• ベストアンサー

クリスチャンの生い立ちや過去

私は、キリスト教プロテスタントの学校に通っているのですが、教師の中でクリスチャンの先生達はすごく尊敬できる方が多いと感じています。物の考えかたや、人間性が私にとっては良く感じられます。 また、先生以外にも教会の牧師や、学校で公演を開いてくださるクリスチャンの方に対してもそういう事が感じられるのですが、彼らの幼い頃や、人生はとても苦しいものや、辛いものが多いと気づいたのです。これは偏った見方なのでしょうか?人それぞれだとは思いますが、辛いとき、何かに頼りたい気持ちがキリスト教へいき、クリスチャンになるのでしょうか?回答お願いしますm(__)m

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ri-zyu
  • ベストアンサー率30% (184/611)
回答No.4

こんばんは。 私はクリスチャンではありませんが、ある本の中で宗教の本質を理解しよう思えば、のたうち回り、血反吐吐く、くらい苦しみそこから、蘇生して初めてわかるっと読んだ事があります、でないとどんなに真剣に学んでも本質はわからないと。 だから神父様も色々な苦労された方が多いのかもしれませんね。      反面、苦労されて人間としてだめになる場合もあるのでしょが。 どんな宗教に関わる(求める)にしても人間は心に問題を抱える(解決できそうに無い心の苦しみ)が、なければ、宗教の方には行かないでしょう。たとえば突然こちなは何一つ悪くないのに、交通事故遭い体が不自由なるとか、どうにもならない不条理・不条理に・不条理にに人は答えを求め(救いでも良いですが)宗教に向くと思います。 、

その他の回答 (3)

  • vincero
  • ベストアンサー率35% (28/80)
回答No.3

 人間の不完全さ、罪深さを理解できなければ、クリスチャンにはなれないでしょう。  人間の不完全さ、罪深さを理解して、神は本当に存在すると理解できた時、本物のクリスチャンになれるのです。  神の存在はあなたが存在しているという事実から、証明されていると同じです。存在とは何も無いところからは生じません。私達が存在したのは原因が存在するからです。無という存在はありません。有という存在があるから、私達は存在したのです。  有とは神のことです。仏教的な解釈ですと無を肯定しますが、現実に無が存在することはありえないのです。人間が素直になった時、神の存在に気づけるものです。  神の存在に気づいたところで、本当の神はどのようなお方なのかを知るには、イエスキリストの存在と言葉でしか理解できません。  神を否定してもイエスキリストの存在と言葉は否定できないのです。なぜならばイエスキリスト御自身が神だからです。  神は三位一体です。父と子と聖霊なる神です。聖霊とはいろいろな解釈がありますが、ここでは聖霊を言葉としましょう。言葉とは発する側と受ける側が存在しなければ、言葉そのものも存在できません。言葉の存在そのものが三位一体を理解させてくれるはずです。    現在、人間は聖霊からの言葉ではなく、誤った言葉を多く使っています。これは人間に罪があるからです。このことがなるほどと理解できた時、あなたは神を身近に感じられるようになるはずです。  自分の罪に気づき、その罪をイエスキリストにあがなって頂くために、教会へ行くのです。

  • horaemon
  • ベストアンサー率24% (457/1898)
回答No.2

私はクリスチャンではありませんが、クリスチャンと聞くと「三浦綾子」をすぐに思い出します。 読書が好きで彼女の「塩狩峠」という作品を読みましたが、その主人公のひたむきな生き方に感動を覚えました。 自分に与えられた試練を苦にせずに、人に与え続けた人生を思うとき、信仰の偉大さを感じずにはいられません。 三浦夫妻の生き様はまさにクリスチャンとしての清貧さを見せてくれました。 つらいから、苦しいからクリスチャンになる人もいるとは思いますが、クリスチャンであったから苦しさにも耐えられたのだと私は思います。 「三浦綾子」 http://www.n-seiryo.ac.jp/~usui/news2/miura/index.html 「塩狩峠」 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101162018/249-9210142-8381917?v=glance&n=465392 「道ありき」 http://www.amazon.co.jp/gp/product/4101162026/249-9210142-8381917?v=glance&n=465392

saitasoba
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私も、三浦綾子さんの「塩狩峠」を今読んでいたところです! 逆に言えば、「クリスチャンであったからこそ」ということになるのですね、そこに気づけませんでした…

  • aruminium
  • ベストアンサー率20% (141/703)
回答No.1

もともと親がクリスチャンの場合もありますよ ただ、キリスト教に限らず、人生に疑問を感じたときに、人は宗教に頼りたくなる場合が多くなるのでしょう。 それが良いのか、悪いのかは別として、身近に尊敬できる方が大勢いらっしゃるのはすばらしいことですね。 ご自身も頑張ってください

saitasoba
質問者

お礼

素早いご回答ありがとうございます。 確かに、キリスト教に限ってのことではないでしょうね。ありがとうございます(^_^)

関連するQ&A