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キリスト教の考え方について
元々ヨーロッパの文化や歴史に興味があり、その延長でキリスト教に興味をもつようになりました。 また、高校の倫理や世界史の授業でキリスト教を勉強して(といってもざっくりかじっただけですが)イエス・キリストの考えに共感し、将来入信することも視野に入れて教会に通ってお勉強したいなと思っています。 しかし、今までずっと日本で生まれ育ってきた自分のなかには無神論的な考えかたもあって、その無神論的な立場から「イエス・キリストの言っていることに共感できる」と考えているだけのような気もします。 母に「キリスト教徒になりたい」と言ったら「ばかじゃないの」と言われました。私は結構本気だったので少しショックだったのですが、そういった母の考え方もわからないでもないのです。 また、学校では三位一体説も勉強しましたが、そんなこと私には到底理解できそうもありません。それに、「この世は神が作りたもうた」といわれても、そんなことないだろうと思うのは私だけではなくて、キリスト教徒の多いヨーロッパにもたくさんいると思うのです。 自分の理解できないことも全部飲み込んで「信じます」といわなければキリスト教信者になる資格はないのでしょうか? これは特に大人になってから入信なさった方にお聞きしたいのですが、 キリスト教を信じるということは多少なりとも価値観を変えるということになると思いますが、改宗を決心した動機は何ですか?皆様にとって”神様”とはどういう存在なのでしょうか。 一気にたくさん質問してすみません; まだまだ不勉強なので的をはずした質問かもしれません、ごめんなさい。 キリスト教に則った考えではなく、まったく個人的な考えでもかまいません。皆様の考え方をお聞かせください。 どうぞよろしくおねがいいたします。
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- katyan1234
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もうおおピッらに言うと あなたが聖書を読んで癒された箇所ありますよね。つまりそれがあなたにとっての福音でその言葉を信じてるならつまりあなたはクリスチャンです。聖書には すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 (信じるなら救われているんです。)それがクリスチャンだよ。 聖書には それは、せめて、御衣にでも触れば、直して頂けるだろうと、思っていたからである。 「乙女よ安心しなさい。あなたの信仰が救った。」つまり触れさえ治る そしてキリストに手をのばすと言う信仰さえあればいい、つまり全部触れる必要もなく、つまり全部信じるんではないよ。一部分信じれば癒されると言う信仰を持つことですね。 クリスチャンになりたての赤ん坊はまだ見えないし、言葉も理解できない状態です。 聖書のコリント13章にはそれは、 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた つまり幼い時代の信仰のあり、あっていいのです。 みんながマルタのように働く必要はなくマリアのようにイエスの元に行き話しを聞く時代があってもかまいません。 まだ幼い信仰で「立って歩きなさい。武具を身に着け戦いなさい」なんていうのは無理でしょう? 聖書は辛子だねの信仰を求めてます。 小さな信仰さえあればいいと・・・その信仰さえあればやがて実がなり豊かになると・・・ クリスチャンは教会に行くものと思われていますが 実は教会に行くのが目的じゃなく手段です。まずつながるのはキリストイエスです。その結果教会に行くという信仰があればお越しください。 教会に行かない群れに属さないクリスチャンも多いですね。 (今は礼拝中だよね。実は行ってません。) もう洗礼も神の判断基準ではなく牧師の判断でこの教会にくるにはふさわしいのかを基準にして洗礼を与える教会も多いですね~。 単にフィリポが、「真心から信じておられるなら、差し支えありません」と言うと、宦官は、「イエス・キリストは神の子であると信じます」と答えた そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。 信じるのはキリストです。私の見たキリストとあなたの見たキリストの印象は同じになりません。もし私の聖書感を押し付けたら私があなたの神になりますよ~だから解釈はたくさんあります。