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世の中が不平等なのは何故
世の中が不平等なのは一体なぜですか。 アイドルみたいに、顔が良くてスタイルがいい人は、大した悩みもなく好きな歌を歌ったりするだけで大金がどっさりはいってくる。 片や貧乏で高校に行くこともままならず、一生懸命家の為に働いても少しの稼ぎしかなく、借金や世間体など種々の悩みを抱えて辛い日々を送る人もいる。 食べたいものを食べ、嫌いなものは捨てる。水道を捻ればきれいな水が出て、水洗トイレも飲める水で流す国がある。 片や明日生きているかわからないほど衰弱しきって、何日も食べ物や飲み物を口にできない。泥水で体を洗い、衛生的にも不十分。病気にかかったら治す術もなく死んでいく国がある。 世の中を見渡せば、身近なところから世界的な規模まで数え切れないほどの不平等で溢れかえっている。この不平等に何の意味があるのでしょうか?哲学的観点で以って教えてください。
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- 4951snk
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人間は、結局差別や不平等を求めるところがある動物だと思います。例えば、あなたは差別心や優越感、劣等感の全くない人間でしょうか? >世の中を見渡せば、身近なところから世界的な規模まで数え切れないほどの不平等で溢れかえっている。この不平等に何の意味があるのでしょうか? 意味を言えとおっしゃるなら、人間は違う個性があるということの現われだと思います。一部例外を除けば、有能な人間がたくさんの報酬を得るのもそれです。 生まれた国の都合上、貧しい暮らしを余儀なくされている人は確かに気の毒です。我々は、彼らのことも考えつつ生きるのは大事です。 個性を完全に否定してまで平等を求めるのが良いのでしょうか?有能な人間が得をしない社会は、やがてみんな衰えていきます。 そして、一つ言わせて下さい。アイドルみたいな人だから大した悩みもないなんてどうして言えるんですか?彼女たちも影で努力を重ねていたりするものですし、大変な仕事だってあります。 ただ、あなたが不平等について真剣なお考えを持っているのは大変立派だと思います。私なら、それが世の中だよと完全に割り切ってしまいます。 質問者のおっしゃる不平等とは、「機会の不平等」についての方が、「結果の不平等」についての方よりウエートが大きいように思えます。私は、「結果の不平等」は仕方がないと思います。しかし、「機会の不平等」は解決すべきものですし、かなり解決可能なはずです。「勝ち組」「負け組」ルールもいいですが、「負け組」が這い上がれる機会を作るのは、社会のために大事な事です。
形而上学に意味があるかどうかというご質問ですが、意味がなければニヒリズムに陥るのではないですか。人間は自分の地平の遥か遠くを眺めずには要られない動物だと思いますよ。
お礼
たしかにそうなんですけど。どうやら、質問の本質が見えていらっしゃらない方が多いようで。回答ありがとうございました。
- Buddha1219
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世の中を見て不平等であると認知する人には、怒りと悲しみとがある。 かれは、それゆえに軋轢を生じ、争いの渦中に巻き込まれることとなる。 また、世の中を見て平等であると見なす人には、奢りと怠惰とがある。 かれは、見なしたそれによって確執をもたらし、あらぬ恨みをも買うこととなるであろう。 世の中を不平等であると認知する人にも、世の中を平等であると見なす人にも、拭い難き偏見がある。 かれらは、自己の見解に固執して、人と世の真実のすがたを実は見ていないのである。 かれらは、ひとしく煩悶と苦悩に苛まれることとなる。 しかしながら、ここなる人が聡明であって、志があり、世間のありさまを次のように見ることを得たならば、かれは自ら偏見を超え、人と世の真実を見たのである。 『ありのままに見るのではなく、誤って見るのではなく、見ないのではなく、見て見ぬ振りをするのでもない』 かれの目には、世の中は不平等とか平等とかの一方的立場に立脚して認知されるものとは映らず、その真実の実相が残り無く見えているのである。 それゆえに、かれは愚かな行為を犯すことがなく、行為する前にはこころ楽しく、行為している最中には心を清浄ならしめ、行為を為しおわってこころによろこばしく、そののちも後悔の念に苛まれることがない行為を為すに至る。 