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橋梁構造の差について
世界遺産の中に西洋では多くの石造橋梁があります。 所が東洋や日本では石造橋梁は存在しているようにみえません。 建築物が木造が多かったとしても石材が不足していたとは思えません。 各地の築城に大量の石材を使用出来ています。 カエサルがドナウに架けたのは木橋ですがこれは戦時の急増で架橋技術のデモの意味もあったとききます。 なぜ西洋と東洋、日本とこのような差が生じたのでしょうか?
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過去、日本では石材を上手に積み上げて石垣を構築することについての技術は大変進んでいましたし、石材も豊富にありましたが、架橋という一部が宙に浮いた状態の構造物を構築する技術は持っていませんでした。 その理由はキーストーンの概念にあります。キーストーン(かなめ石)というのは両側からアーチ(弧)を描きながら積み上げた石の両方が接する部分に最後にはめ込む石のことで、この石をはめ込むとアーチ状になった石材が、足場を外しても崩れないというもの。 なぜ崩れないかというと、石のひとつひとつがくさび状に形作られていることと、キーストーンによって全部の石が密着していることから、重力によって石が崩れ落ちようとすると、互いにますます強くはまり込むようになり、結果的にさらに強く締まって、それで崩れないというわけです。 このキーストーンによる工法はポルトガルから、そして後にオランダから、長崎や平戸を経て伝わったものとされ、それゆえに、長崎のめがね橋をはじめ九州にはこうした工法を応用した橋があちこちで構築されるようになったということです。 このキーストーンを使う工法はヨーロッパではかなり古くから知られていたらしく、橋だけでなく、出入り口の門などにも応用されたことから、今でも沢山見ることができます。 これと似たケースとしてネジがあります。ポルトガル船の漂着によってわが国に伝えられた小銃ですが、これを真似て種子島では国産の銃の開発が始まりました。良い鉄素材と精密で優れた加工技術を持っていた彼らですが、どうしても真似が出来なかったのが銃身の尾部を塞ぐテールピースだったとか。 なぜならこの部品が細かいネジ山をもったネジになっていて、銃身の尾部にねじ込んであったからだといわれています。ネジの加工ができなかった当時、いろいろなテールピースの取り付け方法の代案を考えたようですが、いずれも上手く行かず、発砲するとテールピースが後ろに飛び出してしまうなどと苦労したということです。 のちに、今で言う旋盤に相当するろくろでネジを切るという方法が考案され、それであの種子島銃が完成したと言われています。
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- m-tahara
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既に回答されている方の御説明で充分納得出来るところではありますが。 日本の降雨量の多さと川の特性も関係あるかもしれません。 東京当たりでも年間の降水量は1,500mm程度とヨーロッパの3倍程度は雨が降ります。 さらに日本の川は急峻で台風などの大雨となると水嵩が一気に増します。 こうしたことが現在でも毎年のように、しかも年何回も訪れる危険性が高いわけですから、すぐに復旧できる、川下に対して被害を及ぼさない木造の方が適当であると思われます。 確か大雨の被害にはそれによって崩れた橋脚などが下流に流されてそちらの橋も壊してしまう、というものがあったように記憶しています。
お礼
増水時の流出による下流域への配慮は十分かんがえられます。 皆様のご意見で、どうも日本の技術がまだ発達していなかったと見るのが正しいように思えてきました。 もう少し調べてみようと思います。 有り難うございました。
- HAL007
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川は戦略的に大きな障害物で軍の移動を妨げるものです。 特に江戸時代は橋を壊したとも聞きます。 石材がないと言うことは理由にはならいないと思いますよ 何故なら、山の多い地形ですから岩を割れば石材は容易に手に入ります。 また、地震以外にも、川の特徴して急峻な川が多く、大雨が降れば 鉄砲水の様な流れ方をします。 長崎にある石造りの橋が台風で流されたなどは記憶に新しいですね。 それから、家の建築も多湿な気候から木造の方が生活し易いことから もっぱら木造家屋を造ってきています。築城の際の石垣が例外的なものであり 石の構造物を作る技術が育たなかったのだと思います。
お礼
河川を戦時障害として利用する思想が存在したのはお説のとうりで、江戸時代大井川に架橋しなかったし、戦時破壊しやすいように木橋はかけても石橋をかけなかった伝統は存在しました。 日本は雨量が多く河川が急流になりやす地形とのご指摘は納得がいきます。 NO2の方のご指摘にあるように石造技術がなかったとみるのが正しいのかも? ご回答有り難うございます。
- nemosan
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「肥後の石工」という言葉を知りませんか? 九州地方には専門の職人集団がおり、 石橋がたくさん残ってますよ。
お礼
肥後の国に石橋が多いことはしりませんでした。 ご教示頂いたURLによりますと架橋技術を長崎のオランダ人から学んだともとれます。 それなら納得がいきます。 九州地区以外にも肥後石工集団が出張建設しているようで少なくとも九州地区以外には石橋技術はなかったのではないかとも思えます。 色々想像が深まります。 有り難うございました。
- 6dou_rinne
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日本は地震が多かったために石造の橋は崩れやすいのと、木材が手に入りやすかったからでしょう。 石垣でも地震で崩れたという例はたくさんありますので、地震に耐えられる橋などはコスト的にもひきあわなかったでしょう。
お礼
地震の影響や配慮は十分にかんがえられます。 しかし他の方の回答で石橋技術がなかったと見るのが正解のようです。 有り難うございます。
お礼
詳細なご回答で謎がとけました。 有り難うございます。 私もアーチ構造を知らなかったのではと考えましたが明確なご教示で納得がいきました。 調べて見ますと紀元前3000年ごろ既にメソポタミアに遺構がある位古い技術で、エトルリア人から古代ローマに引き継がれて発達したので西洋では普及した技術でした。 日本への伝来は紀元1632年中国からで、長崎から肥後に伝わったようで、九州地区に留まったのは江戸時代の一子相伝のような閉鎖的伝承の習慣が影響したのでしょう。