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旧制女学校の入学試験

旧制女学校について調べています。 いままで十分な学資と本人の意志さえあれば、だれでも進学は可能なのだと思っていました。 しかし母の知り合いに伺った所、「入試がむずかしくて入れなかった。周囲にもそういった方が何人かいる」というではありませんか。 その方曰く、私立はともかく、県立や市立といった公立校はむずかしかったと言うことですが、本当でしょうか? 学費のことはしばしば取り上げられますが、入試については寡黙にして知りません。 ご教授していただけると助かります。 *現在85歳以上の方のケースを想定していますので、その条件でご回答願います。

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  • kodon
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回答No.3

私はまだ85才になっていませんが姉二人が女学校に行っていたので若干戦時中の受験競争の事情も判りますのでお答えします。女学校も中学校もシステムは同じです。当時住んでいた神戸市の場合公立は県立と市立があり県立は第一から第四まで、市立は第一、第二(記憶に自信なし)神戸市で一番成績の良い順番に県立第一から第四を受験します、もし第一を受験しておちれば私立中学を選択して受験します。現在有名な灘高校は県立第一を落ちた者達が受験した中学校です。 女学校も県立、市立、も中学校と同じで成績の良い者から順番に県一、県二を受験して、もし落ちれば私立女学校へ行く事になります。 私立は公立より授業料が高いので貧乏人は行けません。だから貧しい家庭の子供は勉強して県立か市立に合格する必要があった。昔は公立が国立、県立、市立の順番で学力を測る物差しになっていました、貧しい家庭の子供で学力のない者は中学校、女学校には行けません。

loadambala_2001
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 おかげさまで大分ディティールが分かってきました。 しかし、疑問も湧いてきました。 旧制中学・女学校には「学区」はなかったのでしょうか? 通える距離(あるいは寮に入るのであれば、距離さえも関係なく)、どこでも受験できたのでしょうか?

その他の回答 (12)

noname#24488
noname#24488
回答No.13

>現代と戦前とでは社会のシステムがまったく違いますから、比較するのはむずかしいですよね・・・  仰せの通り、戦前と今では変わったところは多くあります。  話が方々に飛びますとややこしくなりますので、陸大の難しさに限ったところで申し上げますと (1)戦前においても、教育の機会均等は相当程度確保されていました。勉強ができれば、どんな貧乏人でも月謝の要らない師範学校や陸軍士官学校、海軍兵学校などへ試験で入ることができました。 (2)戦前と現在と大きく違うところは軍の存在です。軍は現在のシビリアンコントロールとは対極にある存在で、政治にも大きな力をもっていました。軍人の値打ちは今の自衛隊員とは全く違います。尉官などの下級将校でもエリートのうちですし、将官でも中将ともなれば席次では並みの県知事よりは上といった感じであったらしいです。この大将、中将、少将などの将官のエラサ加減(権威権力)については、お近くの80歳以上のご老人に聞けばよくわかると思います。  こういうことから、陸士・海兵は恰好のよさもあいまって大変な人気があり、難関の学校でした。  一方、一般の学校の最難関は第一高等学校(一高)であったことは誰もが認めることで、エリートコースの典型は 一高→東京帝大 ということでした。  陸士海兵と一高とどちらが難しいかは、よくわかりませんが、一高の方がやや上ではなかったかと思います。  しかし陸大などはその陸士を通り、大尉前後の階級になった軍人から さらに50人程度選抜するわけですから大変です。文字通りの超々エリートです。先は将官が約束されている天保銭組です。  わたしは会社の先輩で、中学校の4年から(中学校の修業年限は5年)一高→東大出 の文字通りのエリートの人と陸大の難しさについて話をしたことがあります。  その人の話では「そりゃ問題なしに陸大だよ、一高生がいくら勉強しても半分は陸大に落ちるな、陸大生は100%一高には入れるよ。」とのことでした。  その他、陸大(海大)最難関説は他の先輩や親・親戚からも聞いておりますし、これを否定する人には、今まで出会ったことがありません。  質問者さんもお近くの高学歴の80歳以上のご老人に聞けば、実感らしきものが掴めると思います。  現在の最難関大学に比べてもその超エリート振りから陸大の方が上というのが当たり前のようです。現在の自衛隊にも陸大同様の幹部養成機関はあると思いますが、詳しくは知りません。  まあ、進学、入学試験のシステムは、戦前も戦後も大きな違いはありません。ただ、戦後大きく変わったのは軍人のエラサですね。ここが大きなポイントだと思います。  ただ今までの話は、試験の難しさについてであって、陸大出の仕事ぶりがよくできたかどうかについては、別の話になります。

loadambala_2001
質問者

お礼

何度も回答していただきありがとうございました。 入試に関連して戦前の学校における中退率も知りたかったのですが、長くなったので、一旦回答を締め切らせていただきます。 皆様、ありがとうございました。