かれは、自らの心に問うていつわりなく、恥ずべき行為を為さない。 それゆえにかれの行為はつねに安寧に帰す。 こころある人は、世の中の何を見て、何を聞こうとも、そのことについての(一方的)断定を捨て、こだわりを離れて、しかしながらそれらを無視することなく、世の行為の顛末と帰趨とを見極め、他の人の行為はさておき、他ならぬ自らの行為をこそよく省みて、思いを落ちつけ、人と世の真実を知ろうと熱望すべきである。 それを為すならば、人はついに世の真実のありようを自ら識り明らめて、円かな安らぎに至ると期待され得るからである。 ことわりを聞いて、こころにうなずく明知の人は、自らによって自らの偏見を超えよ。 ***
お礼
ありがたいお言葉ありがとうございます。
- bo-suke
- ベストアンサー率23% (58/242)
不平等が必要悪だと言う考え方をして思考を終了する行為は私はどうにも納得できません。 世の中でどうにも人情を感じられない出来事が蔓延しているのに対して諦めろと発言している行為にしか聞こえないからです。 別の観点から不平等を見つめなおしましょう。 われわれが不平等を感じる時とは、どのようにして発生するのでしょうか。 他の方々が言うように、不平等が必要悪だったとして、例えば質問者さんが言ったような貧困が明らかな国とそうでない国の差が大きいのは目に見えています。これに憤らない人間などいるのでしょうか?これが以上だと感じない人間がいるのでしょうか?どんなに立派な哲学者でも、「これでいいのです」と口を割る人間だったら、その人間は立派な人間でしょうか? 仮にここに真に裕福かつそれに見合った立派な紳士がいて、その人間が目の前の貧困民が今日の飯にも困り助けを求めるのを見て、「世界の不平等は必要悪なのですよ。つつましく生きてくださいね。幸福をお祈りしています」なんて言うことができるのでしょうか。 もしその人が財に見合う立派さを持っているなら、そんなことは言わないはずです。 と言うことは彼はその器が無いのに財を得ていると言うことになります。 教師はどうでしょうか。学校でどんなにいじめがあっても、それを処理する能力がなくても、彼らは給料をもらいます。同じ分だけ。子供が他の子供とも呼べないような辛らつな台詞をはく子供に傷つけられていても何もできずにいる大人が目の前にいて、いじめられる人間はどう感じるでしょうか。どのようにしか感じられないでしょうか。 正当な理由をもって、平等を諦めろというのは簡単です。しかしそれを納得することがどれだけそれ以上に難しいことか。 こういった状況が出た時、人々は「不平等」を恨んで当然だと思います。そして上の人間が恨まれるのも仕方の無いことと言うことになります。 つまり、「不平等」を受容する人間は、「人の恨み」も受容しなければいけない立場にあると言うことです。 従って、「不平等だから諦めろ」と言う発言が一番人間の悟性能力に支障をきたすまでの異常な理論であるのに対し、「不平等に怒る、不平等をうらむ」と言うあり方が一番人間らしく、人間の悟性能力にぴったりとしている発言だと言うことができます。 つまり、いままでの回答に問題点があるとすれば、 「不平等」を人間の立場から発言していない 点に問題があると言うことが十分に可能でしょう。 それに関しては、「改善していくと良い」などの発言を添えている回答者もいらっしゃるようです。この人は、今二人の人間と言う動物が発言している事実を囲みこんでいる点で他の方より優秀な発言形式を得ています。「仕方が無いメカニズムがある」と言う発言をしている人間も冷静な判断としては正当な論理展開でしょう。相手を納得させるために言葉を発する努力が見えるからです。しかし、「それが平等だ」という言葉のみで他人を説得できると思っているはじめの人間の発言は、あまりにも無意味で、誤解と論争を招く種をまいているほどに稚拙です。 そしてこういった稚拙な文章を、相手が人間であることも理解せずに適当に解答欄に書くような人間がいることが、社会の不平等に対する憎しみを必要悪の分よりも不必要に増大させている根源だとも私は思えます。ちょうど最初の紳士の例を見れば何が言いたいのかは、優秀な真の「世界で実践する哲学者」ならわかることでしょう。 不平等が存在することは仕方の無いことだと私も考えます。しかしそれはあくまで神の視点からの発言です。人間の観点から見れば「それに対して怒り、自らの事態を打開させる原動力とする」権利は十分に持ち合わせています。 ですから質問者様の発言のほうが、回答者様の発言よりも、現実的な知性としてははるかに優秀だと私は考えます。
