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明治期、アメリカ海軍の将官について
はじめまして。私は今『坂のうえの雲』を読んでいるのですが、どうしても分からない所があります。以下のフレーズなのですが、 『(アメリカは、)海軍少将という階級を作った。真之が渡米したときも、米国海軍を握っている最高階級者は、少将たちであった。大将や中将を作りたがらなぬ点、いかにも市民国家らしいよさがあったといえるであろう。』 (司馬遼太郎 坂の上の雲 2巻p229より引用) の所なのですが、なぜ大将を作らない事が市民国家らしいのでしょうか?ペリーが大佐で東洋艦隊の司令長官であったとしても、それは、本来、将官が行う職務を佐官が行っただけの話しで、市民社会と関係ないように思えます。それとも大将、中将には軍の司令官以上に市民社会に関わる特権的なものがあるのでしょうか。自衛隊にも大将格の階級はないと聞きますし、もし誰かご存知の方がおられましたらご教授ください。
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ペリーについては”Commodore”のことですよね。 そもそも昔の海軍は規模が小さく、人員も多くなかったので 上級管理職が陸軍ほど必要ありませんでした。 また大佐とはキャプテンのことであって、 海軍では一般に、艦長職のことです。 帆船時代からの伝統が色濃く残る海軍では、 キャプテンを頂点とする人事構成が基本となります。 そして古いフランスやアメリカの海軍では この”コモドール”が先任艦長として艦隊司令官を務めるわけです。 コモドールは階級ではなく、任命職でした。 よく日本では”ペリー提督”といわれますが、厳密に大佐のまま。 1862年までアメリカ議会は提督/海軍将官(admiral)という役職を 認めなかったので、大佐(キャプテン)が当時は海軍最上級階級でした。 なぜ市民社会らしいか、というと、こういう社会では職業軍人を嫌います。 市民の代表者たるものが、軍の指揮官たるべし、というのが基本です。 だから今でもアメリカ陸海空軍のトップは軍の素人であるアメリカ大統領となっています。 これはつまり戦争の意思決定にも民主主義の原理を注入すべきという 理想主義的な概念なのです。 専門家である軍人に任せてしまうことは、今でも議会は嫌います。 専門家の意見は聞いても、決定は大統領や、議会の議員達が行うというのは現在も同じです。 1862年まで提督職がなかったのは、フランス革命で連隊という名称が一時消滅したのと同じで 独立戦争時の後遺症とでもいうべき、王党派っぽい名前だから 嫌われたということもあるのですが、 南北戦争頃になるといつまでも”海賊外交”をしてはいられないので 国際儀礼のできる艦長以上の階級が必要になって 海軍少将/提督が誕生するわけです。 ちなみに陸軍でもアメリカは第二次世界大戦まで元帥位を認めませんでしたし 海軍大将に相当するフリート・アドミラル(Fleet Admiral)は 現在もアメリカの歴史上、四人しかいません。 これはまあ、伝統と言っていいでしょう。 ところで、大将、中将、少将なんていう呼称については 混乱と誤解があります。これは明治の頃に和洋折衷で 作られた訳語であるために、名前と現実が一致していないからです。 一見すると、階段のように大中小と整然となっているように見えますが違いますし 特に”Lieutenant”の意味は日本語の訳に反映されてません。 自衛隊で大中小を使わないのが軍隊ではないというだけでなく 現実にそぐわない名称だからでもあります。 しかし司馬遼太郎の言っていること/言いたいことは そういうことではないでしょう。 大将とか元帥、大元帥とか、高い階級に祭り上げてしまいがちだった 日本の人事構成を批判したものです。 トップの地位にあるものが、決定に関与せず、 下から上がってきた計画やら根回し済みの決定事項の 承認のみを行い、 実務は階級が下の佐官クラスの者が行うという、 悪しき日本組織体系を 司馬は常々批判しているので、論旨はその流れでしょうね。
