- ベストアンサー
毛利元徳(もうりもとのり)の歴史年表
毛利元徳(もうりもとのり)の歴史年表を見ていたら、元治元(1864)年6月諸軍を吉敷郡繁枝松原に閲兵、弁訴のため7月京都に出軍と書かれていたのですが、ここで弁訴のためと書かれてありますが、弁訴とはなにをしにいくことなのでしょうか。歴史に詳しい方おしえてください。
- みんなの回答 (2)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
noname#113190
回答No.2
弁訴とは、自分の立場などを訴えに行くことですから、この前年に起こった八月十八日の政変で、長州は京都から追放されていますから、この件に関しての事情説明に上京したのではないかな。 訴える相手は、当然孝明天皇になり、毛利元徳は天皇に事情を説明して、長州勢力の復権を図ったと思う。 禁門の変もこの動きに連動しており、長州藩は藩主父子の赦免などを求めて京へ軍事的に進行するが、蛤御門に発砲したことを咎められ、朝敵になってしまう。
その他の回答 (1)
- 6dou_rinne
- ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1
前年のクーデターで朝廷を追われた長州派公卿と長州藩が巻き返しをはかったもので、いわゆる蛤御門の変の出兵です。
質問者
お礼
回答ありがとうございます。失礼ですが補足させてください。
質問者
補足
禁門の変のための出兵ということは、分かったのですが、弁訴という名目は具体的にどいうことをすることなのでしょうか。幕府に申し開きにいくことなのでしょうか、その当たりの詳しい情報をしっているかた、おしえてください。
お礼
ありがとうございました。漸く意味が飲み込めました。詳しい情報ありがとうございました。