お礼
あなたも不平等の本当の恐ろしさを知っている人なんですね。平等化の動き(アパルトヘイトの撤廃など)があるのは良いことであると思います。回答ありがとうございました。
- baihu
- ベストアンサー率31% (114/357)
確かに納得できない不平等が存在しますし、是正すべきものも多いだろうと思います。 ただ、詭弁ではなく、まったくの同一が達成されない限り、差異というものはどこまでもあるもので、大きな差異があるときには小さな差異が目立たず、大きな格差が解消されたときにはその次に大きな格差が最大級に見えてくるものでしょう。 平社員同士で給料を比較したら、いろんな妬みや嫉みが出てきますが、役員の報酬を知ったとき、その差は見えなくなります。動物園のサル山の飼育員は、サルの顔を見て個体識別ができますが、お客さんはその違いを見分けられません。にきびひとつできただけで人生が終わったように悩むのは、肌の綺麗な人だからです。冬場に便座が温まっていないと文句を言うのは、日本人だからです。子供が無事に一歳の誕生日を迎えられたことを一族総出で祝い喜ぶのは、乳幼児死亡率の高い国に住んでいるからです。差異とは相対的なものなのです。 「どこまでの差を不平等と呼ぶのか」を決めずに「なぜ不平等なのか」を問うことに意味があるとは思えません。ご質問からはある種の怒りを感じますが、それが向かう先が「なぜ差があるのか」なのでしょうか。それなら私にとっては「絶好調だった先月の私」と「何をやっても気が滅入る今月の私」の“気分の差”が何より気懸かりです。挙げられた例の本質は、すべてこれと同じものです。 現実問題として着目すべきは、その差が開いていっているのか、均質化してきているのか、そういう動的な側面ではないでしょうか。
お礼
気分の差ですか。確かにそうも言えるでしょう。しかし現実には、目を覆わんばかりの事象が存在しています。気付けますか? アドバイスありがとうございました。
世の中が不平等なことに意味や理由はありません。 強いて言えば世界があるからでしょうか。不平等こそが世界を支えていると言えるでしょう。食物連鎖はその一例ではないでしょうか。 不平等に疑問を持つあなたでさえ不平等をつくるのに関与しているのです。 平等を求めることが不平等を助長させかねないのが世の中です。 どうでもいいことですが、客観的不平等って何のことですか?
お礼
>どうでもいいことですが、客観的不平等って何のことですか? どうでもいいならどうでもいいです。気になさらないでください。 回答ありがとうございました。
- 石崎 大望(@hir_o_mi)
- ベストアンサー率42% (46/109)
この世の中が不平等だということは誰もがわかるでしょう。 でも、平等とはどんな状態かがわからない。 それがこの問題の難しいところでしょう。 厳密に考えれば、この世に生起する事象事物にひとつとして同じものは無いわけです。 にもかかわらず、われわれが何かと何かを同じと見做すとき、 必ず抽象化が行われています。 同じ人間、同じ日本人、同じ故郷、同じ血族、 同じ色、同じ機種、同じ品種、同じDNA、 同じ考え、同じ感性、同じ夢、同じ笑いのツボ 違うものの中から共通の一要素を括り出して、 その一点を以って同じと見ます。 違いはあるわけです。 でもある一点を重視したとき、ほかの違いはさほど重要でなくなります。 ある違いに対して不平等というネガティブな意味づけを与えるか否かは、 価値観によって変わってきます。 だから、神に奉仕することを第一義とする人は、金銭の多寡を問題にしないのでしょう。 それを批判することはできません。 ただ他の人には他の人の価値観があり、他の観点から平等不平等を定義しています。 私たちは、人生の意味、いかに生きるかについて異なる見解を持っているので、 実際のところ、何を以って不平等と考えているかは、人それぞれ違うと思うのです。 私たちが最も不平等だと思うポイント、それは恐らく、 私たちが最も大切にしたいことの裏返しか、 私たちが最もとらわれてしまっている事なのでしょう。 そういう観点から見つめたとき、 私にとっての「不平等」は、自分をより深くみつめる良い手がかりになります。 あなたの人生の中で、世界に意味を与えていくのはあなたです。 あなたの人生の中で、 どれが初恋なのか、 どのひとが親友なのか、 愛するとはどういうことか 何が趣味なのか とか、迷ったことはありませんか? 結局自分で決めたでしょう? 人生の意味も同じ。 不平等の意味も。 ご自分で、意味を与えてください。 でも、ほんとうはただ現象があり、違いがあるだけです。 意味づけするのはあなたです。 どのように意味づけするか、 そこに今のあなたの価値観が問われ、人格が問われ、感性が問われ、 つまりすべてが問われます。 ですから、あなたの問いに、問いで答えたいと思います。 あなたにとって、なくしたい不平等は何でしょう? そこであなたは、どうしたいのでしょう? できれば、一生問い続けてください。 それが哲学だと私は思います。
