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土佐日記
紀貫之は、女のふりをして書きましたが、なぜ女のふりをしたのですか? という宿題がでました。 なぜなのですか?
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紀貫之の目的は、旅の記録(日記)を記すことだったと言う記憶ですが、これでいいですか? 当時の男性は、公式には漢文で、文章を書いていました。(勿論#1の方がいう万葉仮名もあったかもしれません) 公式の記録は、男性が漢文で書く。これが当時の習慣です。 貫之は官吏であり、記録は漢文を使うべきである。ところが私的な記録を書きたい、このとき公式の漢文ではなくて、当時女文字といわれた「かな」で書いた。 ということでしょうか!逆に当時流行し始めた「かな」を使って文章を書いてみたかったから、女文字を、男ではなく、女の私が書いているとしたのかな? 公的な記録 → 男 性が → 漢文 で書く。 私的な記録 → (A)性が ← (B )で書く。 B(かな)で文章を書き上げたい、かなはA(女)性が使うものであり、男性は漢文で表記するもの、だから女性に仮託したのだと昔、教わった記憶がありますが。 何かまとまらない文になりましたが、言いたいことは分かっていただけるでしょうか?
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- coffy
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当時の日記には2種類ありました。 漢文日記 男性が書き、内容も公的なもの(今で言う仕事上の事など) かな日記 女性が書き、内容は私的なもの(恋人のこととか) 土佐日記は文字通り、土佐から京都までの旅の道中のことを書いたもので、紀行文に近いですね。 「男性ではないし、内容も仕事のことでは無いけれど、女性の自分も、この旅のことを書きます」ってことですね。 もっとも、途中で京都での官位の発表について(人事異動みたいの)の記述なんか書いてて直ぐに男性が書いたってバレバレなんですけど。 子どもを亡くした悲しみ(この辺は女性っぽい記述です)や、留守をまかせていた隣人が、ちっとも家の手入れをしていなくて嘆いていたり結構、今でも通じる感情が文章の端々に出ています。 ちなみに、旅の先々で書いているわけではなく、京都に戻ってからそれまでの道中のことを思い出しながら書いています。 土佐日記で卒論を書いていました。すごく懐かしいです。 専門的になると、もっと理由(諸説)があるのですけど ご参考までに。
- Kumap888
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その当時、ひらがなは女文字と呼ばれ、漢字(万葉かな)を使った書き方より格が低いと思われていたから。 かっこわるいと思ったんでしょうね。