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キリスト教の誤解
私はキリスト教の人なんですが 友達などにそれを教えると 「それってタバコとかお酒とかできないから嫌じゃない?」 とか 「ルールが一杯あってめんどくさそう」 などイメージの悪い返事来ます 実際キリスト教のイメージってどんな感じですか? 少なくとも私は宗教的でありつつ不自由などない生活を送ってますがこの誤解は何処から来るんでしょう?やっぱり他の(カスリック教など)ルールが厳しい宗教のせいでしょうか?色んな人の意見が聞きたいです
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>少なくとも私は宗教的でありつつ不自由などない生活を送ってますがこの誤解は何処から来るんでしょう? その誤解というのは何も知らない無知からくることがほとんどだと思います。 クリスチャンというとまじめで品行方正でお酒も飲まず、タバコも吸わずーーー。というイメージがありますが、クリスチャンになったらタバコもだめ、お酒もだめという戒律があるわけではありません。クリスチャンでない人だってタバコを吸わない人はたくさんいますし、お酒を飲まない人だっています。 タバコを吸わず酒を飲まないクリスチャンだっていますが(私はお酒もタバコもどちらもやらないクリスチャンですが。)それは、お酒を飲んではいけないとか、タバコを吸ってはいけないという戒律があって飲んだり吸ったりしないのではありません。吸いたくないから吸わないし、飲みたくないから飲まないだけです。ですから、もし、クリスチャンに対して自由がないと思うのはその人の思い込みでしかありません。タバコが嫌いな人は他の人の吸っているにおいだって嫌なのです。嫌だけならいいですが、他の人の吸っている煙を吸っただけで害を受けてしまいます。お酒だっておいしいと思わない人は飲まないでしょうし、体のために飲まない人もいるでしょう。私はタバコも吸わないしお酒も飲みませんが一度たりとも不自由だと思ったことはありません。 #13のkigurumiさんが書いていた >クリスチャンとは自分が悪いことをする生き物だと知っている人、自分が汚れだと知っている人、時には不正を働くと知っている人、心が狭く愚かだと知っている人、自分が弱いと知っている人 まさにその通りです。クリスチャンになったから罪を犯さない完全な人間になったのではありません、むしろ、自分は罪人である(クリスチャンが罪と言う場合は人を殺すとかお金を盗むなどの警察に捕まってしまうような罪だけを言うのではなく、心の中で「あいつなんていなければいい」とか、「あいつなんて死んでしまえばいい」などど思うことも罪です。)ということが否応なしにわかっている人、そして、そのことがどうしようもなくわかったからこそ、その自分の罪(生まれてから死ぬまでに犯すすべての罪)の罰を身代わりに負って死んでくださり3日後に復活してくださったイエスキリストを信じてその罪が赦されたことを感謝して生きているのがクリスチャンなのです。 聖書の教えは、いい人間になったら天国へ行けるとか、罪を犯さない人間になったら天国へ行けるとはいっていません。イエスキリストの十字架の死と復活を自分のこととして信じ受け入れたものが天国へ行ける、つまりクリスチャンになれるのです。 ですから、クリスチャンを見て「クリスチャンのくせに」とか、「クリスチャンなのに」と思うのは間違えです。クリスチャンは神様に罪を赦してもらって天国へ行ける、もう天国の国籍という身分を持っているものであって、普通の人間です。 そして何をしてはいけない。などどいう戒律があってそれを守っているのではなく、神様に罪を赦されたものだからこそ神様の喜ばれることをしようと思って行動するし、自分の良心に照らし合せていいことと悪いこととを判断して行動しているのです。 だからクリスチャンといっても千差万別でいろんな人がいるし、時には悪いことを思ったり、してしまったりもするのです。 クリスチャンでない人はそこがわからないから誤解してしまうのではないでしょうか。
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- netcatme
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モルモン教やエホバの証人のイメージが強いのでは? モルモン教は布教に熱心で、米国人の日本のタレントにもいるし(どこか別の国に布教に行く義務があるらしい)、エホバの証人もやたらと各家庭訪問し、その戒律のために社会問題にもなっていますし。 カトリックが厳しいのは修道院だけでしょうけれど、修道院のイメージも強いでしょうね。 その他にも、キリスト教のイメージの強い人は熱心なキリスト教徒でしょうから禁欲的でしょうし。 欧米人の大半はキリスト教徒なんですから、一般的なキリスト教徒ってそんなものだと分かりそうなものですけれどね。