お礼
あなたは幸せですね。見習いたい。回答ありがとうございました。
- hakobulu
- ベストアンサー率46% (1655/3578)
◇ 本質的に、不平等というのは一種の現象と言っていいのではないでしょうか。 平等なものなどは無いし、「平等」という認識ができる人間が複数いる場所においては必ず「不平等」は存在する、といったような意味です。 たとえば同じ日本国内においても不平等の概念は成立するでしょうし、さらに狭い地域における不平等、一つの学校内における不平等、ひとつの家庭内での不平等、そこで飼っている犬に対する接し方における不平等、etc. ですから、「>哲学的観点」かどうか自信はありませんが、 「>世の中が不平等なのは一体なぜですか。」 に対する直接の回答としては、 「人間が画一的なロボットではなくそれぞれの【個】として存在する以上、平等であることの方が摂理的に難しい、あるいは不可能だから」ということになろうかと思います。 ◇ とはいえ、tuort_sigさんの本意は「その格差を埋めることに関してこれほど無関心な人が多いのはなぜか」ということのように行間から感じます。 (違っていたら申し訳ありません) この点に関して少し述べてみれば、これは人間が相対的価値観によってアイデンティティを確立しようとする傾向が強いからではないかと思います。 「他者あっての私」というわけです。 自分が存在するためには必ず比較すべき対象を必要とすることになるので、(先に述べたように決して平等ではありえない)他者の存在が必須となります。 この時点で、客観的に見れば不平等は自己が存在するための前提条件になっているとさえ言って差し支えないように思われます。 すなわち、不平等を無くそうとすること自体が、そういったゆとりを持てるという意味において不平等であるという論も成立するのではないかということです。 なぜなら、他者を救うということは何にもまさる快感という視点があったとしても決して不思議ではないからです。 ◇ 結局、不平等か否かが問題なのではなくて、そのような状況に対して『どのような姿勢(思想・行動に拘わらず)で臨んでいるのか』という、人間性に対する認識の問題になってくるように思います。 自分を犠牲にしてまで不平等を無くそうとする人は、そのこと自体が不平等を醸成していることになり単なる自己満足に過ぎないと言えるでしょう。 一方、より多くの人々に対して不平等の解消を実現できる力を持っていながらそれに気付かず自己保身、または極めて限定された範囲の仲間の保身にのみ汲々とする人々もいます。 このような人たちは、自らの人間としての可能性を自ら狭めてしまっているという点において、ある意味非常に愚かな存在であるという見方も可能かもしれません。
お礼
なるほど。いろいろな見方がありますね。回答ありがとうございました。
- anima-mundi
- ベストアンサー率37% (23/62)
世の中を平等にしようと言う運動が共産主義です。でも,平等のおかげで,誰も働かなくなったり,平等に権利も剥奪されているので不自由極まりありませんでした。平等を手にすれば,権利を剥奪されてもかまわない,と言うのが共産主義者や社会主義者の考えです。 平等には,大きく分けると二つの平等があります。それは,機会の平等と結果の平等です。 ・機会の平等 → 法の前の平等 → 自由主義市場経済 → 結果の不平等 ・結果の平等 → 縦の平等 → 封建主義身分社会 → 機会の不平等 官僚主導業界協調 → 横の平等 → 福祉主義大きな政府 → 努力の不平等 (所得の平等) 国家主義統制社会 → 権力の不平等 (消費の平等) 社会主義計画経済 → 権力の不平等 (財産の平等) 毛沢東主義文化大革命 → 文明の破壊 (絶対平等) 何かしらを平等にするには,何かを犠牲にしなければならないようです。自由を得るためには,権利と義務が必要なように。 日本はこれまで護送船団方式とか,悪平等だとか言われてきました。社長と平社員の給料の差もアメリカに比べて非常に小さく抑えられてきました。 しかし,大競争時代になり,それではいかんという事で,横並び意識を捨てて,官僚による規制も取りましょうってことになった。小さな商店街が廃れて,大きなショッピングモールができたのもそのおかげです。時代によって求められる平等が変わるようですね。