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軍隊の詳しいお話は、他の回答者さんがされていますので、司馬ファンとしては「司馬遼太郎は何が好きで何が嫌いであったか」の感情面からアプローチしてみたいと思います。 アメリカが独立宣言をしたのが1776年ですから、まだ230年しか経っていません。秋山真之の時代はもう100年以上も前のことになりますから、その頃はほんとに若い国だったろうと思います。 その頃の歴史のある普通の国は、皇帝や王様が一番上に立ち、その下には貴族とか大臣とか大僧正とか軍の大将などの偉そうな人々が、格式を誇り権勢を振るっていました。要するに形式主義・権威主義が蔓延していたといえます。 一方、アメリカは市民が独立を勝ち取り、自分達の国を作り、大統領も選挙で選んでいたわけですから、国の成り立ちが全然違います。まさに実質本位で形式や格式ゼロの国です。 司馬は日露戦争当時の日本は好きでした。明治維新により幕府の旧体制がひっくり返り、過渡的に旧勢力の慰撫策として華族制度がありましたが、国の運営は志士上がりの下級武士や農民出身者が行っていました。 軍も出来てから日も浅く、将官の数も少なく、その将官達も志士の遺風を帯びた人もあり、判断力や大局観に優れ、特徴ある人々が多かったように思います。 このころの日本はアメリカとは比べられないですが、権威だけで実質の伴わない人を棚の上に上げてしまって、実力のあるものが国の運営を行っていたといえます。 昭和の時代に入り、陸軍大学校、海軍大学校出身の猛烈に頭脳優秀な人々が将官になり、勲章をいっぱい着け、権威だけの無能で大局観を持たない出世第一の大将、中将がゴロゴロとするようになり、日本を敗戦に導きました(このへんはチョッと誇張し過ぎたかな)。 司馬はこの時代を非常に嫌っていました。ノモンハン事件を書くことを勧められましたが、腹が立ち胸が張り裂けそうで、とても書けないということであったらしいです。 彼は幹部候補生上がりの下級の戦車将校でしたが、次のようなことを言っていました。 日本の戦車は外観は非常にきれいに仕上がっていて立派に見える。ところが装甲にヤスリをかけるとザクザク削れる。ソ連の戦車は車に鉄板を貼り付けただけのような粗末な代物ですが、ヤスリの刃が全く立たない。日本はこういう国だったのかと、暗然とした気持ちになったそうです。 国も会社も古くなってくれば、上のほうに体裁本位のいろいろな役職を作るようになり、権威・形式がのさばるようになって、活力がなくなり、崩壊に結びつきやすくなるものです。 回答にはならなかったかも知れませんが、個人的感想をご参考まで。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。 確かに司馬遼太郎の小説を読むと昭和政治についての批判が所々にちりばめられているような気がします。 格式や位ではなく実質本位であり、アメリカ軍を通じてよき市民社会のなごりがみえるという事ですね。他の回答者様が述べられていたように、現代と違い当時軍の規模が小さい事を考えるとあえて実質を伴わない、又は必要としない将官の地位を置く必要性がなかったという事だと解釈しました。即ち実質本位の身分であり後の昭和軍人と比較したときに、はるかに市民社会の要素として機能していた。 難しいですがなんとなく自分として結論がでたような気がします。 まだまだこの小説の3巻に突入したばかりですが、しっかり司馬の考えも汲みとりながら読んでいきたいと思います。 御回答ありがとうございました。
- cdsdasds
