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ローマの市民皆兵の崩壊

こんにちは。 高1のflankです。 学校で、 平民派のマリウスが無産市民を傭兵とした =市民皆兵の崩壊 とならったのですが、 今勉強しているところでは、 軍人皇帝時代を境に市民皆兵は崩壊し傭兵中心に移行 と習いました。 どちらが市民皆兵の崩壊なのでしょうか。 また、なぜ軍人皇帝時代に市民皆兵は崩壊したのでしょうか。

みんなの回答

  • komes
  • ベストアンサー率29% (147/494)
回答No.2

ローマ時代の初期における市民というのは選ばれたエリートをさします。 相当な財産を持ち、武器も自前で用意できるような身分で、さらに騎兵は貴族階級が主に占めている位でした。 ローマの市民権というのは重要な意味をもつ存在で選挙権もあり、従って市民権も選挙権もない人も多数存在していました。(奴隷や解放奴隷など) 従って国を守る兵士も当然市民の義務としてあったのです。 これが市民皆兵の実態です。 しかしローマの国土が広がり軍隊の規模も大きくなるとこれでは兵士が不足します。 対策は市民身分の数を増やすか、志願兵をつのるしかありません。 本来市民権は一種のステータスですからむやみと市民を増やすことはできません。  従って志願兵を募り傭兵化していったのです。 マリウスの時代は特権階級の義務であった軍務を市民以外に広げた意味での市民皆兵の崩壊であり、軍人皇帝時代はさらに国土が拡大し国境警備の為の常備軍が必要である為、国籍、人種を問わず募兵しなければならなくなったという事情です。 いずれも市民皆兵の崩壊といえます。 後者では兵士に俸給が支払われるようになりました。

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  • imp-dsc
  • ベストアンサー率25% (57/222)
回答No.1

ポエニ戦役位まではある意味ローマ人は皆貧乏してました。 この頃にやっと自国の通貨を発行したと言えば分かりますか?一方のカルタゴは普通に金貨を鋳造して地中海全域で貿易していました。 ポエニ戦役でカルタゴを降したローマはそのカルタゴに変わって貿易を取り仕切るようになります。貿易というのはある意味ビー球持ってアフリカへ行って奴隷や財宝と交換する位に儲かる商売です。(当時の地中海沿岸はそれなりに進んでいる国が多いからあくまでも例えですけど) 結果、今の日本と同じように格差社会になりました。すると徴兵制について皆から不満が続出します。 金持ちは商売できない。中流は借金の山が出来る。その下はというと帰る家すら無くなり一家離散です。というのも当時のローマ軍は装備や食料については自己負担だったからです。金持ちは今で言うなら軍服は勿論戦車や装甲車を負担。中流は軍服と小銃。下流は武器だけと言った感じです。 それじゃなんでそうなったかと言うと現金で納める税金の代わりが徴兵制での軍役だったからです。だから当時もそうだし後々のカラカラ帝のローマ市民権の拡大までがそうです。それ以後はローマ市民全員に課税されました。 話は戻りますがマリウスの時代は丁度そんな時代で軍は質の悪くやる気の無い兵士ばかりで戦争は負けがこんでました。 そこで彼は徴兵制から志願制に切り替えたのです。こうすることで金持ちは商売出来るし下流には雇用が生まれました。更にそれまで自前だった武器等を支給し安い金額でしたが給料も支給しました。これで不満は解消です。 問題の財源は当時既に属州という形の領土と言うか占領地がありましたからそこから徴税する事と戦争での賠償金や領土や略奪で調達する事になりました。徴税といっても「お前らの変わりに他所がケンカ吹っかけてきたら俺ら(ローマ軍)が受けて立って護ってやる」という事でそこそこ納得されたみたいです。 それでも軍に志願できるのはローマ市民だけです。 ここでいうローマ市民とイタリア人は必ずしも一致はしません。現代で似た例を探すならアメリカ人ですね。アメリカは白人・黒人・東洋人と居ますがアメリカ籍持っていないとアメリカ軍に志願できないのと同じ事です。 ちなみにこの事はマリウスが完成させた訳じゃ無いんです。その後のカエサルの内乱を経て初代皇帝アウグストゥスの時代に常備軍として国境に軍を駐留させることで完成します。 マリウスの時代のローマ軍は 戦争勃発→徴兵or志願→訓練→ローマから戦場へ移動して戦争→解散 と言う形です。 アウグストゥスは 常に志願受け入れ&訓練→戦争勃発→戦争(国境ですから近場)→国境へ戻る これが基本です。戦争勃発から終わるまでのプロセスが少ないのが分かるかと思います。 これは領土が広くなりすぎた事が原因です。旅行に行く手間だけ考えるならローマ~ドイツとフランス~ドイツだったら手間・暇・金だけの問題だけで見れば後者が楽ですよね? 当分はこれで上手くいっていました。基本的に軍人皇帝時代も同じです。この頃になると軍に志願しなくても十分に生活できる人が増えてきます。イタリア→フランス(その他)といった具合です。これは同時に強い人が減るとも言えます。単純に都会でおしゃれに生活している人と山奥で修行積みながら生活してる人を比べると分かりやすいかもしれません。これが軍人皇帝の時代には今のユーゴスラビアとかドイツ辺りにまで広がっています。今のドイツからは想像できませんが西部劇のインディアンみたいな生活してたから当然強かったんですね。 これじゃ軍隊が弱くなる一方だから○○族とか■族とかいう部族から傭兵を集めて軍を立て直した時代が軍人皇帝の時代です。やっぱり活躍して手柄を立てると出世していきます。実際当時の皇帝でディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス大帝は今のバルカン半島出身です。 更に言うと軍人皇帝の時代に戦争の方法が変わった事もあります。 歩兵中心から騎兵中心です。歩兵ならば武器を持たせて戦う訓練で終わりますが騎兵だとそれプラス馬の乗り方も加わります。当時は馬に乗れる人は馬を買える金持ちで馬好きの趣味人か生まれた頃から馬に乗って生活してる遊牧民位です。両方とも人数は限られていますし、第一馬は高いです。今でもサラブレッドの種馬とか物凄い金額でしょ?私たちの価値観からすれば馬だけでベンツみたいな感覚です。しかも馬だけじゃなくて走るための馬場や厩舎。エサに調教師の雇用等とにかくお金がかかるため少数精鋭にならざるを得なかった事も志願制が壊れる原因でした。 余談ですがこういった軍事制度が変わる事で社会制度が変わる事はその後も起こっています。例えば火薬が発達して火縄銃が発明されて騎士が没落した事はその代表です。

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