだったので、これも続けます。 ありがとうございました。

noname#31063
noname#31063
回答No.6

お礼ありがとうございました。退屈と仲良しのミコです。 どのくらい退屈でも平気かというと、物心ついた時から17歳まで夜は鍵っ子でめったに人に会わない生活で、自分が変でも(謎)咎める親も居ませんでしたから、気の使い方はまだ下手だと思います。それでももっと可愛そうな子供が世界には居るし、もっと悲痛な感情を知りたくなって、心理や哲学の本を読むようになり自分を可愛そうと思わないよう出しようも無い虚栄心(爆)の塊になったかも。 誰かが幸せそう、楽しそうだと傍観するだけの自分も嬉しかった。 だから孤独は甘美なものです。誰に迷惑もかけないで居られるだけで自由を感じます。 >自分に無関心とも言います。だから他人にも無関心になってしまうのでしょうか。 そうですか?neutralさんは人の気持ちにとても機敏で、物腰も可愛らしく女性らしいですよ。温い。改善する必要もないと思いますが、疲れるのはもっと秘められた力があるのに出し惜しみしてるせいじゃなかと思います。 価値観の違いを体現するなら、そんな時子供は便利ですね(笑) こんな私にもなついてくれたし、私が居ないと泣いて捜しまわってくれます。何と慈悲深い存在でしょうか。親に似てマイペースですが、そろそろ論戦相手に不服のない競合相手になって来ました。これからは子供に親(私)が育てられるのかもしれません(笑)。 夢を見て下さい。そしてそれを人に嬉しそうに話してください。 幸せの種は向こうから来て落としてる可能性もあります。

neutral
質問者

お礼

ふたたびお付き合いいただきありがとうございます。 相変わらず、優しい言葉をいただくと消えそうになってしまうのですが、私の中に長所を 探してくださる方がいて、それを肯定的にとらえてもらえるというのは、本当に、とても、 うれしいことです。ありがたくいただき、大切にふところにおさめておきます(笑)。 と書きながら考えたのですが、優しさを受け取ることにも、このように不器用です。 気をつけていないと、自分が「喜んでいる」ことにも気づかず、気づいても「喜ぶこと」 に自ら抵抗しているようです。自分を守るべくハリを立てていると、「苦」も入ってこない けれど「喜」も入ってこないのでしょうね。 ん?自ら「喜」さえ避けているということか? 「>改善する必要」に強迫されているようでいて、実はしがみついているのかもしれない です。「改善しない状態」の自分を認めて受け容れるパワーを持ちたいものです。 子どもは本当に「>慈悲深い存在」ですね。見習いたいです。 「他人と時間を共有する」ことにかけては「天才的」に見えます。お手本にしたいです。 >夢を見て下さい。そしてそれを人に嬉しそうに話してください。 :「嬉しい」と思うことに抵抗しないところから始めようと思います。 ありがとうございました。