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基本的に市民革命期の陸軍の基本作戦単位は連隊で、海軍の基本作戦単位は主力艦(+補助艦艇)でした。 ナポレオン戦争以後、この単位はより上位単位である陸軍で言えば旅団や師団、海軍で言えば複数の主力艦からなる艦隊に組み込まれることになるのですが、海軍で生活を共にするという意識があるのは基本的に同じ船の船員ですし、陸軍でも募集や訓練等市民が軍人としての活動する際には連隊が1つのまとまりでした(旅団や師団は歩兵や砲兵等を複数組み合わせた構成なので、同じ訓練をする最大の単位は連隊です)。 このため、実際の戦争での指揮官は基本的に大佐(陸軍ならコーネル、海軍ならキャプテン)が行うことになります。 実際、アメリカの総力を上げた軍事行動である独立戦争でも総司令官は中将で、これは多分に名誉的な底上げがあってのものでしたから、実際の役職は総司令官相当で少将があればいいということになるのです。 実際、スイスでは現在の最高階級は大佐であると聞いたことがあります。 市民が自らの郷土を守るために軍隊の一員となって戦うのであれば、これで十分ですし、アメリカでも19世紀までは実際そのような運営がなされていたのでしょう。 しかし、国民国家がその総力をあげた戦いを行おうとすると、このような古きよき軍隊の戦いではなくなります。 兵の募集は地域で行われたとしても、兵と特定の連隊との関係は結果的にしか発生せず、さらにその連隊を含む旅団なり師団なりがどのような場所でどのように戦うかはもはや募集された地域とは関係なく決定されます。 海軍でも個々の艦長判断は、上級艦隊司令部の命令を超えるものではなくなり、個々の艦は戦うかどうか、逃げるかどうかという判断すら自由にはできなくなります。 つまり、陸軍でも海軍でも軍人は戦いのコマになり、国家の意思に従って抽出された国民が、国家の意思を具現化した軍の意思を実現すべく命令に従って行動するということになります。 ここには既に自分たちの故郷を自分たちで守ろうとする市民の軍の姿はないです。ただ、冷徹な国家の主権のぶつかり合いと、いやおうなくそこに供出される国民とその国民を効率的に管理する上級司令部と軍官僚があるだけです。 例えば第三軍司令官の乃木が丸亀の連隊に突撃を命じたとして、丸亀の連隊の兵士はその多くの出身地であった丸亀とその延長としての日本を守るためにその場にいることを選択し、突撃をするのではなく、国家の命令で徴兵され、配属された軍団の命令があるためにそこにいて、突撃するわけです。 これは総力戦としての近代戦における大規模な軍事行動の実施や継戦能力の確保のためには必要なことであり、また、市民国家が国民国家となる際に当然生じる変化であるわけですが、司馬遼太郎としては市民国家としての片鱗を残す明治への郷愁があるわけで、アメリカの軍制度を口実として述べたということでしょう。
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。大変詳しいご説明ありがとうございます。 当時のアメリカは、まだまだ軍隊の規模は小さかったという事ですね。 従って指揮官は大佐クラスで十分であり、市民社会を構成する一要素として機能していた。しかし戦争の規模が増加し多数の人員、兵器が必要となった時一要素であった軍隊がその枠から飛び越え大きな存在になった。しかし当時のアメリカ社会は、まだまだ軍隊の規模も小さく社会の枠の中に存在していた。 なかなか難しいですね(笑) 大変参考になりました! >>司馬遼太郎としては市民国家としての片鱗を残す明治への郷愁があるわけで、アメリカの軍制度を口実として述べたということでしょう。 この点もなるほどと思いました! どうもありがとうございます
お礼
お礼が遅くなり申し訳ありません。大変詳しい説明ありがとございます。正直初めて聞く事ばかりなので驚いております。 やはりアメリカという国は面白いですね!市民社会によるコントロールを考えるとき名誉だけの高位高官は必要ありませんよね。逆に高位高官、終身軍人が増えると組織が硬直化しそうですし、その点若いアメリカらしい組織です! 最後の悪しき日本組織体系にも納得できます。 特に昭和の軍人をみるとやたら勲章ばかりつけていますし。 私の知識不足のため的確なお礼を述べる事ができず大変申し訳ないのですが、大変参考になりました! どうもありがとうございます。