その中で許しあい生き信じていきましょう。というのが趣旨になります。 もしお前の解釈はおかしいというのならそれは私自身神になっていると言う証拠だよね。だからある一定の範囲はありますがその信じる行いはそれぞれ変わります。 ば・・・ ○○してはいけないから○○するより天に宝を積む時間を作るほうがいい と悟る。聖書を読んで行き自分の人生のあり方を考えそして博打等から 開放されていくこれも信仰からえる知恵ですね~ 光つまり聖書からバランスよく吸収していく、もちろん祈りとは となりますがまだそんな信仰も必要ないでしょう。ゆっくり聖書を読む時間を作りください。12月23 もしくは25日にクリスマスイブ礼拝が行われる教会もたくさんあります。お近くの教会に行き話を聞いてみたら? (住所は全部書くと手紙が来ますから書かないようにね) 私も天国、三位一体が理解できたのはつい数年前、私の横にいつもキリストがいるとマジで信じたのは最近だよ。焦らないでね~。
- kigurumi
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聖書の中に<コヘレトの言葉>というものがあるんですね。 「見よ これぞ新しい、と言ったところで、それかかつてあったことで、これからもあることだ。」と作者は述べています。 おそらくイエスの教えとされるものは全部旧約聖書に<既にあるもの>で、なんら新しいイエス独自の思想は無いはずです。 聖職者と思える人に、どれかひとつでも旧約には無い独自の思想がありますか?とネットで聞いたことがあるんですね。 「無い」と答えておられました。 かつてあったことで、これからもあること。 何故イエス教ではなくキリスト教なのか。 キリストという意味は、ギリシャ語で救世主という意味だそうです。 ローマ帝国って昔ものすごい領土を持っていた。 しかし最初は小さな集団だったわけです。 この小さな集団が、大きな集団に変わることになったのが、初代ローマ帝国皇帝になった人が、激戦でこの民族の勝利をもたらした時。 民族を救って益をもらたしたので、神の子、ユピテルの子、救世主 つまりキリスト と呼ばれるようになった。 ユピテルって父なるデウスって意味だそうです。 キリスト教は神のことをデウスと言います。 (芥川龍之介の作品にキリスト教関係の物語がありますが、やはり神を指すとき、デウスと書いています。) デウスでもゼウスでもいいんですが、要するに一般の神様よりえらーい神様って感じですね。 その広大な領土を持つことになったローマ帝国ですが、権力争いで分裂し、4人皇帝が同時乱立したりとかバラバラになったわけです。 で、その中のコンスタンティヌス1世となる人が、小さな田舎町トルコのコンスタンティノープルに自分の名前をつけて(今はイスタンブールと呼ばれているとこ)、そこを拠点にしてトーナメント方式の内戦を勝ち抜いてバラバラだったローマ帝国を再統一したんです。 で、ローマ帝国は広大な領土を支配地域にしていたが、各地に暮らす人々は、肌の色も違えば言語も違うし民族も違うわけです。 その人たち全部をローマ帝国市民、ひとつのグループにするためにはどうしたらいいか となったとき共通性のある宗教を使うことにしたんです。 それぞれのグループが信仰していれう宗教は中身は同じだが呼び名が違う。 じゃあ みなさんの信仰しているものはキリスト教って呼びなおしましょう ってしたんです。 だからキリスト教はイエス教とならず、民族を救った神の子ローマ皇帝教となったわけです。 コンスタンティヌス1世の政治戦略が成功して、統一国家になったわけですね。 人々はぼんやりと信仰していた状態の時に、「あなたが信仰しているものは、われわらが言っているキリスト教ってものなんです。どうですか、私たちのグループにちゃんと入った方がなにかとお得ですよ。」って感じでしょうか。 キリスト教にならないと、生きずらいように政治面において皇帝がやったものだから、「じゃあ 同じものなら名乗ったら優遇され生きやすくなるキリスト教徒になりましょう」ってなったわけです。 逆にキリスト教徒にならなかった場合は、異邦人としてつまはじきにされたし、税制面でも大変だったようです。 結婚ができない とか いろいろ法律で制約がもうけられ、キリスト教徒でなければ、いきづらいような政策を展開することで、ローマ皇帝は人民を統一したわけです。 北朝鮮が一人の人を崇拝しないと北朝鮮では生きずらいような政策をしているのと一緒。 ローマ皇帝たちが政治面で人民の思想の統一を図ったことで、集団は結束力が高くなり、栄華を極めたわけですね。 