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江戸時代の(上層階級の)食事と脚気治療について

よろしくおねがいします。 昨日、TVで将軍家茂や皇女和宮が脚気で死亡したということが流れていました。 ウィキペディアなどで調べると、江戸病とも言われ、白米を多く食べる都市部で多くおこる病気であったそうですが、この「白米を多く食べる人がなった」という知識は、後年ビタミンB1の欠乏症ということが明らかになってからのものでしょうか? B1という特定物質が原因であることを江戸の人が分からないのは当然として、「病気は栄養不足が原因」、「病人には栄養をとくに考えて食事を与える」という至極当たり前のことは考えつかなかったのでしょうか? 脚気が発症しても、病人に対して、様々な食材を与えるようにすれば、現在の私達とそう変わらない食環境になっていき、死に至ることはないようにも思いますが、相変わらず白米ばかり食べていて、病人に必要な様々な食材のものを食べさせるということは、江戸や明治初期にはなかったのでしょうか? 将軍や皇女ともなれば、おかずも多いと思ってましたからビタミンの不足分はその他のもので補えるのでは?と思ったのですが、欠乏症で死んでしまうほどの食事だったのでしょうか?

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  • Bird1979
  • ベストアンサー率48% (114/236)
回答No.1

こんにちは 脚気の原因は、主にVB1不足があげられますが、動物性タンパク質の不足、偏食などもその要因としてあげられますね。 皇族の食事はよくわかりませんが、将軍、大名クラスの食事でも「一汁三菜」が基本で、かなり質素なものでした。 五代将軍綱吉の寵愛をうけて権勢をふるった柳沢吉保にしても、「朝は一汁三菜、夕御前は一汁五菜、御夜食は一汁三菜、朝夕共に随分軽き品被召上候」ということです。 したがって、空腹を満たすためには「米飯」を多く食すことになるわけで(当時の基準が成人1日五合)、元禄期ころから精米食が普及すると、いきおいB1不足になりますね(綱吉も脚気になります)。特に、白米を多く食する上級武士には多かったみたいです。ですから、皇族も同じではなかったかと。 江戸時代には、病気と栄養不足の因果関係はわかっていなかった、と思います。病人に滋養のあるものを与える、という考えはあっても「予防医学」という考えは、なかったのではないでしょうか。 明治に入ってからも軍隊で脚気が流行りますが(兵の20%ちかく)、陸軍では環境激変によるものと考え、「治療」としては転地療法をとっていたようです。 海軍では「食改善」(パン食、米麦混合)を採用し、脚気の激減に成功します。(陸軍は日露戦争で兵の半分が脚気に罹るという事態に到り、ようやく明治38年に米麦混合色を採用) 明治41年に、「臨時脚気病調査会」が鳴り物入りで発足しても、「細菌説」が有力でした。明治43年には、鈴木梅太郎が米糠からVB1を抽出しますが、この不足が脚気の原因として認められたのは、大正14年のことです。 横道にそれすぎた嫌いがありますが、ご参考までに。

noname#20467
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 将軍といえども、想像以上に質素ですね。。もっと野菜がいるとか、慢性的に栄養素が不足しているのにそういう認識自体がなかったというわけですね。

その他の回答 (2)

  • ss79
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回答No.3

江戸時代、白米食が普及しましたが、純白のような精米を行ったものが良しとされました。 これは牢屋などに収容された罪人に「もっそう飯」というあまり精白していない米飯を支給していたのでいわゆる悪事を働くと「臭い飯」を喰うという言葉で表現されるようになったのです。 従って精白されていない米は社会的に底辺の人の食べ物という認識が生まれました。 この為、上流階級では当然精白米を使用する事と、当時の風習から栄養のバランスが失われる事になりました。 将軍の食事では式日以外豪華ではなく、鯛の焼き物が出ても一箸つけると、すぐに取り下げ、十分食す事は出来なかったといわれます。 現在の私達のように骨だけ残すような食べ方はたしなみとして不可能だったのです。 皇女の場合も同様、お腹一杯になることはない万年栄養不足の食事だったと思います。 この習慣は明治以降も残り、陸軍は精白米を兵食に採用しましたが、これは貧しい農村出身の兵士が軍隊に入れば白い飯が食えると歓迎し、海軍のように麦入りの飯を採用することを嫌がったという事情もありました。 この為、海軍では殆ど脚気患者は発生しなかったのに陸軍では2万名以上の脚気患者が発生したと言います。 脚気が主にビタミンB1の不足に起因すると明らかにされたのは明治も終わりのことです。

noname#20467
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 歴史的な事実に対して、こんなことを思うのもどうかと思うのですが、結局、満足行くまで食べられないなんて気の毒ですねえ。 「身分が高いのだから食べられる」ではなくて、 「身分が高いからこそ、食べられない」という面があったというわけですね。 全く認識してないわけでもありませんでしたが、 それにしても徹底していたわけですね。

  • 6dou_rinne
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回答No.2

江戸時代といっても皇族と将軍家では食事にも違いがあります。 ただ、どちらにしても庶民と違ってコメはきれいに精米しており、おかずも生野菜は膾くらいでしたのでどうしても水溶性で熱に弱いのビタミンはそんなにたくさんとれませんでした。 果物類も皇族や将軍家などでは見るだけで食べないものの方が多かったようです。 また将軍家の場合はどちらかというとたんぱく質の多い食事だったようです。 とはいっても、上流階級の食事では出されたものをすべて食べるわけではなく、箸さえつけなければ残してもよいということになっていましたから実際にはたんぱく質過多になることはなかったであろうといわれています。

noname#20467
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >果物類も皇族や将軍家などでは見るだけで食べないものの方が多かったようです。 せっかくあるのだから食べようよ、というのは現代的な(彼らから見れば、下品・賤しいげな?)考え方なのでしょうか・・。 それなりに食事の重要性を、認識している医者もいたとは思いますけども、それが社会的な常識にはならかったということなのかもしれませんね。

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