noname#31063
noname#31063
回答No.5

私は自分は正常で普通と思っているけど 他人も身内でさえ、マトモな人間扱いされないので 非常な理不尽を感じますが、逃げ道でもあるので 変人も楽です。全て解放されます。自分楽しやワールドです。 変人になっちゃいましょう!。(←冗談ですから) 緊張することなく大切な人と楽しく過ごしたいですよね。 対処療法としてですが、 時間や場の共有が楽で安らげた実感というのは ずっと楽な相手には感じないもので 対処療法として 価値観が全く異なる相手(遠い分化の外国人とか変人とか?)や 競合するライバルのような人と奇遇にも一致するものが見つかると 自分のことのように相手の時間に一喜一憂する自分を見つけて え?って感じになりますけど、 以前よりも距離が縮んで楽だという実感は相対的に掴めるでしょうね。 もし、確実に共感し合える相手がいたらば、 逢わずとも離れない、別れないものだと、孔子的に思います。 多分、自分から甘えたり諦めることが苦手、優し過ぎるからですよ。 周囲には長所に映っていても、自分には優しくしてあげてない これを一刻も早く改善して欲しいので本能が恐怖を与えたのかな? それを歓迎してる周りが強過ぎか弱過ぎ!るようなのですか? ただ強いという器用な人も居るように思ってなくて(例外もありですが) バランスは穏やか一辺倒でとるより、 寄せては返す波のようなバランスでとるものにして、 情緒豊かに過ごせるのが一番自然で楽になるかと思いますよ。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 虚栄心の仕業なのか、なかなか変人になりきれず右往左往しております(笑)。 そりゃもう必死で「>理不尽を感じ」ないようにハリを立てております。 冗談ではなくて、いい加減、サクッとふっ切れたいものです。 「>価値観が全く異なる相手」に触れるのはよさそうですね。 といいますか、拒絶しないようにしたいものです。 「>遠い分化の外国人とか変人とか」からもいただけるものはいただきたいものです。 そういえば、宇宙語(?)を発しながら水溜りで行水なんかしてる幼稚園児を見ていると 「私も参加していいっすか」なんて思いつつ、いつも傍観してます。 行動する前に「無駄」とか「有益」とかいちいち考えて省エネモードになっちまう悪癖も なかなか抜けないのでして。この際、一度、本当に混ぜてもらおうかしら。 もしかしたら「楽しい」の感覚が「分かる」ようになるかもしれないですし。 >自分には優しくしてあげてない :ご指摘ありがとうございます。まったくその通りです。自分に冷たいです。 自分に無関心とも言います。だから他人にも無関心になってしまうのでしょうか。 そういえば「他人に関心を持つ」というのも、どうやってやるのかよく分かってないです。 >バランスは穏やか一辺倒でとるより、 寄せては返す波のようなバランスでとるものにして、 情緒豊かに過ごせるのが一番自然で楽になる :私は「苦痛」と戦う意識が強すぎるのかもしれないですね。 半年ほど前、miko-desiさんに「退屈と戦う意識が強すぎるのでは?」というご指摘をいた だき、目からウロコだったのを覚えています。「退屈」「苦痛」なんかを「抱っこ」できる 余裕を持つには、まだ時間がかかりそうですが、のんびり試行錯誤を続けます。 ありがとうございました。

回答No.4

お礼を拝見しました。 いろんなタイプがいるもんだなと改めて思いました。 御質問者様の怜悧で簡潔な御説明で、よく理解できたように思います。 >逆に私は喫茶店でダンナ様が新聞ばっか読んでると悲しくなります・・・。 それは私だって、こちらが手元に読み物もないのに相手だけ没頭してたら「無神経だな、コイツは」と思いますよ。寂しい悲しいとこまで行きませんが、軽んじられている感じはします。 私の場合は早い話がヒト嫌いですから我慢の限界を超えそうになったら「逃亡」を図ればいいだけの話ですが、貴方の場合「ヒトは好き」なのですものね。 う~ん、ハリネズミね。。。ジレンマなんですね。 こうしたいが、そうすると、これが引っ掛かる、ということで。 つまり相反する要求がぶつかるわけですから、どっちかを一時的にせよ引っ込めるしかないでしょう。 カラダの緊張というのは、いろんな面から、その原因や弊害が指摘されているようですが、貴方の生育過程において「夜尿症」「摂食障害」があったということで、やはり内部的に根の深い問題を「先天的な面も含めて」、お持ちかと思われます。 「慢性的に緊張している」これがどうやらカギを握っているらしいということに、お気づきなのではありませんか? その「緊張」を解くための、何か方策を探って実行されたことはありますか?もちろん今さら、お漏らしや摂食障害に逃げるわけにはいきませんから、前向きで実効のあるものを探し当てなければならないわけですが。 これは飽くまで私自身の、ささやかな経験からですが 私自身も、なで肩体形だったり血行不良を起こし易かったり、貧血を患った時期があったりして、子どもの頃から肩凝りとかは酷いです。 で、たまたまなんですけど、昔つき合った男性が指圧やマッサージの心得があって、時々やってくれたんですけど、やってもらったあと格段にリラックスできるんですね。 私も何を隠そう、好きなヒトと(とくに好きでなくても)二人きりという情況は恥ずかしくて面映くて汗かくくらい緊張するタチなんですが、指圧やマッサージをやってくれたあとは、全身から変な緊張が抜けて、自然な気持ちで相手に接することがし易くなるのに気づいたんです。 そう言えば他のときでも、たとえば美容室でシャンプーしてもらった直後は美容師さんに対する緊張が少しの間だけ緩和されるのにも気づいてました。 私自身は専門のマッサージにかかったことは一度しかありませんが、お小遣いに余裕があれば、これは試してみる価値があるのではないかと思っています。 簡単に二つの効果が望めますね。 まずは全身の血行が良くなることで自動的にリラックスできる。 これは他人に対する嫌悪感や警戒心が強過ぎると、かえってストレスを誘発される恐れもありますが、大抵は、その恐れ以上に、あとの効果のほうが大きいと思われます。(私でさえ、そうなのですから) もう一つは、(ここが温泉等と違うところですが)マッサージをしてくれている相手に対しての安心感。その相手のみでなく、他の人全体に対しても親和感覚の効果が望める。 となると貴方のように本心が >淋しくて人を求めています。ただし、求めているわりに恐れています。 というような人に打って付けではないかと。どうでしょうか? そこで、御家族揃って、ゆったりできるときに、お互いに指圧やマッサージをし合う、というのを、お試しになってみては?要するにスキンシップですね。警戒していない相手でしたら始め易いと思います。相手が嫌がるのを無理にしてはなりませんが。 貴方は、お一人でも「マッサージを受ける」ということをされてみたらどうかと思います。最初「パーソナルスペース」の点で抵抗感があるかもしれませんが、実際のマッサージ効果というのはカラダにダイレクトに効きますから。 そのあとで、苦手な団欒のなかに入っていかれても、かなり緊張が緩和されているのではないかと思います。長時間の継続は無理だとしても。 >「無関心」というのは淋しい気もします。 それは、ちょっと違うのです。 「無関心」のようで「無関心」ではないのです。 「見守りつつ…」というのに近いかな。 >子どもたちは淋しくないだろーか悲しくないだろーかと心配になったりもします。 それは貴方の主観ですよね。 どうも「距離感のとりかた」に問題が潜んでいるかもしれません。 「ヒト嫌い」でないのであれば、どんなに有利なことか!! 「ハリネズミ」はハリをたためば、相手と寄り添うことが可能になるのではありませんか? たたむ方法を、いろいろ考えてみてください。