私は信者ではありませんが、幼い頃、プロテスタントの幼稚園に通っていました。園長先生、保母先生、それから、その後の人生で会ったカトリックも含めた信者さん(カルトは論外)は、大体、インテリで人格的にも立派な方々が多かったです。ですから、キリスト教の教義に対しては信服できないものの、キリスト教信者に対しては、よいイメージを持っています。私の女性の友人たちも、キリスト教に対する興味と理解はかなり持っていると思います。 ところが、夫は「宗教」というもの自体、「胡散臭いもの」ととらえているようです。塩野七生の書を愛読していながら、プロテスタントとカソリックの違いをあまり理解していないようですし、オーソドックスや英国国教会に至っては、そんなものまであるのという具合です。 男性と女性によっても、かなり見方が違うと思います。
- katyan
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う~ん。本当は違う。クリスチャンはタバコも酒も飲むんだ。 なんて書いたら、イメージ下がりますよね。 だから普通の人がイメージ的に悪いは (本当にまじめな?)クリスチャンならしていないだろう、なんて思っているんでしょうね。
- kigurumi
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テレビや映画でキリスト教関連が人を許すという場面に登場し、またその許すことができる境地になるには、厳しく慎ましい生活をしているという物語が流れるからじゃないでしょうか。 女遊びして暴飲暴食をしている人が人に諭す場面としてクリスチャンを登場させているのを見たことがない。 クリスチャンっていうと、異性間の交際が無く、タバコも酒もせず、会話が成立せず心が通わないって感じに思ってました。 実際身近にいる人は酒もがぶがぶ飲めば、タバコも吸うし、人を厳しく批判するし、人が困っていても見てみぬふりもする。 その人がクリスチャンとは自分が悪いことをする生き物だと知っている人、自分が汚れだと知っている人、時には不正を働くと知っている人、心が狭く愚かだと知っている人、自分が弱いと知っている人だって言ってたのには、目からウロコでした。 牧師の人に聞いたらその通りですという答えが返ってきたので、私のクリスチャンに対する偏見はなくなりました。 なんだ 普通の人だったんだって。
- yuhkoh
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真言宗の僧籍の者ですが。 日本では「普段の生活では宗教を信仰していると意識しない」信仰だからではないでしょうか。ですからキリスト教に限らずに「○○教を信仰している」と明言されることに違和感を覚えるのではないでしょうか。伝統的に日本では祭礼や四国遍路などの巡礼・修験道にみられる入峰など、「神仏」に触れる機会がイエ・ムラという「俗界」から山・島・聖域などの「異界」でにおいて、禁欲や苦行などの「非日常」の生活を過ごし、それによって滅罪と鎮魂、祈願を行い、再び「日常」の生活に戻るという信仰形態だった面もあるので、宗教というものが「非日常」の存在と意識されています。ですから「私は無宗教です」と答える人もよくいますが、それは西欧的無神論者ではなく、「日常の生活で宗教を意識していません」という程度の答えであり、そういう人もお寺や神社に行けば手を合わします。 また近代宗教学の始まりが、“「宗教」はユダヤ・キリスト・イスラムのように「唯一絶対神との契約」を結ぶものであり、仏教は宗教でなく哲学、神道や道教・自然崇拝などは習俗である”というスタンスだったので、その影響によっていまだに「日本人は無宗教」と説明され、それを鵜呑みにして「無宗教なんだ」と刷り込みされているようにも思います。 だから質問者さまのように“キリスト教を信仰している”と表明すると、日常の生活ではなく、常に非日常の生活を過ごされていると誤解されるのではないでしょうか。
- hisya
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普通の男にとって、キリスト教は性的に厳しいイメージです。 イエスの反対命題 ↓ 旧約律法には「姦淫するなかれ」とあるけれども、私ならば敢えて申し上げよう、情欲を抱いて女を見る者は心の中ですでに姦淫を犯したのである。 たいていの男はこれを聞いて、そんな無茶な極端すぎると思います。けれど、情欲が心を占領することを自分で100パーセント肯定できるかというとそうもいかない。要するに男の痛いところを突いているのです。 そういうわけで、クリスチャンになったら男はエロ本やAVを見てはいけないとか、キャバクラや風俗などに行ってはいけないとかのイメージで、固い真面目な男にしかできないと思われてるのではないでしょうか?
