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自分以外の人間は、存在するのでしょうか?

 幼いころからこの疑問を常に抱いています。   言葉で表現するのは、難しいですが自分の顔は、自分で見ることができません。このことから自分の目は、自分のものであり内側から見ているイコール自分は、存在すると認識できるのですが、自分以外の人は、本当に存在するのでしょうか?    たとえば、それは青いというのは自分の脳が青色に見せているものだと聞いたことがあります。実際に、自分以外の他人は、人間のようにみえるように脳が映し出しているのかとも思います。また、こうして質問を書き込んでいる最中に後ろを見ることはできません。自分の後ろには、本当に世界は存在しているのでしょうか?    このことに対する答えは、ないと思います。ですが、少しでも私が楽に考えることができるヒントを教えてくださるかたがいらしましたら教えてください。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.15

他者が存在するかどうかということは、(1)自分以外に存在一般は成り立つのか、(2)自分以外に精神は存在しえるのかという二つの問いに分けてアプローチできます。これに関して何がしか示唆できるかもしれないことを他の質問に関して書きましたので、ここにほぼそのまま写し、私の提案する一つの可能性とさせていただきます。  「ものそれ自体」というのは存在するのかというのは、哲学史上何度も論じられてきた古い問題ですが、私はこれに、「証明は不可能」とやや折衷的に回答します。  存在について語るには存在をいかに認識するかという問題を避けるわけにはいきません。そこで考えてみたところ、私たちは五感をなしにものの存在は認識できません。仮に私が神経が極度に衰退する病気になり、五感すべてを失ったとします。このとき自分の外に存在を認識できるかというと、恐らく不可能でしょう。ゆえに存在の認識には五感が不可欠だと考えられます。  次に五感によっていかに存在を把握するかですが、直接的に最初の経験で把握することは出来ないと思われます。私の目に映る風景は、それ自体で考えるなら、無数の色が散りばめられた一つの絵に過ぎません。ゆえに視覚による経験はリアルタイムに変更はなされていくものの、その一瞬においては単一な経験だと捉えられます。この事情は他の感覚においても同様であることは、日常の経験を反省してみても確かめられると思います。  ではいかにそこに個物としての存在を認めているかといえば、差異を頼りにした分化によると思われます。例えば色がまったく同一か、いかなる飛躍もなく連続的に変化している面は、私たちには一つの面だと思われる、ということを考えるとわかりやすいかと思われます。そしてそのような差異の分布から、私たちは各々の感覚による地図のようなものを組み立てます。私とどのような位置関係にどのような差異があるかを把握するわけです。差異は一つでも存在を推定する根拠たりえますが、経験上結びつきえるいくつかの感覚による差異が同一の場所に現れたとき(このような地図の重なり合ったもの、あるいは総体的な地図群を私はその主体にとっての世界と呼びます)、その存在可能性はいっそう高まります。けれども最終的には存在していて欲しいという私たちの願いが、私たちにとって存在を存在たらしめます。  このように考えれば、ものそれ自体があるから私たちはそれを見たりするというより、むしろ逆の順に存在の認識はなされているものと考えられ、最も高いレベルの存在の明証性は私たちの信仰にのみ存すると考えられます。  こうした立場からすると、自分が持っている「心」以外の「心」を想定することは困難に思われます。それは感知し得ないからです。けれど、「心」の定義を少し変更したのなら、それは上の信仰を持つ者にとっては明確に存在する原理になります。  単に存在の認識を考えただけでは、認識されたものがなぜそのように認識されたのかがわからず、そうであったからそうなのだとしか言えません。けれど存在を信仰する立場からは、ある存在がそのようであり、そのように差異を統合し、私の世界に差異を作り、変更していく原理は、その存在そのものに求められます。それを私は「心」と呼びます。  一般的な「心」も「目は口ほどにものを言う」などといわれてるほど、他者に語りかけるものであったことを考えると、私の「心」もさほど食い違う考えではありませんが、私は私が私の姿を今こうであるように他者に認識させている働きも「心」に含める、という意味で、いくらかその範囲を拡大しています。  上記のような考え方に立てば、心も物質も、私の言う信仰によるという留保はありながら、同程度に存在し、同程度に確実であると思われます。ここから、私の信仰によるならば、他者は存在します。  折衷的な考えで、何の答えにもなっていないかもしれませんが。