宗教ってそういう面ではとっても便利な道具。 戦争をする金が足らなければ、皇帝と談合し、教会に寄付すると天国に行きやすくなるって言ってもらえば、人民は財布の紐をゆるくしてくれ、そのお金をもらえて軍備を増強できましたから。 まあ そういう裏事情はさておき、今手元に本は無いですが、<利己的な遺伝子>を書いたドーキンスの最近の本に<神は妄想である>というのがあり、それに天地創造は史実だと信じている人がどれほどか、天地創造は信じていないが、他は信じているのはどれほどか、意思でこの世を作ったという神が本当にいると信じている人はどれほどいるか調べたそうなんです。 手元に本が無いので何パーセントだったか今いえませんが、天地創造まで信じているキリスト教信者はごくわずか。 しかし、キリスト教徒になるからには、イエスって人が実在しており、ピラトによって処刑された3日後に復活したってことは信じているって宣誓したからこそ、キリスト教徒になっていることは確か。 キリスト教徒になるとことで、優遇され、永遠の命を得る当選確率が、信者ではない人より高くなると信じていることは確か。 で、キリスト教はもともと文盲の人、身体障害者、知的を含めた精神障害者たち向けに布教されたんです。 学問を学べる人は上層階級のみだったので、キリスト教を学問と捕らえる文盲の人にしたら、キリスト教に入信したことで、学校に通え学問を学べるようになったと感じたわけです。 他にユダヤ教の相互扶助の思想もありますので、キリスト教に入信することで、同じキリスト教徒だからってことで、今まで見向きもしなかった人が手を差し伸べてくれたりしたわけです。 能力的に労働は無理でも、集団で扶養してくれるようになったりしたわけで、それだったらキリスト教徒になった方がお得ですよね。 で、福祉の面では確かにキリスト教は社会主義的な側面があるので、相互扶助をする一面もあります。 金持ちから多く寄付してもらって、恵まれない人々をそのお金で扶養してきたわけですから。 例えばヨーロッパに貴族っていますよね。 キリスト教は拡大するにあたり、地主に優遇措置をしたんです。 ランクというかそういったものをつけて、彼らは神により恵まれた人ってことにした。 ランクをもらったら地主はいい気分ですよね。 地主を取り込むことで、地主の下で土地を借りて労働するその他大勢の農奴もキリスト教にとりこめる。 しかも、聖貧を解いたことで、農奴は利益のほとんどを地主に取られても、不平を言わなかった。 地主はそれで大金持ちになり、キリスト教の建物とその搾取したお金で作って、キリスト教の聖職者から「神に仕えるものだ、きっと神の祝福がありますよ」とか言われて、安心感を得られたわけです。 音楽とか絵画とかの反映も、この大地主がいたからこそ。 つまり 聖貧を解くことで農奴は稼ぎのほとんどを搾取されても不平も言わせることなく、金持ちはさらに金持ちに、貴族は農奴が働いている間、お茶会をして音楽や絵画という面を楽しんだ。 これが、ルネッサンス時代。 で、ずっと農奴はぎりぎりの生活をするわけだが、貧しいことはよいことだと教わっているので、きっとこれだけ貧しくて信仰深ければ、天国にいける確率は増すに違いないって思っているわけです。 実際は、フランダースの犬みたく、教会の人も養わない状況の中、救いを信じて息絶える人は続出した。 でも最後まできっと死んだら天国に行けると思って息絶えたでしょうね。 他のキリスト教徒に見殺しにされて恨むことなく、死んでも天国にきっと行けると幸福感を持って餓死していった人たちはかなり多かったと思います。 搾取され使うだけ使われ、捨てられても、神の存在を信じているからこそ死に際は他人を恨まず「もうすぐ天国にいけるんだ」と希望を持っていたと推測します。 そういった搾取システムがあったからこそ、キリスト教は軍事力を拡大できたわけですが、あれだけ信者から搾取すつづけ繁栄を極めたローマキリスト教が財政破綻をした。 で、ある事件をきっかけに、ローマキリスト教は、核兵器会社、ポルト会社、麻薬企業に資金提供していたことがわかった。 直接じゃないですよ。 マネーロンダリングをして、その企業からの直接の献金とならないようにして、財政破綻を回復しようとしたわけです。 恐ろしいですよね。 この世に核兵器、ポルノ、麻薬の反映を促進することをキリスト教がやっていたってすごすぎます。 裏では人々を不幸しておきながら、表では自分たちが不幸にした人たちに慈悲をかけている。 人殺しに犯人がなにくわぬ顔で葬儀にやってきて、遺族に「このたびはご愁傷さまでした、何か困ったことがあったらいつでもいらしてください。