neutral
質問者

お礼

ふたたびお付き合いいただきありがとうございます。 >「慢性的に緊張している」これがどうやらカギを握っているらしい >その「緊張」を解くための、何か方策を探って実行されたことはありますか? :長い間、試行錯誤して(ここで得た回答も参考にしつつ)いろいろやってみた結果、 一人でいる時間の「緊張」を解くことにはある程度成功したのですが、「目的を持たず、利 害を考えずに、ただ、他人と時間を共有する」という状況においては、相変わらず緊張し ています。といいますか、混乱します。まだ足りないか、方向が正しくないのでしょうか。 マッサージはいいですね。そういえば私も、よく歯科医院の診察台の上で、歯の治療中に、 雑念や警戒から解放されて安心して眠ってしまいます。美容院のシャンプー台でも同様に 眠ってしまいます。こういう「安心感」をもっとどんどん自分から拾ってみます。 見逃したり拒否したりしないように気をつけます。 >それは貴方の主観ですよね :ご指摘ありがとうございます。はい。本当にその通りですね。 ときどき自分の子どもに自分を投影してしまうので気をつけます。 ん?勝手に憶測して自分で無駄な恐怖を作っているということでしょうか。 >「見守りつつ…」というのに近いかな :相手からのメッセージを受け取ることができる状態で、ということでしょうか。 >ハリをたためば、相手と寄り添うことが可能 :そういえば以前も「自己防衛を緩めるには」という内容の質問をさせていただいたこと があります。その時にいただいた回答を、さっき何度か読み返してみました。 ハリをたたむ方法は、もう少し、模索し続けてみます。 ありがとうございました。

