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大村純忠について教えてください
大村純忠についてなんでもいいので教えてください
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室町時代末期の戦国武将で、幼名を「勝童丸」と名乗り、官職は「民部大輔」で、日本初のキリシタン大名として知られ、洗礼名をドン・バルトロメオ(波留登路銘)としています。 彼は有馬晴信の次男で、母親が大村純伊の娘であった縁で、大村純前の養嗣子となり、大村家を継ぎました。 ところが、後藤家に養子に行った先代の次男(庶子)、後藤貴明は、本来は自分こそが大村家を継ぐべきであったと考え、大村純忠に反感を持っていましたが、純忠がキリシタンに改宗した際に、かなり過激に臣下にも改宗を勧めたため、多くの家臣が後藤貴明に心を寄せ、一時は大村純忠を追い詰め、横瀬浦を焼き払うなどしましたが、息の根を止める前に、自身が養子に迎えた平戸領主松浦隆信の次男惟明の裏切りなどで追いきれずに、大村純忠は生き残りました。 この時代、横瀬浦は貿易拠点として栄えていましたが、この焼き討ちによって衰退し、代わりに大村純忠が宣教師に与えたのが長崎で、これ以降は長崎が海外貿易の拠点になります。 この横瀬浦焼き討ちのとき多良岳に逃れ、出家して、一時「理仙日融」と名乗りますけど、(いろいろ議論はありますけど)キリスト教を捨てた訳ではなかったようです。 晩年は後藤家と組んだ竜造寺隆信らの圧力で隠棲し、咽頭癌の痛みに耐えつつ、大村で生涯を閉じますが、ここは彼が天正少年使節を派遣した地でもあり、縁がありますね。 この地域は、有馬、大村、後藤、竜造寺、松浦などの大名が入り乱れ、面白いですよ。
- takuranke
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基本的なところで 大村純忠(おおむらすみただ、1533年(天文二年)~1587年(天正15年) 戦国時代のキリシタン大名。 実父は有馬晴純、有馬義貞の弟。 洗礼名はバルトロメオ。 参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%B4%94%E5%BF%A0 違う人物なら申し訳ありません
お礼
回答どうもありがとうございました。私は、平戸市出身の46歳の公務員です。昨年の4月に大村市に転勤してきました。日ごろから歴史に興味があったのて゜大村純忠のことに知りたくなりました。回答どうもありがとうございました。仕事柄、日本各地を渡り歩いてきました。そして、その土地土地の土豪豪族のことを自分なりに調べてきました。最近は、大村以外でも西九州の戦国時代のことを調べています。 またなにかありましたらご鞭撻のほどよろしくお願いします。 それでは。