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武蔵坊弁慶について

弁慶と牛若丸が京都の五条の橋の上で戦い牛若丸は弁慶を負かしたと言う話は、現実かどうか分かりませんが、よく言われています。 では、弁慶はどうして通行人から刀を巻上げていたのでしょうか?生活の為でしょうか? 誰か教えてください。

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  • Pinhole-09
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回答No.7

鎌倉時代の正史といわれる「吾妻鑑」に義経の家来として、武蔵坊弁慶の記載がありますが、当時は他に資料がなく実在が疑われていました。  近年資料が見つかり現在は実在説が有力です。 現在は義経が頼朝の家臣になり、京にのぼった後に家来になったとの説が有力で、弁慶の活躍は一の谷の合戦以後ということです。 当然「五条の橋の上」の話は「義経記」の創作ということです。   「義経記」は歴史物語ですから、創作が入るのは当然で「五条の橋の上」はNo.1さんの通り、おとぎ話と考えた方がよいでしょう。   この元には平家に反感を持つ士が、平家の公達を襲って刀などを奪ったり、恥をかかせたりした事件が頻発していた背景があります。  岩波新書「源義経」などによりました。

ootori6
質問者

お礼

現実味があって納得ができます。資料が無いのですから、話を面白くするために後からいろんな説が作られて行ったのでしょうね。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (6)

  • t-6000
  • ベストアンサー率36% (25/68)
回答No.6

義経の家臣に武蔵坊弁慶という僧兵がいた、それ以外は後世の創作です。 創作ですからいろんなバージョンがあります。 千本を集めていた理由は、名を広めるため、あるいは願掛けが多かったと思います。 興味がありましたら「義経記」や「御伽草子」を読まれてはいかがでしょうか。

ootori6
質問者

お礼

機会があればまたよんでみたいと思います。 回答ありがとうございました。

  • dereku
  • ベストアンサー率22% (66/294)
回答No.5

千本集めるのが目的です。何でも千集めてこそ意味があった訳です。藤原秀衡は馬を千頭。源為朝は弓を千、武家ではないが橘逸勢は筆を千本という風に・・。 五条の橋の上・・・「義経記」では五条天神の参拝路と記されています。参拝路の石灯篭を橋の欄干に見立てたという説もあります。

ootori6
質問者

お礼

この時代の人は'千'と言う数字にすごくこだわりを持ってたのですね。 回答ありがとうございました。

noname#25898
noname#25898
回答No.4

弁慶さんは、当時のまともな記録に出てこないので、実在しないとも、言われています。 弁慶の七つ道具というように、彼は、背中に武器を入れた駕籠を背負っています。 薙刀が、一番の得意としていました。 薙刀が、女性の武器であったように、本来殺生を禁じられた、法師が持つのは、力を加減できて、致命傷を与えずらいというのもあったようです。 999本目まできて、挫折というパターンは、他の物語にも見られます。 どの武器が一番強いのか、試していたのではないでしょうか。 腕試しを仕掛けると、負けた者が、刀などの武器を捨てて逃げるのを拾っているうちに、数百本があっという間にたまり、それなら、いっそ1000本を目指し、日本一の荒法師になろうと、思った。 こんなところで、いかがでしょう。

ootori6
質問者

お礼

なるほど、だから武器が薙刀なのですね。薙刀は刀に比べ致命傷を与えずらいですが、刀より大分リーチが長く、間合いに入り込みにくい上、大柄で強い弁慶は、平家の武士や貴族にしてみればとても戦いにくい相手だったのでしょうね。 本当に999本にとどまったかどうかは信じがたいですが、負けた者が武器を捨てて逃げていくうちにたくさんの武器が溜まっていった説にはとても納得できます。 参考になりました。ご回答ありがとうございました。

noname#203429
noname#203429
回答No.3

全くの作り話という説もあります。弁慶は義経の片腕的に物語されていますが、実際には10位以下だったとか。物語は面白い方がいいと言う事でしょう。

  • k-i-r
  • ベストアンサー率30% (94/311)
回答No.2

この話は色々説がありまして、逆に牛若丸が刀狩りをしていたという説もあります。 それだと源氏の牛若丸が平氏を襲っていたのもうなずけます。 で、なんか妖怪扱いされてたらしいです。(時代が時代ですし) それで一応坊さんの弁慶が妖怪退治に来た、と。

ootori6
質問者

お礼

'牛若丸が刀狩りをしていた’というのは面白い説ですね。 けれども、牛若丸の母、常盤は平清盛の寵愛を受け、7歳に鞍馬寺に預けられるまで平家の世話になった言う説があります。父、源義朝が乱に破れ殺されたのは義経が赤子の頃で、反乱とかを起こさないように源義朝の9男であることを教えられずに育てられたと思います。多分・・ だからちょっと考えがたいですね。 回答ありがとうございました。

  • komes
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回答No.1

この時代平氏に不満を抱く人はおおかったのです。 武蔵坊もその一人でした。   当時太刀を帯びていたのは京都では大抵平氏ゆかりの武士か貴族でしたから武蔵坊は彼らから太刀を奪い千本集めるという念願をたてそれを実行していたのです。 一種のコレクターで、同時に武芸自慢をしたかったのでしょう。 千本集めるのが目的ですからお金目的ではありません。

ootori6
質問者

お礼

なるほど、とても参考になりました(^^♪かりに弁慶が千本も集めることができる人だったら、それを恐れて夜間の通行人がかなり減りそうですね。もしこれが現代なら通り魔ですね・・・ 回答ありがとうございました。

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