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太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む

日本語教育の文法に明るい方にご教示お願いしたく質問します。 三好達治の「雪」という詩で、 「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降り積む  次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降り積む」 というのがありますが、太郎や次郎を眠らせているのは「雪」でOKでしょうか。 雪ではなくお母さんなどだととらえる方もいます。 しかしたしか、一文の中でそのように主語が入れ替わるのは不自然なので「日本語として間違い」ではないかと思います。 というのも日本語教育の文法で、似たような一文に「間違い」となっているのを読んだことがあるように思うのです。日本語教育の世界ではそのように教えていたと思うのですが、どうだったでしたっけ。 外国人の方や外国人に日本語を教えている先生、よろしくお願い致します。 そのような例文が取り上げられている教科書の名前がお分かりの方いましたら、教えて下さい。 あるいは国文学の研究の方で、この主語は「雪」であるととっている論文や、他の何かととっている論文の内容などをご存知の方お願いいたします。 図書館に調べに行きたいのですが勝手ながら時間がなく、ここでもともとご存知の方の知識を得てから行きたいかと思いまして。 よろしくお願い申し上げます。

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  • Riccota
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回答No.2

こんにちは、もと国語学、今は言語学専攻で日本語も教えているのですが(しかももと国語教師)、疑問なく主語は雪だと思ってきました。考える機会を下さった質問者さんに感謝です。 http://www.venus.dti.ne.jp/~yoz/essay/essay.yz.300.31.html というのもありましたが、結論は出ていませんでした。 文構造からすると、 S(文) -> NP【空主語e 】+ VP(動詞句)  で、空主語の類推をどこからするかですね。日本語は、重文の場合、必ずしも2番目の主語に一致しなくてはいけないという文法が存在しない、のではないでしょうか?英語などはそのあたり厳しいですが。 例:行ってきますと言って家を出てすぐバスが追い越してったんだよ。 従って、主語は完全な文脈依存ではないでしょうか? この詩の場合、視点を母に定めてから読み始めると、 (無理して題名が、「雪-私の子ども達」だったとすると、)母が主語になり得ると思います。 私は、主題が【雪】なので、主語を雪と捕えていました。作者が作ったときに、子どもを見つめる母親になりきって書いていれば、主語が母でも良いかな、と思います。 私(母)は、太郎を眠らせた、そして、太郎の屋根に雪が降り積もっている(のを聞いている) でも、むしろ生徒に議論させる良い題材かな。教師には決めつけて欲しくないものですね。

noname#126728
質問者

お礼

ありがとうございます。 >例:行ってきますと言って家を出てすぐバスが追い越してったんだよ。 そうですね。それだと成り立ちますよね。 でもなにか、日本語教育の授業を取っていて、こういうので主語がひねれてて確かに「なりたたないな」という文が出てきて、で、それとこの太郎のは似てるのです。 おぼつかない話ですみません。 でもプロの方が「どちらにもとれる」と文法的にとらえるということが知れてありがたいです。 --- 個人的な感想では「雪が人を眠らせるってのがイイ!」と思うのですが、 こう、雪が音をすいとって静か~にさせるのと、人を眠らせる感じがちょっとイメージ的につながるし。 まあそれは個人の読みですね。

その他の回答 (4)

  • Riccota
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回答No.5

#2で回答したものです。理論言語学は専門ではないので、「プロ」とは呼ばないでくださいませ~。 ただし、例のChomskyの文 colorless green ideas sleep furiously (無色の緑のアイディアは猛烈に眠る)のような、文法的に正しくても意味(語用論・意味論的に)が間違っているものは、言語として間違っているのであれば、文法的に正しいことと、言葉として正しいことはイコールにならないと思いますので、文法だけで、その言葉の正否を判断してはいけないのではないでしょうか。 (うわぁ、ややこしくなってきましたね!) でも、皆さんも仰っているように、「詩」であることで、上記の「無色の緑」文でさえ、許容されてしまうとは思いませんか? とはいえ、私は、何が何でも「雪」だと思いますけど。個人的にはこれは譲りたくないですねー。あの雪の音のなさを、静かな太鼓の音で表す(これも矛盾の芸術?)お能のような静けさ。実際、雪が降り積もると外界の音を吸収するので、物理的に静かになりますから、それで子どもが寝てもおかしくないと思います。 でも、だからといって、他の人の解釈が別であっても、よい、それが「詩」かなと思います。