その他の回答 (19)

  • bo-suke
  • ベストアンサー率23% (58/242)
回答No.9

あなたが確かに存在すると思うのと同じほどに外側の世界も根拠無く存在しています。 例えばあなたが傷つけられたと感じる時確かに外界に傷つける原因が存在していると認識せざるを得ません。 このように自分の精神が自分の存在を確からしめると同時に、その精神は常に何かに向けての精神なので(何かを対象としていることを志向性といいます)少なくとも客観的レベルにおいてはわかりませんが主観的レベルにおいては自分も世界も存在していると認識できます。 例えば神を想像します。この時あなたは外界に無いものを想像していると考えるでしょうが、実はその神は『人間を形どっている』『やさしいという人間の性質を持っている(その優しいは、例えば困った人間に手を差し伸べるなどの行為によって理解されますので、これも外界のものとなります)』『光などの象徴を持っている(光も外界に存在しているものです)』と言うように実は実際にあるものでわれわれは神様の形を考えているのです。 今までの考えをまとめると、認識レベルにおいては認識する『私』がいるのと同じぐらいに認識するための『対象』が必要であると言うことです。つまり外界が存在していると考えるあなたは少なくとも間違ってはいないと言うことです。 私の助言では他人の概念が抜けていると思いますので、それは他の方にお任せします。

  • pyon1956
  • ベストアンサー率35% (484/1350)
回答No.8

実際的には大差ないんじゃないかと思います。 つまり、たとえばあなたはこう書かれた文を読んでいます。そこからメッセージを受け取っているわけです。従ってこのメッセージは仮にあなたの心の中であれ「存在します」。 科学の体系を知っていますか?音楽は、芸術は?そういうものが全てあなたの中にあるとして、なんの不都合があるかということです。実際そこにある場合と、あなたの心の中にだけあるが「実際そこにあるのと全く違いない」場合と。 どちらにせよ実用的には「そこにある」場合と同様に我々は行動するでしょう。それともこのことを確認するため、たとえば赤信号の交差点に飛び込んでみる人がいますか?普通はしないでしょう。私もお勧めしません。心の中にしかないのではなく実在した場合、とりかえしがつきませんから。 それに心の中にしかないものだとしても、それがたとえばぶつかってくる車であった場合、それを否定しても車は消えてくれません。つまりこちらの意思とは無関係に動いているのです。そうである以上、心の中にしかないとしても危険かもしれません。等々。 というわけで実際にはこのこと(唯我論)は無益です。そう考えても現実が変わってくれないからです。死んだ人は戻らず、失った人は帰らず、なくしたものは戻ってこないのに唯我論に走ってもそれは逃避というものです。