回答No.3

あらら、お困りでしょうね。。。 >自分の夫や子どもでさえ時間を共有するのが、とても苦痛で疲れます。 となると。。。 でも実は私も、その傾向があるので御気持ち分かります。 子どもの頃は、そんなに悩んでいた記憶はないのですが年齢を重ねるにつれて本当に一人のとき以外は、くつろげなくなってしまいました。 それでも母親や、ごく親しい友人でしたら、それほどでなかったのですが父親なんか同じ部屋で黙っていると咽喉が詰まってきます。お台所で調理中そばをウロウロされるのも、もの凄く厭で実家に帰るたびストレスでした。彼氏が泊まりに来たひには、ほぼ完全、不眠です。横に誰かいると眠れないんです。朝、送り出してから会社休んで寝直したことが。。。これは結婚どころか同棲も無理だな~と、よく分かりました。もしするんなら部屋数の多い、リビングのだだっ広い住まいでないと。。。 そう言えば母の話では私は、親が添い寝すると、かえって寝ない赤ちゃんだったそうです。一人にしてやらないと寝なかったそうです。このときの私の心理って、どうだったんだろう?まさか赤ちゃんが親に気を許せなくて眠れない、なんてね?? パーソナルスペースの要求度みたいなものが絡んでいるかもしれませんね。素人の憶測ですけど。 私自身の例では、精神的に不調のときほど、ヒトが近づいて来ると逃げ出したくなるほど不快です。半径1メートル以内に近づかないで~もっとあっち行って~お願い!って感じで自分でも呆れるほどの生理的な嫌悪感を起こしてしまうので、よっぽどヒト嫌いなのですかね。 でも犬とか猫等は逆に落ち込みが激しいときほど接触したくなるタチなので、毎朝、満員の通勤電車に乗り込むたびに 「あ~、ここにいるヒトたち全員、わんこやにゃんこだったらなあ」 と思ってしまいます。筋金入りでしょ? う~ん御結婚はなされておられるわけですからね。。。 主婦のかたですと 「亭主と子どもが家でゴロゴロしてるだけで疲れる!どっか行ってほしい」 って、よく聞きますけどねえ。御家族が周りでウロウロしてると奥様お母様の立場では何かと気がかりで、それだけでも、うっとおしいのじゃありませんか?うちの母も「オトウサンいる日はウザい!」って、よく言ってましたが。 そうですねえ。。。私が誰かと一緒にいて息が詰まらないですむのは、まず、相手に気を許してリラックスできていること。 顔を見合わせて、おしゃべりとかしないなら、相手は寝転んで音楽聴いたりテレビ見て笑ってたりして、私は壁にもたれてマンガや雑誌読んでるとか、まあてんでんバラバラ、同じ部屋にいても無関心で自分のやりたいことに没頭してる、ってシチュエーションでしょうか。 そう言えば思い出しました。ウンと若かった頃、恋人できたらデート中、電車で移動するとき並んで座席に座っても、お互いそれぞれ持参した文庫本とかに読みふけって一切しゃべらないで、それぞれ自分の世界に入り込んでるのカッコイイなんて思ってて(今思うと変わった美意識ですね)知り合いの男子大学生に話したら 「ぼく絶対そんなのイヤ!!公園のベンチとかでいいから何時間でも話しまくりたい!」 って言いました。私は心のなかで「びんぼクサ」って思いましたが(笑) 御主人や御子様に心から気を許せてらっしゃいます?どこかで構えてらっしゃいます? 単に主婦の立場でうっとおしい、というのでなければ私と同じ、生理的にヒトがあまり好きではないとか。 それでしたら家族以外は、もう仕方ないですね。 「共有する」っても、お互い、おでこ突き合わせてガップリ組んで「何かを一緒に」やらなくてもいいんじゃないでしょうか。 てんでんバラバラで。 透明カプセルのなかに入り込んじゃってください。 ロマンス超大作とか読みながらスバラシイ殿方にエスコートされる自分を想像してデへへへなんて、「お茶ちょ~だい」って言われても上の空になれたらいいんですけどね。 でなきゃ、ちょー笑えるものとか。 敢えて「共同作業」でしたら、やっぱり、ちょー笑える番組見て全員で涙流して大笑いするとか。そんな番組やってたらいいですが。 昔、と或る日の私の実家では父が新聞読んでて母が編み物してて私がテレビ見てて皆黙り込んでて、突然母が「今オナラしたの、おとうさん?」って聞いて父が「…うん」って小さい声で言って、また沈黙が。。。こんなもんですよ。 無理しなくていいんじゃないですか?別に逃げ出したって。 私だったら亭主と子ども追い出す策を練りますけど。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 責めたり軽蔑したりしないで「そうですか。分かります。」「いいんじゃないですか。」 なんて言っていただけると、ずいぶん穏やかになれます。 ちなみに今日は私だけが休日なので家の中で一人での~んびりしてます。 そうなんです。他人とともに「>くつろげない」のです。どうしたらよいのでしょうね。 >パーソナルスペースの要求度・・・ :自分では、パーソナルスペースは広め、要求度は高め、確保するのが下手め、だと 思っています。一番、自分の意思で操作できやすいのは、どこなんでしょうね。 >「亭主と子どもが家でゴロゴロしてるだけで疲れる!どっか行ってほしい」 :これ、何ででしょうね。確かに家族の休日は、家庭内での私の仕事は増えるわけですが、 それが苦痛なのではなく、むしろ「することがない状態で、ただ時間を共有する」という のが苦痛といいますか、どうやってやるのかよく分からないのです。 >ヒト嫌い :多分、私は人間嫌いではないです。むしろ淋しくて人を求めています。ただし、求めて いるわりに、恐れています。ハリネズミみたいです。矛盾してます。 >並んで座席に座っても、お互いそれぞれ持参した文庫本とかに読みふけって・・・ :え゛。逆に私は喫茶店でダンナ様が新聞ばっか読んでると悲しくなります・・・。 >御主人や御子様に心から気を許せてらっしゃいます? :私は、子どもの頃から、起きている間は、ほとんど緊張しっ放しです。 どれくらい緊張しているかというと、中学生になっても夜尿症が治らなかったくらいです。 14歳のとき、緊張を解く手段として「摂食障害」なる道具を手に入れた瞬間治りましたが。 それでも今も慢性的に緊張していると思います。この緊張こそウザいです。 「>同じ部屋にいても」「>てんでバラバラ」のことをして「>自分のやりたいことに没頭 してる」というのは素晴らしいですね。同じ空間・時間の中で一人一人が尊重されている 感じがします。 ただ(異論を唱えて申し訳ないのですが)「無関心」というのは淋しい気もします。 子どもたちは淋しくないだろーか悲しくないだろーかと心配になったりもします。 みんながそれぞれパーソナルスペースをそこそこ確保するには、淋しさもそこそこ 受け容れろってことかしら。 長くなってすみません。ありがとうございました。

