端的に言うと、「結局、自分がゴミになってしまうこと」への恐怖だと思います。
どんなに権勢を誇っていても、歳を取ると、遠からず自分も死に、焼かれてゴミになることを実感するようになります。その時、それまでの自分の権勢や栄華が大きければ大きいほど、そのことと「ゴミ」とのギャップがあまりにも大きいことに愕然とします。
しかし、死だけは、決して自分の自由にならないし、また、若い頃のように、新たに何かを築こうにも、体力、気力、知力の衰え、そして何よりも「残り時間の不足」を思い知らされます。そして、その恐怖と無力感の前に理性と正常な判断力を失うのだと思います。
また、老人が頑固になるというのは、ちょっと別な原因かと思います(根は同じですが)。老人の頑固は、この世における自己の存在意義を表す方法が、他に見出せなくなるからだと思います。
人は、社会の中で無視されるのではなく、重要な人として評価されたいという根深い欲求を持っていると思います。若い頃は、自分の働きや能力を新しく開発することで、社会の中で自分を認めてもらうことができます。ところが、歳を取ってしまうと、体力、気力、知力が衰え、新しく自分の能力を開発したり、新しい働きを見出したりがだんだん困難になってきます。それでも、人には認められたいので、過去に築いた遺産を頼りに、その価値を人に認めさせようとします。その結果、自分の過去の経験に根ざした考えに固執(新しくアップデートできないので)して、頑固になるのだと思います。
従って、歳を取っても、新しいことに関心を持ち、新しいことを勉強し、新しい試みをやろうとする老人は、頑固ではないと思います。
また、全然違いますが、生き方としての「頑固」というのもあります。合理主義で考えると馬鹿げたことでも、そんなこととは無関係に、あえて「俺はこの道を行く」というものです。これは、人生に対する美意識と関連しますので、若いころから芽があり、年とともに、「頑固美学」に磨きがかかるといった感じです。