助けますよ」と言うようなもの。 で、ヨーロッパではこの事件は大スキャンダルとして報じられたわけですが、それでもまだまだ信仰している人は多いんです。 どうしてかというと、生活の一部になっているから。 生まれて死ぬまで教会と関係を持たざるを得ないように慣習がそうなっているから。 生まれたら洗礼名をつけますよね。結婚式は教会で神の前で誓った方がなんかいいと教会で挙げますよね、死んだら天国に行けるという教会に管理墓地に埋葬してもらったほうが気分いいですよね。 仏滅に結婚式をしたくないのと一緒。 仏滅にしようとしまいと関係ないが、気分的に仏滅は避けたいでしょ。 それと同じ心理作用。 だから大スキャンダルが発覚しても、生活に深く浸透しているので、棄教はしないわけです。 ひとまず会員として名前を残しておく。 で、ヨーロッパはキリスト教国が多いですから、日本の感覚で明日は日曜日ってことを忘れて買い物をしていなければ大変です。 日曜はどっこも開いてないから。 あいているのはキリスト教以外を信仰している店だけ。 で、みなさん日曜だから教会に行くのかというと、教会はがらーーーん。 1000人の会員登録数の教会も、50人ミサにきていればいい方。 どこにみんないるのか? 家でお祈りをしているのか? ピクニック、ドライブ、バーベキューパーティー。 行楽地もしまっているので、弁当もって郊外に遊びに行くわけです。 でも そんな人たちですが、結婚式となると、ぜひ教会で ってなるわけです。 葬式は神父さんを呼んで儀式を行ってもらうわけです。 日本で、葬式の時にお坊さんに念仏をとなえてもらった方がいいと思うように、はやり無いよりはやってもらった方がなんかいいと、自分の家族が登録している教会の聖職者に葬式の時依頼するわけです。 教会もその見返りに賃金もらうので、「今まで教会にほとんど来たこともない一家に、呼ばれてもねぇ・・・」って拒否しないわけです。 で、ヨーロッパはキリスト教離れが加速しており、会員としてはかなり多いのですが、実際教会に行っている人は、ほんとにごく一部。 家族不和だったり、失業していたり、と自分ではどうにもならない苦難を抱えている人は、教会に行って神に助けを求めるわけです。 私たちもそうですよね。 受験をするときだけは、神社におまいりに行ったりしますよね。 普段信仰しているわけじゃないのに、わずかでもあやかれないかという希望を持って、行きますよね。 で、私は信者ではありませんが、知識としていろんな教会を見学したんですね。 儀式が終わった後も見学した。 儀式のあと食事をして、その後 活動として祈りの時間ってサークルがあって、それを見せてもらった。 みなさん 祈りとしてこんなことを言ってました。 「子供を失って失意のどんぞこんあったとき、キリスト教を知りました。」 「失業して生活保護を受けているとき、キリスト教をしり即入信しました」 「主人が私を常に叱り飛ばしたり殴ったりするのは、私が至らないからだと思います。どうかこの至らない私をお導きください。」 もっともっといろんな祈りがありましたが、涙が出そうになる内容もたくさんあった。 一番多かったのは愛する人を失った人たち。 次は家庭不和。 いじめ。 このように 我慢できないほどの苦痛を日ごろ感じている人たちが、神にすがっているわけです。 で、私は迷うんです。 「嘘も方便・・・」 そのような人たちに、「イエス物語は史実ではない」と真実を言わない方がいいんじゃないか と。 だって真実を言ったら、首の皮一枚でつながってた人たちの、生きる希望が無くなってしまう可能性があるかもしれないから。 でも、キリスト教の大スキャンダルが発覚しても自殺した信者はいなかった。 どうしてかというと、彼らは本当のところキリスト教を信仰しているわけではないから。 自分たちの祖先からの信仰を継続して信仰し続けているから。 キリスト教と名前が変わったところで、自分たちが信仰しているのはイエスではないので、イエスを党首とした集団が悪事の限りを尽くしていたと発覚しても、痛くも痒くもないわけです。 では誰の存在を信じているのかというと、永遠の処女。 神様は人間を作った、ではその人間を作った神は誰によって作られたのか、さらにその作った人は誰が作ったのか、、、と永遠に問うことができますよね。 このやり方だと。 問わない方法がある。 神は処女で誰の干渉のなく、自らをも創造した としたんです。 古代の人は。 で、この神は3面一体としたんです。 創造し養育し滅ぼすことをする。 どれかひとつだけではなく、創造をしたものを養育するが死も与えるとしたんです。 