- o-sai
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一神教の方たちは「教え」を、疑問を持たずに従順に受け入れなければいけません。 ですから表面的な捉え方をすれば、 仏教等に興味がある、という人が哲学的に見えるのに対して、 ただ「教え」に従っているだけの従順な「迷える子羊」に見えてしまいます。 私も幼いころミサに何度か行きましたが、 「人間は神様がつくりました。進化論は間違いです。」と教えていました。 戒律とかの問題ではなく、 こういった「教え」をどう解釈するかといった問題だと思います。
すべての宗教に言えることですが、仏教や神道でさえ、宗派の違いが解らないのに、プロテスタントとカトリックと他のキリスト教などの違いや、本部が、イタリアなのか、米国、オーストラリア、などどこなのか、で、全くと言っていいほど、教えが、違うのに、自ら、その違いを、はっきりしていないキリスト教、全体の問題でもあり、仏教でも、オウム真理教、イスラムでも、過激派原理主義など、 悪い方のPRの方が、マスコミが優先しますので、 当たり前でしょうね。 基本的に、宗派教育ではなく、宗教情操教育を、もっと押し進めれば、良いのでしょうが、最後に、その宗派の宣伝を入れるので、嫌われるわけです。 何教でも何派でも、大きなところは、あまり変わりませんし、その国の生活に特化していきますからね。 日本のキリスト教と欧米のキリスト教の具体的生活習慣は、当然変わって良い訳ですから。。。 先祖崇拝は、日本では、OKですからね。
- kisaragi0
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それは単純に「自分の生活様式に無い」とか「知識が無い(偏っている)」ということが原因ではないでしょうか。 日本人の多くが初詣に行きますが、それを不自由だと思う人はあまりいないと思います。 しかし一度も初詣に行ったことのない某友人(日本人)に一緒に行こうと言うと、「作法とかあるんでしょ? 覚えるの面倒くさいからパス」と言われました。 彼には初詣いうことが生活様式の中には無く、知識も乏しかったために行くことが不自由と思ったのでしょう。 同じようにキリスト教の信仰を持っている人は自然に出来ている(ルールが生活様式に組み込まれている)ことが、そうでない人にはルールに縛られた不自由なものに思えるのでしょう。 私が「キリスト教」で連想するもの ・かび臭い修道院 ・分厚くて一生読む気がしない聖書(なぜか家にある) ・教会 ・原理主義に染まったピーな人たち ・悪いイメージを取り除こうと必死に頑張っている人(知人にいる) ・助け合いや自己犠牲の精神
お礼
ありがとうございます やはりこういうイメージが多いようです そもそも生活様式で聖書を教える人は間違っていると思います 「キリスト教の人なら洋風になれ」などというクリスチャンもいるようです しかし洋風や和風など関係ないと思います ぶっちゃけて言いますと、教会だって行きたくなければ行かなくてよかったりします(私は行かないですし・・・) そういう物にこだわっている人は一番重要なことだけ守れてないのが悲しい事実だったりします それに対し悪いイメージを取り除こうと必死に頑張っている人はそういう人がつけたイメージを取りたいのかもしれません 助け合いや自己犠牲の精神もこういう人にしかなかったりします
- nyaon28on
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聖書は「聖い神の教えが書かれた本」というイメージがあるということです。 その神を信じる者は、悪しき習慣に染まっていてはいかんだろうというイメージを皆さんが持っているのです。 そのイメージは、正しいと思います。 聖書の神を信じる者(クリスチャン)は、イエス・キリストを模範に、神によろこばれることは何か、考えて行動します。 神さまを愛することと、クリスチャン同士、助け合うこと、愛し合うことがルールです。 日本人全員が仏教徒ではないように、キリスト教国といえども全員がクリスチャンなのではありません。 アフリカで奴隷売買の仲買をしたのは昔のアラブの商人です。悪い人はどこの国にもいます。昔のアメリカ人が、奴隷商人から奴隷を買い、使用人としたのは事実です。リンカーンが奴隷を解放したのも事実です。人類が今までやってきたことは、戦争と地球の破壊です。ルールなどない無法の世界です。 その中でクリスチャンたちはよく「愛と平等の精神」を広めてきた方だと思います。 神の願いは、罪人が救われて、天国に行く者となることです。救われた者は、自然に神によろこばれることをしたくなるものです。
お礼
ありがとうございます わたしは「神によろこばれること」をするのではなく、「神が喜ばしいこと」をしてくれるといわれました 神に頼りなさい、とか 神を信じなさい、とか・・・ そこ以外は私から見れば、ところどころ少し違うように見えますが、大体はあっています
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お礼
ありがとうございます 他の宗教との違いをはっきりしてないのではなく はっきりしずらいのです なぜなら根本的には聖書を読んだり、神は一人しかいないという人がキリスト教ですが、思考の違いで分かれるものです 自分の宗教の思考を教えるだけならそれほど難しくないですが他の宗派との違いとなると他の宗派を完全に理解していない人にとっては難しいものです 全てのキリスト教が同時に自分の思考を明らかにすれば済む問題かもしれませんね。