お礼
アドバイスありがとうございます。自由と平等が共存できないことはわかります。しかし、理想は自由と平等の共存ですよね。
- yoyos
- ベストアンサー率20% (76/372)
うーん、とても深い質問ですね。哲学的な人間ではありませんが、自分なりにちょっと考えてみました。 均一でない、ということが不平等とは言えないと思います。世界は元々多様な物です。 仮に境遇の平等不平等はあったとしても、幸福に関しては、必ずしも不平等ではないと思います。 (お金があっても不幸な人は多いものです。豪邸に住んでいても、家庭はいがみ合い、愛のない生活ってこともあります。すべてが思い通りに行くということではありません。また悩みがなさそうに見えて、アイドルだって華やかさの裏では、嫌な仕事だってやらざるを得ない。自分の時間もなく、睡眠も満足にとれない。生活は荒れていて、末路は悲惨だったりします。有名さ故に不自由もある。もてる人は、嫌いな人も寄ってくるし、好きな人が好きになってくれるとは限らない。そんなもんです。幸せであるかどうかは、必ずしもお金と比例はしません。愛情や友情も、お金とは無縁です。お金があれば人は寄ってきますが、それはお金に惹かれているだけで、その人に惹かれているわけではないし・・・。金の切れ目は、縁の切れ目で、誰も残らなくなります。) お金がなければ思い通りにならない・・と思うのは、幻想のような気もします。お金があっても無理な物は無理。私は10-20年前は若くてきれいだった(?)けど、今ではすっかりおばさんになってしまいました。 そして、死は平等に訪れます。 比較することを知ったために、「不平等」という観念が生まれたのかもしれません。 それがかえって人を不幸にしているのかもしれない。 隣の人、隣の国の方が裕福だとか・・。(現象世界のことは、あくまで相対的な事象なので、不平等に見えたとしても、それさえ一定ではなく、すべては変化してゆきます) 幸せであるかどうかは本人の主観の問題です。 洋の東西を問わず、時代を問わないものでしょうね。 ブータンが最貧国だからといって、皆が不幸というわけではない。昔の何もない時代だからといって、不幸ではかなったと思います。身分制度もあったり平等ではないかもしれませんが、不幸ではない。 つまり、お金があるとか貧乏であるというのは、幸福の尺度とは別な物だと思います。環境が恵まれているかどうかは、確かに一定ではないのでそれを平等でないと言うかも知れませんが、不幸とは限らない。 形ある物は必ず滅する。限られた時間の中に存在してるわけですよね。そう考えれば、量の多少はそれほど大きな問題ではないように思います。遅かれ早かれどうせすべてを失うのです。それはあらゆるものにとっては平等ですよね。 不平等だという視点は、その意味ではあまり意味を為さないかもしれません。 不平等というのは、人が創り出した、単なる観念に過ぎないのだと思います。 残念ながらこの相対的な世界では確かな物など存在していません。 そんな限られた中で、人と比較することによって、不幸になる。ないものを渇望することで、絶望感を味わう。ただ「足るを知る」べきなのかも。 ついでながら、不平等な環境になぜ生まれるのか・・・(皆さん運という言葉を使われていますが)、それはひょっとしたらカルマなのかもれしませんね。輪廻というのがあるとすれば・・・の話ですが。
お礼
回答ありがとうございます。お金があって困ることは絶対に無いはずです。なくて困ることは山ほどあります。
お礼
>一部例外を除けば、 その例外は平等と言えますか? >我々は、彼らのことも考えつつ生きるのは大事です。 大事ですかね?考えたところで彼らが豊かになりますかね? >個性を完全に否定してまで平等を求めるのが良いのでしょうか?有能な人間が得をしない社会は、やがてみんな衰えていきます。 個性を完全に否定する?なぜ?別に否定しなくてもいいですけど。有能な人間とは何ですか?ホリエモンですか?真に有能とは、得を欲することではなく、損を無くす努力ができる人ではないでしょうか。 >アイドルみたいな人だから大した悩みもないなんてどうして言えるんですか? いえいえ、アイドルなどは、努力への対価が大きすぎると言いたいのです。努力はしているでしょうけど、庶民が血を流す思いで働き、過労で死にゆくほどなのに稼げる額は僅かです。努力と対価の比率が開きすぎている事実。それを不平等という。 回答ありがとうございました。