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夏目漱石は森鴎外をどう思っていたか。

お世話になります。 森鴎外と夏目漱石、ともに日本を代表する作家です。 森鴎外のいくつかの小説には、夏目漱石の名前もしくは夏目漱石をモデルにしたと思われる人物が出て来て、森鴎外が夏目漱石を一目置いていた事が分かるのですが、逆に夏目漱石は森鴎外の事をどう思っていたのでしょうか?2人の間には交流はあったのでしょうか? そのような事が分かる本などは有るのでしょうか? 宜しくお願い致します。

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回答No.4

まず、漱石と鴎外では、実際の年齢に五歳、差があります。 しかも、漱石が執筆活動に入った時期、鴎外はすでに押しも押されもせぬ大家の位置にあったことを、まず押さえておくべきでしょう。 漱石は明治二十四年、帝大の学生だった当時、正岡子規宛に以下のような内容の手紙を書いています。 -------- 鴎外の作ほめ候とて図らずも大兄の怒りを惹き、申訳も無之(これなく)、是(これ)も小子嗜好の下等な故と只管慚愧致居候(ひたすらざんきいたしをりそうろう)。元来同人の作は僅かに二短篇を見たる迄にて、全体を窺ふ事かたく候得共(そうらえども)、当世の文人中にては先づ一角ある者と存居(ぞんじおり)候ひし、試みに彼が作を評し候はんに、結構を泰西に得、思想を其学問に得、行文(こうぶん)は漢文に胚胎して和俗を混淆したる者と存候。右等の諸分子相聚(あつま)つて、小子の目には一種沈鬱奇雅の特色ある様に思はれ候。(八月二十三日付け:引用は江藤淳『漱石とその時代』第一部から) -------- 鴎外は明治二十三年一月、『舞姫』を、同年八月『うたかたの記』、明治二十四年一月に『文づかひ』を発表しています。 後の漱石、当時はまだ金之助であった彼が読んだ「二短篇」がなんであったかは明らかではありませんが、この冒頭から、二作品を読んで高く評価した漱石に対して、子規が、それはおかしい、と反論した背景があったことがうかがえます。 江藤淳は『漱石とその時代(第一部)』(新潮全書)のなかで、鴎外の作品は、前年に帝大の英文科に入学してからの漱石の状況を考えながら、この手紙を以下のように解釈しています。 -----(p.202から引用)----- 「洋書に心酔」し、しかもそれを意志的・知的に理解しようと努力するうちに、いつの間にか虐待されつづけていた金之助の感受性を覚醒させずにはおかないものであった。つまり鴎外の小説の「結構は泰西」に仰がれていたが、そこにはまごうかたなき旧い日本――金之助が英文学専攻を決意して以来置き去りにして来た「日本」があったのである。 ……『舞姫』に描かれた才子佳人の恋は、舞台こそ独都ベルリンに求められていたが、ほかならぬ晋唐小説の伝統を「文明開化」の時代に復活させた恋である。金之助が鴎外の「二短篇」に見たものは、いわば崩壊しつつある旧い世界像の残照であった。その光を浴びた彼の衝撃がいかに深かったかということは、のちに金之助が英国留学から帰国して発表した小説、『幻影の盾』と『薤露行』に痕跡をとどめている。この二短篇の雅文体の背後には、ほぼ確実に『舞姫』や『文づかひ』の鴎外がいる ------ つまり、漱石が英文学の研究から執筆活動へと移っていったのも、鴎外の存在があったことが、理由の一つであったと考えることができます。 後年、両者はそれぞれに、当時の文壇から離れた場所で、それぞれに仕事をするようになります。 このことを中村光夫はこのように指摘しています(『中村光夫全集』第三巻)。ここで「彼等」というのは、漱石と鴎外の両者を指しています。 -----「鴎外と漱石」p.160----- おそらく彼等が表面冷やかな無関心を装ひながら内心激しい憤怒に燃えてゐたのは当時の文壇といふやうな狭い世界ではなく、むしろこの文壇をひとつの象徴とする或る社会風潮であつた。いはば彼等の誇り高い教養と抜群の見識とは、当時の我国民が無意識のうちに徐々に陥つて行つた或る根深い精神の頽廃を鋭く直観した。そしてこの抗ひ難い社会の風潮に対して勝つ見込のない敵意を燃やしてゐた。… では彼等がここで生涯を賭して闘つた敵は何かと云へば、それは一口に云つて、近代欧米文明の一面的な輸入の結果たる所謂文明開化の時潮であったと僕は信じてゐる。…明治大正を通じて我国が存立の必要から強ひられて来た欧州文明の物質的側面の急激な輸入と、その結果として我国民の精神の深所に徐々に食ひ入つた或る微妙な歪みを指すのである。 ------- 当時のふたりがなぜ交友をもたなかったのかは、さまざまな事情があったことと思います。 なによりも、漱石が専業作家として活動したのは、わずか十年であったことを忘れてはなりません。成熟するまでに時間がかかり、一人前になってからわずかな時間しか与えられなかった漱石は、自分の生命を削り取って作品に結実させていった、といっても過言ではありません。 二葉亭四迷没後、一時期は同じ職場に籍を置きながら、実質的には交遊がなかった二葉亭に対して、『長谷川君と余』(『思い出す事など』所収 岩波文庫)のように、実に心情にあふれた追悼文を残した漱石ですから、たとえば鴎外が自分より先に亡くなってでもいたら、間違いなく、何らかの追悼文を残したでしょう。 こういう位置にあった鴎外と漱石が、たとえ表面的には交遊がなかったにせよ、互いに反目したり、あるいは嫉妬したり、排斥したりということは、非常に考えにくいと思います。 漱石の弟子宛ての書簡にも、鴎外の名は散見されます。 ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。