  • buchi-dog
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回答No.12

陸軍幼年学校・士官学校、あるいは海軍兵学校については面白いことに 「落ちた人は例外なく『オレは身体検査で落ちた』と言う」 という事実があります。 大平正芳 元首相 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B9%B3%E6%AD%A3%E8%8A%B3 島野武 元仙台市長 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E9%87%8E%E6%AD%A6 既に故人となりましたが、陸軍幼年学校に身体検査で落ちたと証する人を身近に二人知っています。それぞれ 「**帝国大学卒の、旧帝国大学医学部の名誉教授」 「**帝国大学卒の旧制中学・新制高校の先生。県立高校の校長で退任」 でした。 彼らが本当に「身体検査で落ちた」のかは確かめる術がありませんが、幼年校(このように略します)への入学はよほど難しかったのだな、と想像がつきます。

loadambala_2001
質問者

お礼

幼年学校で身体検査ですか……。 個人的にはナンセンスだと思いますが……。 子供の頃身体が弱くても、成長して頑強になる人もいますしね。 当時の価値観が窺えますね。 何度も書き込んで下さり、ありがとうございます。

  • buchi-dog
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回答No.11

No10さんの言われる「専門部卒」の話ですが、私学のみならず官立大学でも多数ありました。 例えば 大阪帝国大学(現 大阪大学)附属医学専門部:手塚治虫が卒業。戦時中に、とりあえず使える医師を量産するために設立。 東京商科大学(現 一橋大学)附属商学専門部:渡辺美智雄が卒業。 一橋大学の関連企業のHP内では、渡辺美智雄は「一橋の誇るOB」の筆頭に挙がっています。在学中は、天下の秀才を自認する東京商大の学生からは「専門部?あいつらは一橋の偽者だよ」と後ろ指を指されていたと思うのですが。世の中、出世した者の勝ちのようです。 http://www.hit-plan.com/hit-s/t-2-1.html 大平元首相は、東京商大を経て大蔵官僚になった一橋出身のエリートです。

loadambala_2001
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 専門部情報が充実してきました。

noname#24488
noname#24488
回答No.10

No.2、8です。たびたびシャシャリ出てきてすみません。  戦前の旧制のとき私大には「専門部」というのがありました。ここを卒業しても本物の学士さんではないわけですが、卒業された方は雑談等の場では「自分は○○大学卒業だ」といっておられる方が多いようです。  わざわざ○○大学専門部卒と専門部をことさらいれる人の方が少ないように思います(もちろん履歴書とか結婚の釣書などの場合はキッチリ書き入れますが)。  別に専門部をけなすつもりは毛頭ありませんが、学士と専門部卒とは大きな差がありました。  私の居た会社では、専門部は旧制大学の1ランク下の高専卒扱いです。初任給や入社後数年は給料の面でもハッキリとした差がついていました。私の居た会社では完全実力主義でしたので、専門部卒でも大学卒を追い越して役員になった人もいれば、平社員で終わった人もいます。  ふたたび陸大(陸軍大学校)についてですが、これは明治以降一番難しい学校であることには間違いないでしょうね。  なにしろ将来将官(最低でも勅任官)になることが約束されていましたから。中将ともなれば並みの県知事より席次は上だったと古い人から聞いたことがあります。  私の会社員駆け出しの頃、陸大出の元参謀少佐の方が同じ部にいらっしゃいました。  ある酒の席で(このとき参謀殿は不在)、「会社の中で誰が一番頭がいいか」という馬鹿話になったとき、東京帝大(一高)卒の大部長さんが、「○○さん(元参謀殿)には、我々が逆立ちしても何してもかなわんよ。」といっておられたのが印象に残っています。  こんな古い話がいつまでも脳味噌のメモリーにバン居していますので、新しいことが頭に入りません。今日また古い記憶をリフレッシュして入れ直したようなもんですから、これは死ぬまで抜け切らないかと・・・(笑)。お邪魔しました。  

loadambala_2001
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「専門部」、初めて聞きました。 陸大も、すっかり忘れられてしまったのですね。

