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天正大判について
お世話になります。 他の銀の小判などは鋳造の段階で銘を入れているのに 天正大判は何故墨書きなのでしょうか? また、金属に墨書きの状態で文字が消えることは無いのでしょうか?
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秀吉の天正大判が作られるまでの金銀貨幣には、墨書は殆どなかったようだ。 秀吉は朝廷への献上用、大名、家臣への恩賞下賜用、贈答用に天正大判を作らせたが、定式化された大判としては初めてのものである。 見栄え良くする為、墨書とした。 献上には桐箱に入れ、三方に載せて権威をもたせ、褒美にはそのまま渡したという。 墨書は墨にニカワなどを加えて書かれたが、剥離しやすく消えかかると製造元の後藤家に判賃を払って書き直して貰った。 認替(したためかえ)といい、後藤家一門の権益であった。 家康の慶長大判以降は鋳造枚数も多く、大口商取引にも使われ、「認替」が多くなり、裏面にも墨書で鑑定裏書したものもあるという。 余談だが慶長大判は10両と書いてあるが、1両の慶長小判が出来ると、金の含有量がその7倍しかない大判は、7両としてしか通用しなかったという。
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- milkbin
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回答No.2
当初の貨幣は、天正大判だけでなく、大体が墨書きであったと思います。天正大判に関しては、豊臣秀吉の命により、後藤家が製作を担当、墨書きで「拾両後藤」と記入されています。 実際に天正大判は流通していたわけではなく、贈答用等の用途がメインでしたが、やはり墨ですと次第にすれてきて消えてしまいますので、後々から鋳造の段階で偽造等を防ぐ意味合いもこめて、「刻印」されました。 ご参考になれば幸いです。
- dulatour
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回答No.1
まったくの推測です。 確か、天正大判って、現在のお金に換算すると、一枚で百万円以上ですよね。 実際に流通したものではないのではないからでしょうか?
お礼
なるほど^^ ありがとうございました。