で、創造して育成してもらうという恩恵を受けながら、そのもう一面の死という恩恵だけは受け入れないというのは、信仰をしていない証拠じゃないか ってことになり、滅ぼされることも受け入れましょう と古代のインド方面の人は考えたわけです。 これが本来の三位一体に対する考え方だった。 それなのに、いいことばっかりしか言わないってのは、片手落ちですよね。 これでは不完全 完全な信仰とは生まれたことを受け入れ、成長することを受け入れ、滅ぶことも受け入れること。 三位一体というキリスト教は実は二位一体なので、不完全なんです。 不幸を拒否するから、不幸だ 苦痛だ 早く救ってください ってなるわけです。 3つ目を受け入れないから、不幸が起こるわけです。
キリスト教、特に考え方としての類型 大きく分けると2つ。 1=偽装型キリスト教と2=通常型キリスト教が存在します。 1偽装型のカテゴリー=「エゴのみ」のセクト(カルト系宗教) 概念としてはSyncretismと呼ばれるものです。寄せ集めの「でたら+めごちゃ混ぜ」宗教。「ないものをある。」「あるものをない。」と主張し屁理屈をこねる出鱈目宗教。キリスト教とは直接関係のない伝統・伝説・歴史を口にしてキリスト教的コンステレーション(星回り)に結び付け「イメージ」による思考改造を試みる悪質な情報操作の教え。非我アイデンティティー形成を目指す「商」教です。売り込む側にだけ都合のよい権威付けを図ろうとする虚構・愚民化=フィクション継承の流れ。関連用語「Factoid」 教義的には、「教祖タマが、自分の言いたいこと=コトダマをわめき散らすだけ」というのが、定義的に「キリスト教」と名づけられます。その「勘違い」を販売している人々が信徒と呼ばれます。 具体的特徴として、まず、教義(販売競技)的主張として、全ての宗教はXXXである。全ての哲学は、XXXであるとレッテル張りの「主張」をするということ。 更に、教祖について、教祖がナヨナヨもやしの環境=象牙の塔の中で育てられてきており尚且つ戦争話大好きの「金食い虫=餓鬼」という事実でしょう。 自分は自己批判的であると主張する。 その「主張」=「わしは、ひはんてきぢゃ!との叫び」自体が、自分が自己批判的であることの根拠となると思い込んでいる。故に自己批判という「行為」は、実践したことが、ない。そういうエゴイスト。そういう人が、この種の宗教関係者です。 お呼びではないのに「批判」と称して、ゴキブリのようにいたるところで争いを引き起こす。自分の無知を自慢し、指摘されると、自分の「中高生レベルの恥ずかしい間違え」については、当然、一言も触れず、「正しいものは孤独であり、常に批判に晒される」と主張し、話をはぐらかす。 とにかく自分の間違いは、絶対認めない。謝らない。また、自分は、ミカエルもしくはガブリエルの生まれ変わりであるといいながら、ひとりで狂いだす「デブ」か、 もしくは、心身症・麻薬が原因で、病的「幻視+幻聴」を体験しているだけなのに、「オレは神から啓示を受けた、話しかけられた」という「おろ(教祖) かも(中間管理教徒)のたち(輩)」です。こいつらを信じては絶対ダメ。不幸になります。 無教義型・ファッション型・ゲーム内信条型もこの類型の「ポテンシャル=プロトタイプ」です。イメージとして偽装型キリスト教をなんとなく受け入れている人は、上記の「より低級なニセキリスト教」によりマニピュレーションを受けやすい傾向があります。お気をつけください。能力開発系宗教・サイエントロ(ピー)系には、近づかないでください。 質問者さまもそうなのでしょうか?「イメージキリスト教=我流キリスト教」の共感者層は、もう一度立ち止まって、「一体、何が?そして誰が?」正しいのかよく考えてみるべきです。 我流的キリスト教解釈では、一番新しいもの=流行=「今の思いつき」がすばらしいものであり、一方、過去の象徴であるイエス様は、負け組み「だった」とだけ言っておきましょう。我流キリスト教が勝ち組か負け組みかは、今の人が考えるべきでしょう。特にどの分野でそれがいえるかというのが重要な問題です。結論として、教義として女性が幸せになれる可能性は、極微です。 2通常型キリスト教 正統派・教義派(ルター派・ローマカトリック・ギリシャ正教) アングロサクソン系経済重視利己主義型キリスト教(イギリス国教・アメリカ型教条主義・カルビン派) 無教会派・聖書中心主義 神秘主義 超然主義・ローゼンクランツ系・アントロポロソフィー派等 上記、類型IIは、どれも新約聖書を基礎とする経典のある宗教です。