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マルコポーロの正体とは?
世界史の中ではあまりにも有名人ですが、その出自や人物像については知られていません。彼が細かく写実した人物からあってしかるべき彼自身に対する写実が全くないというのも不思議です。マルコポーロのものとされる著述は実は多くの人間によるコラボレーションであり、あまりにも凡庸なその名はそれらの象徴に過ぎないのでは、との説に触れてからかなり時間がたっています。 現在では相当研究が進んでいると思うのですがどうなのでしょうか。
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マルコポーロが世に知られるようになった経緯を見れば批判的意見が出ても当然です。一介の商人の息子が たまたま元の国に達し、帰国後牢屋で話したことを書き取る人がいたが、その内容を信じる人はいなかった。未だ印刷機が発明される前なのですべて書き写しでコピーが作られたので、有名人でもない商人の物語が普及するはずもなくやがて忘れ去られ再発掘されたのは100年以上後のことでしょう。この間に集まった新しい情報がマルコ・ポーロ以外の人によって書き足されたことも十分想像できます。 異国を旅した人が政治経済、民俗すべてにわたって書き残すとは限りません。これは情報が溢れる現代でも 同じです。ある人は食べ物や衣服、日常の習慣について書いても政治経済には一言も触れない場合もあります。 元の公式記録に遅れた西の国からやってきた大勢の 外人の臨時職員の記録が残らなくても不思議ではありません。マルコーポーロにとって驚くような経験は 現地の人々にとっては日常の出来事だったかも知れません。マルコポーロの記録の価値は狭い世界に暮らしていた当時のヨーロッパ人にとってのものであり、 彼の記録に少しほら話や自慢話があっても、元側の 関知することではないでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AD 無名の商人が残した本の内容の真実がどうかよりも、 その後200年間、ポルトガルやスペインによるアジア到達までこれに勝る報告がなかったということが重要だと思います。
- onbase koubou(@onbase)
- ベストアンサー率38% (1995/5206)
「写実した人物」というのが意味がよくわかりません。 「写実」というのは「実物を忠実に写すこと」という意味ですが.....「マルコポーロについて正確かつ詳細な記録を残した人」という意味でしょうか? マルコポーロは「東方見聞録」によって著名になったので彼自身が生前から著名であったと断定はできないでしょう。また、「東方見聞録」は読み物だったでしょうから「同時代の著名人により記録されていない」ことがマルコポーロの存在そのものを否定する根拠とはならないとは思います。
お礼
ご指摘ありがとうございました。どうやら質問のやり方を間違えたようでいずれ私なりに調べた上でもう一度質問したいと思います。
お礼
高校の世界史の時に一度関連するトピックに触れたことがありますが、確かに出自や人物像までわかってはいないということはなかったようですね。質問直後に気がついて回答はつかないだろう、後で削除しようととたかをくくっていたのですが、さすがに厳しい指摘をいただきましたね。ひょっとしたらイスラム世界からの軍事的圧迫を受けていたヨーロッパ世界の「プレスタージョン」に対する妄想的希望が新興モンゴル帝国への強い興味となったのかもしれません。ネストリア派のキリスト教徒がモンゴルの官僚の中にいたのは大変興味深い話ですが。 いったいマルコポーロは本当はどこまで行ったのか、行ってないとすれば誰からもたらされた情報だったのか、各国語に翻訳された東方見聞録の内容の微妙な違いの理由などがわかれば楽しいかな、と思ったのですがこのサイトではいったん攻撃的な回答をもらうともはや、前向きな回答はもらえないので質問は締めます。 ところで私はネット上のサイトで検索して出てくる情報は知るためのきっかけにしか過ぎないと思っております。こういう話になると活字の世界には絶対にかなわないのがネットの世界でして、誰かが載せた感想や根拠のない情報に全面的に頼るのはきわめて危険であり、活字の世界では少なくとも物事の論理的筋道を読んでいる者がたどることができるボリュームと深さと出典となった先人の著述によって再構築できると思います。 どのあたりまで研究が進んでいるのかふと気になって質問しましたが、なんにしろ馬鹿な質問を致しまして申し訳ありませんでした。多言語におよぶ高い見識を始めとするmartinbuho先生の今後のご活躍を陰ながら応援させていただきます。マルコポーロの研究の到達点に関しては私なりにつっこんで調べてみる事にします。彼がもたらした系統だったストーリーと彼の振るまいの間にギャップがあるような気がします。チコブラーエの仕事を発展させたニュートンのような立場の人間がいたのかもしれないと考えると教務深いのですがね。