porlali
質問者

お礼

 お返事ありがとうございます。 唯我論に走らないような思考を持って 生きていきたいと思います。

  • yoh001
  • ベストアンサー率34% (24/70)
回答No.7

porlaliさん、こんにちは。 実は、僕も中学生位の時から、 おそらくあなたが感じているだろうと思われる疑問をズーッと持ち続けていました(す)。(^_^) この感覚は、たいへん言葉にするのがむつかしく、 当時、父に「他の人っていうのは、ロボットのような気がする。」って言ったら、 「お前も大きくなったら人の存在がよくわかる」、といったようなことを言われましたが、僕の言いたいことは、伝わっていないな、ともどかしく思ったものです。 僕は、不遜や傲慢な意味でそういったのではありませんでした。 今、僕は51才ですが、その答えがおぼろげながら見えてきたように思います。 それを何とか断片的に言葉にしてみたいと思いますので、よかったらつきあってみて下さい。 まず、ことばそのものにヒントが隠されていると思います。 「自分」とは、「自」から分かたれた存在。 「自」は一つの存在。「一」なるもの。 僕達が一般的に「存在」といってるものをそのまま存在という言葉で表し、 この「大宇宙」に本当に存在するものを「実在」という言葉で表現してみたいと思います。 この世に物質は存在します。 しかし、物質は実在ではありません。 物質は意識(生命)の表現手段として存在します。 「大宇宙」の中に僕達が認識している三次元物質的「宇宙」があります。 「実在」とは大宇宙の「自」であり、またそこから分かたれた無限数におよぶ生命のこと。 「わたし」は「あなた」。 神の社の中に鏡があることを思い起こして下さい。

porlali
質問者

お礼

 お返事ありがとうございます。  今までの自分の概念では、堂々巡りで 煮詰まってしまっている状態でした。 yoh001さんが、私と同じような疑問を 抱いていたとお聞きしまして、今までの 孤独が和らいできました。徐々に疑問が 解消されたということは、私にはうらやましく 思います。頂いた言葉は、私には今、現時点 では100%消化することは、難しいですが 人生の経験をつみいろいろな人と出会いその中 でお言葉を思い出しながら人生経験の中で答えに 近づけれるように頑張りたいと思います。 たいへん参考になりました。

  • patofu
  • ベストアンサー率23% (137/591)
回答No.6

「我思う、故に我あり」ですね。 ありとあらゆるものを否定していっても、それを否定している自己を否定し得ない。 しかし、我以外のものは否定しえるということですね。 人が自覚しているのは脳の一部で、他の大部分の脳が自分以外の世界を構築している。 その世界を見せられているだけであって、本当は無の世界に自分ひとりが存在して、長い夢を見ているのではないか。 多分そうだと思います。人間は無の中に一人でいると。 人が想像するものは必ず実現できるといわれるのもこのためです。だった夢ですもの、思うところの全てが現実となります。 この世界は実に複雑で豊かだと思われますが、人が知覚できる範囲においてはそうではないでしょう。 複雑に見える断片のみを見ているだけです。これくらいならば個の世界であっても存在しえるでしょう。

porlali
質問者

お礼

 お返事ありがとうございます。 面白いです、本当に面白いです。 みさなんのお返事が本当に心に響いてきます。 patofuさんのご意見は、私が読んできた自己啓発 本よりも勇気付けられます。なるほど、だから 夢ってものはかなうものだったんですね。 ひとつの疑問としてはpatofuさんは どのようにしてこのような考えを持つことが できるにいたったのでしょうか、そんな疑問が 生じました。

  • hata333
  • ベストアンサー率18% (6/33)
回答No.5

ここで言う「存在」の定義とは「物理」ですね?? 自分以外の人は存在するか?RE:宇宙から見れば、大なり小なり、形はどうあれ「人」「木」「海」「地球」は<「点」>です。これを踏まえて、自分というのは「内から見た<点>」もし、あなたの脳と目を取りだし、目と脳が無くなった「あなた」を見た^^;;場合「あなたの脳でありながら、あなたは他人」になると考えます。もし、別の目と脳を作って来て、 あなたの記憶を作ってきた脳に「ダウン ロード」して「見たもの」の情報を共有できればあなたの中に「他人と自分が居る」になっちゃう^^ですが、内側から「点(自分)」を見れなくなったら・・・社会通念でいくと「死」です^^;他人か自分かというのは「見る位置によって呼び方が変わる」のではないでしょうか。まぁ~、他人、自分とか言っているけど物理界には「他人や自分は存在しない、人の頭の中で存在している」のだと考えます。長文は頭に入りにくいと思うので、この辺で失礼します^^

porlali
質問者

お礼

 お返事ありがとうございます。  最初なかなか理解できずに何度も読み返して しまいました。hata333さんにも新しい考えを頂きました。 まったく今まで自分では、なかった発想なので 怖い位の衝撃を受けています。 「他人や自分は存在しない、人の頭の中で存在している」 この一文は、私にとっては久々に頭が痛くなるほど 考えるものでした。衝撃すぎて少しの迷いも生じて きてしまいました。