歴史的過去の解釈・現証・予言と「時系列の教義・修行法」のどれについても不十分で、いい悪いの評価で言えば、比較的低レベルな宗教です。信仰としてデメリットも多いといえるでしょうが、「オレオレ流=I型」と一緒にするのは、あまりにも可愛そうなのでコメントしました。 実際、II型=通常型キリスト教に所属しながら、I型の主張をする人がいます。教義的には我流が多いので話半分で聞いてください。どこにでも自己チューの人はいます。 I型の人で、所属する系統・流派がないと「主張」している場合、この方たちは、ただの「ほら吹き=無法の悪人」です。それはそのように御評価ください。話の流れでそれがタダでさえない場合、「金は払わない」ときっぱり拒絶・絶交し、以後、完全シャットアウトするべきです。 追伸、ボケてる人(終戦直+団塊)は、ワニワニパニックでもやって、頭を鍛えましょう。
- turube555
- ベストアンサー率22% (4/18)
自然に、水のように染入る言葉を感覚で理解することは悪いことではありません。 また、理解できないことがあってもそれもまた自然です。 最初に「共感できると考えているだけ」と言っていますね。 最初の出発点として良いと思います。 私は神の存在を信じています。でも、仏教徒でもイスラムでもあなたの言うキリスト教徒でもありません。 あなたにとって神とは何ですか? そしてどうしてイエスの言葉に共感したのですか? 信じるという気持ちはどこから来るの? 疑問を呈すれば幾らでも挙げることは出来るのです。 難しい教義を頭で理解してもそれは理解であって信じることではありません。また、理解することができないかもしれません。 少しづつ、感じていろいろな思いがあって、「 ああこういうことなんですね。」って心から入ってくることから「 信頼 」が生まれるはずだと思うのです。 だから今いろいろと疑問に思うことを無理をして解決することはないのだろうし、少しずつで良いのですよ。きっと。 不勉強だと思うのなら、少しづつでも、たとえ意味はわからなくても聖書を読むと良いでしょうね。 きっと色々な事に出会うでしょうから、その時にその言葉が生きてくるのでしょう!
- tomabc
- ベストアンサー率11% (2/18)
神を考える、という事に対して2つの見方があります。 1つ目は科学的に神を考えることです。宇宙、地球、人間などは、どうして出来たのか、仕組みはどうなっているのかを考えると、そこに知性があることがわかる、つまり制作者がいないと説明がつかない部分があります。 2つ目は聖書に書かれている人間の基本である道徳が人類最高道徳と言われていること。キリストが語るマタイ5章からの道徳(山上の垂訓と言う)は暗記しても損はありません。ガンジーはこう語りました。「人生で一番影響を受けた書物は聖書である」 アメリカ人の8割以上がキリスト教として聖書を読み、5割の人々が教会に通っています。 残念ながら日本の教会に行っても聖書の知識に乏しく、講演も聖書記述から外れているように感じます。
- hhituji
- ベストアンサー率30% (15/49)
高校生でしょうか? 私は30を過ぎてから、初めて本当のキリスト教を理解し、深く信じるようになったものです。 それ以前から、「自称」クリスチャンでしたが、今思うと、とても浅い 理解であり、本当のキリスト教の素晴らしさを何も理解していませんでした。 だが、誤解しないでください。浅い理解であっても、教会に行ったり、 イエスを崇拝したりすることは全然悪いことではありません。むしろ、 望ましいことでしょう。 ただ、「この世は神が作りたもうた」とか、「イエスは受肉した神であ る」ということを本当に理解できないのであれば、それは、キリスト教 を信じたという本当の状態にはなっていないでしょう。キリスト教信者 とは、誰が決めるものではありません。だれにいわれずともあなた自身 が分かるものです。 あなたは高校生だから、一つ提案があります。イエスが自分自身を何者 であると主張していて、それが本当に真実であるか、学問的な立場で調 べてみたらどうでしょう。また、奇跡などが本当におこったのかどうか 調べるのもいいでしょう。 「馬鹿をいわないでくれ」と思われるでしょうが、そのようにしてキリ スト教を否定しようとして証拠を探した人の多くがキリスト教の強烈な 信者に何人も変えさせられたということを。 そして、わたしもその一人だということを。 (これでも私はれっきとした大学の工学を専攻し、卒業し、某メーカー の技術者を務める人間です。) その結果、「イエスは神ではない」「キリスト教の神は全知全能ではな い」「三位一体は嘘だ」などという結論に達したら、そこで自分をだま して、キリスト教を信じる必要はありません。 