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土佐日記の「門出」についての質問
国語の古典で、授業で門出を習いました。 そこで疑問に思ったことを質問させてください。 門出の中で、作者である紀貫之は 「男もすなる日記ときふものを、女もしてみむとてするなり。」 のように、自分を女として文を表現していますよね? 私の考えでは、漢文が関係しているのかと踏んでいます。 何故かわかる方、いらっしゃいましたら教えてください。
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女性に仮託したのは何故か、という問題は色々と論議されているようですが、 ・公的な漢文を用いないことで私的な記事内容を記述できる という指摘が多いように思います。 その背景には、仮名文字が女の文字であり、男は漢字で文を書くことが専らであった為に、 女であるという形をとったのであろうという共通理解があるようです。 しかし、小松英雄氏の「古典再入門」では今までの解釈とは違い 「日記を男文字でなく女文字で書いてみよう」の意であるとされていて、 (女も、してみむではなく、「女文字」でとってらっしゃいます) 「紀貫之は女性のふりなどしていません」とおっしゃっているので、その前提から考えさなければならないかもしれません。 (小松氏は著名な国語史の研究者で、この本も一見の価値ありです。) さて、今のところ言えるのはこのくらいなのですが、 漢文が関係しているのでは、というのは どういったことをお考えになっているのでしょうか。 具体的に教えていただけたら、もう少し詳しいことが言えるかもしれません。
お礼
詳しい解説有難う御座います。 沢山あって答えは1つではないのですね。 参考になりました。