回答No.4

 質問者様がこの回答を受け入れてくださるなら、「この回答を書いたわたし」は質問者様にとって存在しているでしょう。

porlali
質問者

お礼

 お返事ありがとうございます。    シンプルなお答えですがかなり核心をついて います。私には、非常に重く考えさせられる お答えです。少し考えさせてください(笑)

回答No.3

こんにちは。 自分以外の人は存在すると思います。 たとえば、 わりと近い時期に別々の人から同じことの評価をもらう。 でも、それぞれの人の評価が180度違うとき。 (自分にとって、それがよいことかわるいことかは別として) それって、自分以外のほかの人がいないと そこまで食い違わないはず。。。 どこか似たようなところが見つかるはず。。。   *180度だから、裏を返せば同じことかもしれないけれど、    それは自分の脳が処理することだから、    自分というフィルターはひとまず置いておく。 だから、たとえば自分が青だと思っても、 人は青じゃない色を言うかもしれない。 でも、それって、ほかの人がいる証拠かなとおもいます。 もっと極端にいうと、 世界はたしかに存在しているけれど、 おそらくは、ひとつではなくて複数、 あるいはひとりひとりのなかに世界があるんじゃないかなとおもいます。 だから、質問者さんの世界はたしかに存在する とおもいますよ。

porlali
質問者

お礼

 お返事ありがとうございます。 わりと近い時期に別々の人から同じことの評価をもらう。 もし、実際に私がこのようなことを経験した 場合少しとまどうかもしれません。しかし、 domaine-espoirさんのように考えることが できるのなら自分に新しい発想を与えてくれる すばらしい経験に様変わりするように思います。 ひょっとしたら友人との何気ない価値観の違い や考え方の違いが他の人間というものが存在する という証拠を学ばせてくれていたのかもしれない というように思えてきました。

回答No.2

さて、では「自分が認識している自分」が本当に存在しているのでしょうか?「自分が認識している自分」は自分以外には証明できないですよね。 まるで普段自分が聞いている声と録音している自分の声が違っているように。 自分が鏡を見ているときに映っている自分ですら脳が本当に正しく認識して情報を伝えているのかどうか証明のしようがないのです。 人間の脳内情報はかくもアバウト且つデリケートです。自分が現実だと信じているものを信じるしかないかもしれませんね。 胡蝶の夢、という話があります。ある男が転寝で蝶になった夢をみます。夢の中で蝶は人間になった夢をみているのです。 目覚めて男は「自分は本当にここにいるのか。それとも蝶が見ている夢なのか」と悩むという話です。

porlali
質問者

お礼

 お返事ありがとうございます。    私以外の他の人が私と同じように自分を 認識しているのかが、分かりえないところに 私の悩みがあり続ける理由なのかもしれません。  といいましたが、自分が現実であると感じる ことはあります。幸いにも自分が存在するという ことは、現実である思っております。 penpen0608さんがおっしゃるように 自分が、現実と思うものを信じて生きていく というのは、私にとってのひとつの指針 になりえるお言葉に感じました。 ひとつ大きなものいただいたように思います ありがとうございました。

  • slrgi9h
  • ベストアンサー率26% (8/30)
回答No.1

『自分の顔は、自分で見ることができません。このことから自分の目は、自分のものであり内側から見ているイコール自分は、存在すると認識できる』 自分以外の他人も、存在の認識をそのようにするならば、他人も存在していることになる と思います。

porlali
質問者

お礼

 お返事ありがとうございます。    私以外の他の人が私と同じように自分を 認識しているのかが、分かりえないところに 私の悩みがあり続ける理由なのかもしれません。

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