だが、もし、自分の理性に反しても、肯定的な結論を出さざるを得ない のだとしたら......... その時は、よく考えてみてほしいのです。 なぜなら、イエスにどのような態度で接するかほど、この世で大切なこ とはないからです。 そして、さらに付け加えます。この知的探求の旅は、時間がかかるかも しれません。焦ることはありません。聖書には書いてあります。 エレミヤ29・13 「わたしを尋ね求めるならば見出し、心を尽くしてわたしを求めるな ら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
自己流の宗教観を持っている者です。 最初に、人の心には、「善」、「悪」と区別する“性質、あるいは特質”が有ると受け止めて。 大昔なら、暗闇とか大自然の驚異を、恐れ敬うと言った心理が、宗教心の発端となったようで(善、悪ではなく)すが、現代人にとっての宗教心は、大自然を通して、と言うよりも人の心に何か満たされない部分があって、そこを満たしたいと言う要求(これも善、悪というのではありませんが)から、起きてくるように思います。 最初に、こうした考えをelaiouさんはどう思われるか聞いて見たいのですが。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ひととおりまとまった解説を必要とするでしょうが いまは 趣旨説明に書かれたことがらについて 考えを述べます。 ★ キリスト教を信じる ☆ ということは げんみつに言えば 間違いです。《信じる》のは 非思考であり 無根拠なのです。 《おしえ》を信じるのではありません。それは 思考の対象になります。聖書〔に書かれたこと〕を信じるのではありません。それも思考の対象です。 イエスは イエスという名のふつうの人間であると同時に 神の独り子であり神であると言われます。(無根拠にて そう見ます)。この――キリストとも呼ばれる――神を わたしたちは信じるのです。 ただし 《神》という概念を信じるのではありません。それは 思考するものです。かみという発音を信じるのでもありません。無根拠の――ですから 無神論の無神と言っても同じことになるところの――なぞの神を信じます。 ★ 「この世は神が作りたもうた」といわれても、 ☆ これは――そして一般に基本的に聖書のすべては―― 表現の問題が横たわっています。創造主だというのは あくまで仮りにそのように表現したに過ぎません。なぜなら 《つくる》というのは経験行為であり思考の対象です。それは 神じたいのことではありません。仮りにそういうふうに たとえとして 表現しただけのものです。ですから 無神と言っても 同じことだということになります。 すでに次の問いにはお答えしたと思います。 ★ 自分の理解できないことも全部飲み込んで「信じます」といわなければキリスト教信者になる資格はないのでしょうか? ☆ やがていつか あなたの心のまどをコツコツとたたく音がするのではないでしょうか。そのときに 信仰のことは考えればよいのだと思います。信じたいと思えば 信じればよいでしょう。 ★ 動機は何ですか? ☆ それぞれです。ですが 信仰が成立するときというのは 向こうからその声がするということだと思います。人間の動機を超えているという意味です。 三十歳ころ コツコツとたたく音を聞いてこれを受け容れ 信じることを与えられた者です。ただし 教会における水による洗礼は受けていません。
- ucok
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>自分の理解できないことも全部飲み込んで「信じます」といわなければキリスト教信者になる資格はないのでしょうか? べつに。私は洗礼を受けていませんが、三位一体説を理解していない大人の信者なんて、私の周りにはごろごろいます。もちろん、この世は神が光を創ったことから始めて7日間で完成させたのではなく、微惑星の衝突でできたんだろうなと思っている大人の信者しか知りません。 入信の動機はさまざまです。いずれにせよ、しばらく教会に通い、キリスト教について学んでから入信することになりますので、その間に、自分が本当に入信したいのか考えればいいでしょう。今から結論を出す必要はまったくありません。で、私は信者にならずに、気が向いた時にだけ教会などに癒しを求め、文化を理解するために聖書を開いたりしています。神社仏閣も好きですよ。