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リアルを訪ねる方法
わたしは自然の背後には大精霊(The Great Spirit)-いのちの奔流-があってそれに対して人の一生なんてまったくの一瞬時のことであるにすぎないのに、それをじゅうじゅう承知のうえでなにかを、生きた証を、この世に創りたいと願う、哀しみに裏打ちされたひとの在りように対する共感、共鳴をいつまでも感じていたいし失いたくないのですがそれにはなにかをあるいは誰かを愛し続けないといけないのでしょうが持続的にそれを為しえないことにひとは(わたしは)二重の哀しみを背負っているような気がしたりします。 こんなことを書いていてもやがて現実に染まって精霊に対するアンテナを無くして、無知の人になってしまうのでしょうが。 そこで質問です。 人は語彙を獲得すればするほどその思考力が深められるのでしょうか? 言葉を多く知る人は物事の本質にそのことでより正確に焦点を当てることが容易になるのでしょうか?言葉を多く知りすぎることによりまた経験を多く積むことによりかえってリアルなものに対する感受性を費消してしまいがちな気がするのですが。本当の意味で知るためには素直なこころをできるだけそのうちに宿しまっすぐに見据える態度を保つことが必要だと想うのですが、いわばこどもの姿勢で、愛の観察眼で。でもこれを無意識のうちに体得するには火の出るような思考、経験、反復、反芻、失敗、成功、瞑想、絶望などが必要でもあるんですよね?多分。いわば上質なスープを得るための。生きるって子供に帰還するための訓練なんですかね?
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生物としてのヒトでなく、社会的な生き物としての人間は、教育によって確立されます。教育とは、リアル(存在するかどうか知りませんが)の世界を、言葉というナイフで解剖することを教わることです。 ナイフをすべて捨て去れば、人間はヒトにもどり、リアルの世界すら認識できなくなるでしょう。なぜなら、リアルの世界がある、というその考え方は、紛れもなく言葉によって記述されているからです。 先人が作り上げたナイフの中には、稀有な作品や、他者との語らいを助けるものや、がらくたのようなものが存在していて、まさに玉石混交です。 大切なことは、どのナイフが本当に必要なものであるかを常に自分自身で問い続けることです。
下の文章に補足です。 言葉の裏にどれだけ経験や体験があるかによって同じ言葉であっても 感じる印象が変わります。 たとえば「愛」 今「愛」という言葉を聞いていくつ意味なりイメージが湧いてきますか? これから数年の後、経験や感じたことの積み重ねによって自分にとっての言葉のイメージが変わってきたり、含まれる意味合いが多くなることでしょう。 語彙を獲得することも大切ですが、感じることによって言葉に命を吹き込むことも必要だと思います。 同じ哲学書を読んでも人それぞれ違う答えを導くかもしれません。 それはその人の体験が違うから、考え方が違うから、言葉に含まれる意味ないしイメージが違うから。 言葉を基本においている以上、本人がどれだけ言葉の意味を理解しているかが問題になるかと思います。 他者への理解だけでなく、思考のまとまりにも繋がるかと思います。 無駄に難解な単語を並べても本人の理解が及ばなければヘンテコな英語を喋って失笑されるのと変わらないと思うのですがいかがでしょうか? >生きるって子供に帰還するための訓練なんですかね? 成熟するためです。 帰るべきところへ帰るための気づきを体験するためだと思います。
>人は語彙を獲得すればするほどその思考力が深められるのでしょうか? 言葉は道具でしかありません。 道具をたくさん持っていたからといってスピリチュアル的に優れているとは思いません。 ですが感じたことを言葉で表現する考えるという行為に稚拙な言語は不向きです。 サンスクリットが瞑想状態や感覚的な状態を表すのにもっとも向いていると言われています。 向いているだけであってすべてを表現できるわけではありません。 私は感じたことがすべてであって言葉による定義づけ分類はある程度のレベルにいくと邪魔になると思っております。 どんなに優れた言語であってもそのものを表現しきることはできません。 近づくことができるだけです。 目の前にりんごが1個あったとして、それについて詳しく言葉で表現したとします。 本を何冊書いたとしても本を読んだ人がそのりんごを正確に表現できるでしょうか? 言葉だけで彫刻なり粘土でそのりんごを表現できるでしょうか? 言葉にたよらず感じた感覚を大切にした方がスピリチュアル的な成長には必要だと思います。 難しく考える必要はないと思います。 ただ目の前の物を見るそして感じる。瞑目し感じたままのそれを思い出す。 リアリティをもったそれに近づくこと。感じること。 言葉に頼らずただただそれを見るだけ。感じるだけです。 難しく考えるより物事が見えてくるかもしれません。
- tokytime
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>自然の背後には大精霊(The Great Spirit)-いのちの奔流-があって つまり偉大な霊的存在のことですね。 >それに対して人の一生なんてまったくの一瞬時のことであるにすぎないのに、それをじゅうじゅう承知・・・・ 私は人は輪廻転生すると思っていますので、人生は一瞬でも魂としての存在は永遠だと思っています。 ですから人は人としてよりも、魂(霊)としての方が本質だと思いますので、霊として未熟なうちは人としても愛を保つのが難しいですが、おっしゃるように >火の出るような思考、経験、反復、反芻、失敗、成功、瞑想、絶望など の経験を人生の中で積み、それによって霊的に向上し、大人の魂に成長することによって、ついには無条件で人を愛し、他者へ慈愛と慈悲を捧げ、心より尽くすことに人生の何にもまして喜びを感じる存在になるのだとおもいます。 この状態こそ至福の次元だとおもいます。 >二重の哀しみを背負っているような気がしたりします。 哀しいのは未熟な状態のときだけだと思います。 進化向上すれば、常に心を慈愛で満たした至福の状態になれるのですから。 >現実に染まって精霊に対するアンテナを無くして、無知の人になってしまうのでしょうが。・・ アンテナをなくすのも未熟なうちだけだと思います。 心が常に魂の本質にリンクするようになったとき、つまり、常に魂の次元からこの世を見つめ、この世を生きていくことが喜びの状態になった時にはもうアンテナが失われることは無いと思います。 なぜならばそのアンテナこそが魂の本質につながることの出来る唯一の手段だからです。 >人は語彙を獲得すればするほどその思考力が深められるのでしょうか? 言葉を多く知る人は物事の本質にそのことでより正確に焦点を当てることが容易になる・・・・・・ 語彙を多く獲得することとスピリットとつながる事は全く別だと思います。 自由自在に言葉と博学な知識を操りながら、結局述べている中身はスピリットからは程遠い、即物的で物質的享楽に満ちた唯物思想だった・・ということはよく有ります。 質問者様がおっしゃる以下のこと >本当の意味で知るためには素直なこころをできるだけそのうちに宿しまっすぐに見据える態度を保つことが必要だと想うのですが、いわばこどもの姿勢で、愛の観察眼で。 に全く賛成です。 このような心を持つには、敬虔さ、謙虚さ、何といってもスピリット的向上心が必要不可欠だと思います。 スピリットとつながった状態とは、子どものように純真な心でも、知的(魂的、霊的知性という意味)には遥かに進化した状態だと思います。 この二つの条件が必要なのではないでしょうか。 如何でしょうか?