  • sudacyu
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回答No.9

 No4です。 No6・No8の回答者の方、有難うございます。  女専・女子医専があったというのは、昔聞いたことがありましたが、戦争が激しくなって国内の男子の不足を補うために、女子教育を始めたようなことを聞きかじっていまして、これらの学校が出来たのは1940年以降と思っていました。  福岡県立女子専門学校・大阪府立女子専門学校は、大正初期に設立されているのですね。  東京・関西以外の場所での、最初の女子高等教育機関設立、流石に、九州は教育熱心な土地柄ですね。感心しました。

loadambala_2001
質問者

補足

書き込みありがとうございます。 >戦争が激しくなって国内の男子の不足を補うために、女子教育を始めたようなことを聞きかじっていまして、これらの学校が出来たのは1940年以降と思っていました。 アメリカも似たような事情らしいです。 戦時中はあちらでも兵役による男不足のため、女性の社会進出が進みました。 (女性兵士の登場も第二次大戦中です) しかし戦争が終わり復員がはじまると、女子は職場から追い立てられました。 それまでの反動から社会が保守化し、アメリカでも良妻賢母が求められるようになったそうです。 (1950年代の赤狩りも社会の保守化の一潮流で、「非アメリカ的なものを排除する」という島国根性的な心理が根本にあったようです) 戦争花嫁でアメリカに行った人たちは「自由と豊かさと男女平等」を夢見ていたそうですが、(生活習慣の違いなどは別として)実態は思っていたような理想社会ではなかったそうです。 とくに日系人社会は、日本以上の保守的な社会だったとのことです。

noname#24488
noname#24488
回答No.8

 NO.2です。私の叔母は明治末年生まれですが、女専の英文科を出て、女学校の先生をしていました。師範学校や高等師範、文理大学のように教員系学校以外にも、一般の学校出身の先生が多くいました。  卒業した学校よりも1ランク下の学校(高商→商業学校)であれば、そこの先生になれたんじゃないでしょうか。教職課程の単位云々についてはよく知りません。  わたしの新制高校時代は高等師範や有名大学出の先生が多く、皆さん学者で立派な先生が多かったです。  ただ私が教わった小学校の先生は、商業学校の出身で(それもチャンと卒業していたかどうか怪しい)、このままでは首になるということで、私はその先生の単位取得のためのレポート作成の代筆をしたことがあります。教え子のお陰でその先生も最後は校長に出世されました(笑)。  話がそれてきて申し訳ありませんが、NO.7さんの回答で「陸大」「海大」が出てきました。これは本物の大学ではありませんが、日本においては最難関の学校であったと思います。一高、東大よりもはるかに難しいと古い人から聞いています。  私の親戚で飛び切り優秀といわれた人でも陸大はダメで、大佐止まりでした。  佐藤三兄弟(長男・市郎・海軍中将) (二男・岸信介・総理大臣東京帝大)(三男・栄作・総理大臣東京帝大)のなかでも長兄の市郎さんが、勉強が一番できたという話です。  まあ地域の違いや時代の違いはあるにしろ、戦前であれば、国公立>私立 という大筋は変わらないんじゃないでしょうか。

loadambala_2001
質問者

お礼

小学校の先生の話、なんとも人間味あふれるというか、なんというか。 現在のカッチリ画一的なシステム下では考えられないほほえましいエピソードですね。 本には載らない貴重なお話だと思います。 ありがとうございました。

  • kodon
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回答No.7

NO3で回答したものですが神戸市では戦時中たぶん昭和18年頃に学区制が布かれて県立第一は東地区、県立第四は西地区になったとおもいます、当時先生がお前等は配給の菜っ葉だとぼやいている先生がいたそうです、それまでは学区は全くなく通学出来れば本人の選択に任されていました。 他の方が回答されていますが学費のない者達は軍関係の学校が沢山あり陸軍では陸軍幼年学校とかあったようです。戦前は海軍兵学校とか人気があったようです。家が貧しくとも軍関係の方に進めば授業料は全く掛からず最高は帝大と同程度の陸大、海大まで学費なくとも進めますがたた学問がしたいだけのものには救済策にはなりません。韓国の朴大統領が家庭が貧しかったが学問が良く出来たので日本人の教官に陸士を受験しろと進められて陸士に行ったことを自身で語っています。

loadambala_2001
質問者

お礼

学区制、岡山では昭和19年1月だそうです。 軍関係の学校に進めば……平和な世の中から見れば良いような、悪いような、ですね。 「富国強兵」が国是で、是が非でも軍事大国化せざるを得なかった当時といまを同じ物差しで測ることはできませんが……。