noname#129333
質問者

お礼

詳しく、かつ分かりやすい説明、ありがとうございます。漱石の正岡子規宛の手紙はとても興味深いです。奇遇ですが、私は最近「幻影の盾」を読みまして、鴎外の「舞姫」「うたかたの記」「文づかひ」を思い出していました。(私はこれら鴎外の3作品、とても好きです) >つまり、漱石が英文学の研究から執筆活動へと移っていったのも、鴎外の存在があったことが、理由の一つであったと考えることができます。 やはりそうなんですね。 >ともに意識のうちにあったのは、日本や日本の文化の行く末であったことを考えると、互いに深い敬意を抱いていたと理解してかまわないかと思います。 なるほどと思います。 「漱石とその時代」「中村光夫全集」読んでみたいと思います。ありがとうございました。

その他の回答 (3)

回答No.3

鴎外と漱石がお互いをどのように思っていたのかは定かではありません。 しかし、基本的な面で正反対の文学界の両巨頭は、胸中では互いに排斥していたのではないかと思われます。 ★鴎外の基本的な特徴は、保守的エリートの地位を道徳的に弁護し肯定したことにあります。この特徴は、同時代の四迷、一葉、漱石と対照的なものです。   ★漱石は下層の人間が得る果実を知りませんでした。彼はエリートとして、エリートやブルジョアの得る富や地位の力に反発し、それを拒否することを精神的な価値と考えていたのです。 その上で、その道徳的な批判意識が無力であることを具体的に認識し、そのことを通じて日本的なエリートの本質をとらえる事が、漱石のエリートらしい果実となったのです。 ★鴎外は、エリートとして非難される側面を道徳的に弁護した点で漱石とまったく逆の立場にありまし。二人がともに文豪と称されるのもそのためでもあるのです。 ★明治の日本が西欧諸国に追いつくためには、発展を担う人材の育成が急務であり、人材は少なく貴重であったために、一方で実質的に発展を担う優秀な人材を生み出すとともに、他方では、そのエリートの特権的な地位によって堕落する人材をも多数生み出したのです。 ★鴎外はこのエリート内部の対立のなかで生じる日常生活での瑣末な不満を表明し、また瑣末な批判に対して自己を弁護したのです。エリートやブルジョアは上からの改革を担う積極的な力をもっていたが、鴎外はその役割を担うことなく、その役割に対立しつつ、エリート内部で生ずる道徳的な批判から自分の地位と名誉を守るための独自の道徳的な精神をまとめあげました。 ★漱石と鴎外の両文豪に見られる対立関係は基本的には明治の必然の反映であり、大正時代には鴎外は自分の使命を終えています。 ★漱石は明治の精神の終焉を客観化して描写し、新しい精神を形成するにいたりましたが、鴎外にはそれはできず、過去の歴史的な実証的な世界に住処を求めたのです。

noname#129333
質問者

お礼

詳しい説明ありがとうございます。鴎外、漱石について分かっていなかった事を知ることが出来、勉強になりました。小説を読んでも、両者には正反対の部分があると感じていました。これをもとに、さらに鴎外、漱石の作品を読み進めていきたいです。

  • gbrokk
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回答No.2

二人は音楽会などで余所目で見た程度でしょう、正式に出会った事は無い筈です 漱石も森鴎外を尊敬して朝日新聞の用事で手紙を貰った時にはわざわざ日記に大書しているほどです 時の文学界を代表する大作家二人はお互いに尊敬しあっていた事は漱石の伝記に出ています 当時日本の文壇を独占していた自然主義の陣営から二人は疎外されていたので余計に親しみを感じていたのでは無いでしょうか

noname#129333
質問者

お礼

ありがとうございます。漱石は鴎外から手紙を貰っていたのですか。その日記というのは書店などで手に入るものなのでしょうか?また、互いに尊敬しあっていたと書かれている漱石の伝記を教えていただけないでしょうか?

  • russy1
  • ベストアンサー率11% (20/178)
回答No.1

興味深い質問だと思います。二人とも当時のエリートであったはずですが、ある意味では正反対のところがあったと重います。鴎外は自分の存在に関する疑問を全く持っていなかったと思います。一方漱石は自分の存在に関して常人以上の不安を抱いていたようです。鴎外が求めていたのは社会的名声だけだったと思います。ただ彼は虚名でなく裏づけのある名声を求めていたと思います。一方漱石は鴎外の学識以上のものを持っているという自負と共にその様な学識は自分の存在に対する懐疑を全く解決してくれないことをよく知っていたので鴎外の存在などは問題にしていなかったと思います。これは素人の想像です。

noname#129333
質問者

お礼

ありがとうございます。私も2人は正反対の部分があると感じていました。でも、鴎外が求めていたのは社会的名声だけだったとありますが、本当にそうなのでしょうか?また、漱石は鴎外の存在など問題にしていなかったのでしょうか?両者がお互いにどう思っていたのかが書かれていたものは以外に少ないですね。

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