確かに669年(天智8年)から702年(大宝2年)までの間は途切れています。遣唐使派遣の空白期間が最も長い期間です。
背景は中国・商戦半島との関係が大きいと思います。
663年,白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗しましたが,天智天皇はそれ以降3回も遣唐使を派遣しています。唐の日本攻撃を防ぐための外交交渉であったのでしょう。最後の交渉は降伏を認めたとも言われています。
天智天皇の死後は皇位を巡って壬申の乱になりますが,この勝利者である天武天皇は新羅派でした。当時は新羅が朝鮮半島を統一して唐と鋭く対立していましたので,天武天皇は新羅との関係上,派遣をしなかったのではと推察します。
持統女帝は天智帝の娘ですが天武帝の皇后でもあり微妙な立場でした。系統を維持する意味のを諡が当たられていますが系統がどの系統かは解りません。持統女帝は実子の草壁皇子が天皇になるために有力候補であった大津皇子を追放したりしていますが,草壁皇子の急逝で孫の軽皇子(後の文武天皇)が位につける事に一心不乱でした。持統期の初期は天皇が不在でしたので政権確立が第1優先でして,遣唐使の派遣というような余裕がなかったのではと推察します。