  • buchi-dog
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回答No.6

No1の者です。 「良妻賢母を求める社会のニーズにより、師範学校系以外は公立高等教育機関は多分存在していません。(もしあれば、知っている方教えてください。)」 師範学校の系列以外に、女性に高等女学校より上の教育を授ける官公立の学校として「女子専門学校」がありました。高等学校、高等商業学校、大学予科と同じレベルの「旧制専門学校」の一つです。ただ、女子専門学校を卒業した者にどんな資格が付与されたのかは分かりません。 例:福岡女子大学の前身の福岡県立女子専門学校(文科、家政科) http://www.fwu.ac.jp/guide/guide_history.html ウィキペディアの旧制専門学校 女子 の欄に一覧があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%88%B6%E5%B0%82%E9%96%80%E5%AD%A6%E6%A0%A1#.E5.85.AC.E7.AB.8B_12 ちなみに、県立の高等女学校を卒業した私の一族の女性は、頭の悪そうな人も含めて「全員」が上記一覧の中にある「県立女子専門学校」に行き、卒業後すぐに嫁に行きました。教育内容は、今の女子大の家政科のような感じだったようです。生徒は、県下の裕福な家の娘しかいなかったようです。 No3さんの言われる「良妻賢母教育=花嫁修業=資産のある家庭の子女が進学、という状況であり、女子教員の需要も数がわかっているため、志望者数が定員とほぼ同じ(事前に当落が、かなりわかったようで、試験を受ける前に断念する場合が結構多かったみたいです。)でした。」は、私の一族の進学状況を見ると、地方都市の県立「第一」高等女学校、県立女子専門学校のいずれにも当て嵌まったようです。

loadambala_2001
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >女子教員の需要も数がわかっているため…… たいへん興味深い指摘だと思います。 No1回答への返信、もし気分を害されたらすみません。

noname#113190
noname#113190
回答No.5

うちの母親が市立第二高等女学校で、小学校で一番出来の良い女子が第一高等女学校、2番目が第二高等女学校という順番で、当時母親の家は手広く商売をしており、広い家に従業員も50人ほどいましたから、家の離れに進学する近所の子供たちでグループを作って集まり、退職した先生が家庭教師として受験勉強をしていたそうです。 他の方もいわれるように、今も昔も有名校は難しく、無名校は生徒を集めるために簡単だったのではないでしょうか。 姉の嫁ぎ先の祖父は早稲田大学を卒業していますが、当時は先方から入学しないかとの勧誘がきて、質問者が考えてるように、十分な資力と意思があれば入学できたそうです。 友人の父親も早稲田を出て教育関係の仕事をしていましたが、やはり簡単に入学できたので、現在の入試とは比較できないと言っていた記憶があります。

loadambala_2001
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 なるほど興味深いです。

  • sudacyu
  • ベストアンサー率35% (687/1961)
回答No.4

 教育については、戦前の男尊女卑はかなりひどく、男子の中学校卒業者が、旧制高等学校・帝国大学へのメインの進学コースがあったほかにも、陸軍士官学校・海軍兵学校・師範学校(戦後地方大学の教育学部に改変)・高等専門学校(=一橋大学・東京工業大学など難関大学の前身。商業・工業・医学など多彩)など、多くの教育機関があり、私立学校も数多くありました。  それに対して、女子の場合は高等女学校卒業後の進学は極めて限られており、各府県にあるのは師範学校の女子部(小学校教員の養成)くらいで、それより高いレベルの教育機関は、国立では東京女子高等師範学校(=お茶の水女子大学)奈良女子高等師範学校(=奈良女子大)の2つだけでした。(高等師範学校=高等女学校教員養成)  良妻賢母を求める社会のニーズにより、教育以外は公立高等教育機関は多分存在していません。(もしあれば、知っている方教えてください。)  私立でも、女医であった吉岡弥生が設立した東京女医学校(=東京女子医大)女子英学塾(=津田塾大)東京女子大学くらいと思います。  基本的に進学を前提とはしていなかったため、地方の女学校では、男子の中学校に比べて数が多く小規模で、教育レベルもやや落ちる(男子にない家政教科がかなりの時間を占めていた)のが普通でした。  つまり、良妻賢母教育=花嫁修業=資産のある家庭の子女が進学、という状況であり、女子教員の需要も数がわかっているため、志望者数が定員とほぼ同じ(事前に当落が、かなりわかったようで、試験を受ける前に断念する場合が結構多かったみたいです。)でした。  ただ、高等女学校を卒業して更に上を目指す人にとっては、進学先が限られているため、地方の女学校では優秀であっても進学できるだけの学力がつきにくいこともあり、地域トップのレベルの高い高等女学校に入学するのは、かなり大変だったようです。

loadambala_2001
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 たいへん参考になりました。

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