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白虎隊の真相
白虎隊について調べる内に幾つか疑問点がでてきました。 1.隊員の定数に諸説あるようです。 2.飯盛山で自刃した人数もまちまちで墓石も時代により数が異なります。 3.洋式訓練をうけていますが出陣の服装は洋式か和式か定かではありません。 巷間に伝えられている所とかなり諸説まちまちで本当の姿はどうなんでしょう?
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洋装か和装かについて、全員洋装かどうかはわかりませんが、洋装の人はいたんじゃないかと思います。 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu.shtml ↑この幕末写真館というページを見ますと、白虎士中二番隊のうち飯盛山で自刃したと伝えられている人のうち、次の人が洋装のようです(少なくとも上半身は)。 池上新太郎、石山虎之助、井深茂太郎、津川喜代美、永瀬雄次、間瀬源七郎、伊東悌次郎、伊藤俊彦、篠田儀三郎、西川勝太郎、林屋八十治、梁瀬武治 http://www2.plala.or.jp/shyall/retuden/byakotai.htm ↑この絵を見ても洋装の人がいますな。上は洋装で下は袴というのもあります。 まあ、100%信用できるかどうかわかりませんが、戊辰の頃となりますと、日常生活は別にして、戦闘には洋装便利ということは、会津藩ともなれば充分承知していたと思います。 上に挙がっている人は、戦場にも洋装で出たんじゃないでしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%9A%8A
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- buchi-dog
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とりあえず本を一冊読んでください。 http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30831900 当たりが良いでしょう。 服装についてですが、質問者様は「『洋式訓練を受けており弾薬入れは和装には適用しにくいとおもう』から、洋式の制服を着用していたのでは?」とお思いのようですが、それはありえません。 白虎隊という少年隊自身、会津藩が官軍の総攻撃を受けて老人や子供を動員しなければならなくなった、いわば緊急的な存在です。そもそも、会津藩の女性たちは和裁の技術は持っていたでしょうが、洋裁の技術などある人は皆無です。直線で仕立てる和服と、曲線で仕立てる洋服はまったく別な技術で作ります。昭和40年代まで、洋裁の技術を教える「ドレスメーカー学院」が日本中にあり、嫁入り前の娘が通っていたのは「洋裁は専門家に習わないと習得できない」からです。洋式軍服を仕立てるためのラシャなども会津では容易に入手できません。質問者様は、白虎隊士がどこから洋服を持ってきたと思いますか? ですので、白虎隊士たちは、和服姿で戦場に出て行くしかありません。それ以上は本を読んでください。
お礼
再度のご教示有り難うございます。 本のご推薦で早速探してみます。 感想文の中で白虎隊は300名ほどの6隊編成とあるようで著書で確認するしかありませんが出撃人数と違い過ぎるのでますます興味がわいてきました。 服装についての詳しい解説ありがとうございます。 私は徳川慶喜が創設した幕府陸軍歩兵がすでにフランス式で洋装でしたからどこから調達したかは存知ませんが、十分供給の途があり、会津藩も可能と思っていました。 また巷間に流布している情報の中にも洋装のケースがあったと記憶していました。 でも確かに会津郎子隊の女性は和装で薙刀で奮戦でした。 いづれにしても勉強不足を反省。
- PENPENMAKKY
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全貌を説明すると本が書けます。 服装ですが、マチマチだったようです。 切腹した彼らの衣装は遺族の証言を基に明治時代に絵が描かれましたのでそれを参考にしたらいかがでしょうか。
お礼
早速のご回答有り難うございます。 質問を箇条書きにしたのは回答者の負担を避けるためです。 1.の質問は隊の定員は年齢によって決まったのですが、白虎隊として出撃した人数がことなるように感じた点です。 2.の質問は墓石の数が時期により増加している事情がしりたかったのです。 3.はどうもハッキリしないのです。 巷間に伝えられる情報はまちまちで根拠に乏しいと感じます。 確かに和洋折衷のようにも見え、バラバラのようにもみえます。 しかし彼らは洋式訓練を受けており弾薬入れは和装には適用しにくいとおもうのですが・・・ 以上の3点の真相が知りたいだけです。
お礼
貴重な情報本当にありがとうございました。 参考資料を拝見し私の疑問点は氷解しました。 白虎隊の人数も隊の編成上のいきさつからで出撃した人数はもっと多かったが、落伍や他隊に合流もあった事も明らかになりました。 墓石の増減や数も後の合祀のためだったのですね。 出撃の服装も明らかに洋装、ないし和洋折衷で正規には洋装であったと推定されました。 お陰でかなり真相らしき所に到達できました。 写真が残されていたとは驚きました。