noname#126728
質問者

お礼

ありがとうございます。 >「詩」であることで、上記の「無色の緑」文でさえ、 詩であることで語用論(というの言葉をよくは知りませんがお示しに文例からはわかる)的に間違いであることを可としてしまうことは分かりますが、 よく考えてみると、文法的な間違いも可とすることは本当にいいのでしょうか。 詩だからって文法間違えてる作品て何があるだろう? >私は、何が何でも「雪」だと思いますけど。 私もです。どうしても、他の主語をもってくるのは不自然というかこじつけな気がして。

回答No.4

 わたし個人としては太郎・次郎を眠らせているのは雪を含めたその場の情景全てではないかと思います。 そこには母の存在があるかもしれないし、一人かもしれません。音を考えてのことはもちろんですが、あえて主語を言わないのは主語を限定して欲しくないという心情からくるものだと思うのです。  また、文法のお話ですが、今からみる文法としては確かに間違いかもしれません。ですが、当時は今とは文体がかなり違っていると思います。古文の文法も混じっているように見受けられます。例えば「太郎を眠らせ雪降り積む」の「積む」は今言うなら「積もる」ですよね?もし古文の文法とするならばあえて雪といったところからその前の文章の主語は雪ではなくなるという考えもできます。    色々な風に読めるからおもしろい、読めば読むほど奥行きの深さを感じさせる、そのような詩であるからこそ今でも有名な詩なのかもしれませんね。

noname#126728
質問者

お礼

ありがとうございます。 私も、もし「雪」じゃないのだとすれば、自然全体とかそういう感じで、「母」とかの具体的なものを出すとかえって恣意的だなと思います。 そういえば古文は平気で主語がひねれますね! なんとなく、そういうときの主語の入れ替わりとこれとは違うような気がするのですが、気ばっかりで文法的に説明できないのがもどかしいです。

  • hakobulu
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回答No.3

日本語教育や国文学には一切縁の無い者ですが、私見を述べさせていただいてよろしいでしょうか。 これが詩の文であることを考えると、文法的許容範囲は広がるように思うので、主語が「母」であっても詩としては一応成立するように思います。 (作者が「母」を隠れ主語として想定していたと言っても不思議ではないという意味で。) しかし、この場合「太郎の屋根」「次郎の屋根」と「屋根」が複数なので母も複数居ることになり、幾分散漫な印象を与えてしまうように感じます。 やはり「雪」を擬人化することで、「寒く冷たいもの」から「暖かく包み込むもの」というイメージへの転換が効果的であり、達治の意図したところでもあるように思います。

noname#126728
質問者

お礼

ありがとうございます。 やはり詩だと文法的なしばりからはやや開放されるととった方がいいんですね。 >やはり「雪」を擬人化することで、~イメージへの転換が効果的であり、 わたしもそう思います。 しんしんと積もる雪の下で子供がぐっすり眠りについていることを、比喩的に「雪が人を眠らせている」と言っていると思うと、「いいなあ!」と思うので。

  • cubics
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回答No.1

ちょうど、こういう授業の記録がありますね。 http://www1.ocn.ne.jp/~tashiro/yuki.html 授業記録に、そのあたりの話がありますが、 文法的なものではありません。 文法的には、省略されているから、いかような解釈も成り立つと、素人の私は考えます。

参考URL:
http://www1.ocn.ne.jp/~tashiro/yuki.html
noname#126728
質問者

お礼

ありがとうございます。 できれば個人的な授業の記録ではなくなにか寄って立てる資料が知りたいのですが。

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