回答No.2

こんばんは、neturalさん。 ●他人と時間を共有する、というのは、どうやってやるのですか。 こういう風に考えてみてはどうでしょうか。 こういう風とは… 年の瀬ともなりますと、家の大掃除にお正月の用意と身辺慌ただしくなりますね。あれもこれも時間内に片づけていかなくちゃと、何も始めていない前から気だけがはやります。「師走」うまい言葉ですね。ホント、年、押し迫ると妙にあせります。走れメロスのメロスかはたまた宅急便屋さんのトラックに描かれている飛脚かと見紛うほどに「走る人」をいつになく多く目にしますもの。他人ごとのように言ってはいますが、このわたしも例外ではないです。走ってます。バタバタ、ドタバタ、スッテンコロリン、イテッ、テテテ…と、いった具合に…足の踏み場もないほどよく散らかしたなと。どこから手をつけたらいいのか…一瞬パニック。投げ出したくもなります。…ですが投げ出したとて、ひとつひとつ片づけて通り道つくらないと先へは進めません。こうしてる間にも時間は刻々と………カウントダウン読み上げます。アリスです。「立ち上がれ~♪」と。投げ出したその身を起こす「力」が、どこからともなくカラダにみなぎってきやしませんか?歌いましょう。ハナ歌を。歌いもってお片付け。ボツボツはじめれば思いの外にタッタと道がひらけてくる。通りの先は、あかるい。

neutral
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 そういえば年の瀬ぢゃなくても私の頭はいつもあわただしくバタバタしております。 そりゃもうコマネズミのようです。実際にあわただしく動き回っているかというと、 そうでもなく、「>あれもこれも時間内に片づけていかなくちゃと、何も始めていない前か ら気だけがはや」っている状態で、「>どこから手をつけたらいいのか…一瞬パニック」に なり、頭の中は散らかりっぱなしで、混乱したまま時間を消費したことに時折ふと気づき、 さらにパニックになったりします。 他人と一緒にいるときも、その状態がずっと継続されているのでしょうか。 昨年、働き始めてから、そういった「強迫」から解放される時間ができて、いくらかマシ にはなったのですが。 「ひとつひとつ片づけて通り道をつくる」。本当にそうですね。 ハナ歌ですか。いいですね。与えられた状況が同じでも、楽しむことができる人とそうで ない人がいるというのがよく分かります。 ありがとうございました。