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内に目を向ける、外に目を開く。
内に目を向けるってどういうことですか? キリストいう、神の国はあなたの心の中にある。 仏陀は言ったと、己のうちに耳を傾けよ。さすればマーラは去る。 僕はたぶんガンガン外見てたと思うんです。解脱的なことを志向しているのではないですが、内があることも解っていると思います。内に何かあるのも解っています。でも、イマイチというより、いますごく解ってないんです。 教えて!gooではすごくお世話になり、回答者の方々、管理者の方、本当に感謝しています。宜しくお願いします。 内に目を向けるとはどういうことですか?
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●あるということ(存在)とトートロジーを 対峙させて どちらが より確かか? と問われて 存在の方がより確かだと言う人もいれば いや トートロジーの方がより確かだという人もおります。 わたしは はっきりと言うんですそういう方達に どちらも同じくらい不確かです。と・・・。 このスタンスは大切です。存在とトトロジーを問うスタンスよりも確かです。 前回言いましたが いままで存在そのものを証明した人はおりませんし トートロジーが真理であることを証明したひともおりません。 なぜか? そんなことわたしにわかる訳がありません。 人類の歴史をあまく見てはいけません。 途方もない時間をかけてわかる事かもしれません。突然のひらめきが解決するのかもしれません。 ●しかし ここが重要です。その不確かな世界のなかに身を置いて わたしたちの ご先祖様は 生き そして死んでいった。その解を見出しても過去の事実の中の 変わらないものに目を向けたい。天動説の時代でもかわらないもの。 トートロジーの内が見えたとしてもかわらないもの それこそが大切なんです。 トートロジーの内を見ることなんて つぎの瞬間新たな疑問で打ち消されちゃうよ。 脳の処理で一応の解が見出されても それが脳の処理無しで真理だろうか? ↑みたいな新たな疑問だよね。 内に目を向けることで「トートロジーの内が見たい」という願いが 究極の問いでないことが分る。 さて ここで脳のキャッシュが ものを言う。 究極の問いを探して そこから 逆に「トートロジーの内が見たい」まで さかのぼればいいじゃないか! んで たとえば脳の処理無しで真理だろうか?を考えてみる。 ここで言う脳の処理とは論理と限定しましょう。 すると論理のなかにトートロジーも含まれている訳です。 この論理を無くするわけですから。ひらたく言うと考えないということになります。 考えない世界にはたしてトートロジーは存在するか?という事になります。 ●どうですか?まわりをみて見当たりますか? ありのままの自然・宇宙にはそんなのも無いでしょう。 アリの行動にドモルガンの方程式は みつかりますか? 石の存在に二重否定は みつかりますか? ミームはミームにすぎないんですよね。 ミームの根本の内を見るなんてできないんですよ。 見ようとするだけ無駄です。 ●わっかるかなあ?・・・不安。わかってくれよーモー!
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- chihoko
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●本物になりかけているミーム例ですか ピラミッドとか ラスコーの壁画 とか いろいろあるでしょう。 ●モーツァルトでもバッハでも こころを楽しませるひとつとして 捉えたほうが 間違わないようにおもいます。 あなたが死ぬ時 耳にしたいのは小鳥の鳴き声ですか? バッハですか? すべてのミームは こころの楽しみではあれども こころが とけてゆく行き先にはなりえないのです。 人も歌うことができる。けれども人の歌はオウムやインコのまね声と同質のもので ミームです。とてもこころの行き先に選べるものでは ありません。 ミームがうそつきだとおもう姿勢は 将来を悲観していることでは ありません。まちがわないための 方法論として 言っているわけです。 あなたのようにミームを肯定しているひとこそ ミームのレトリックのなかで 生き死んでゆくのです。脳の処理をわざわざ風船に置き換えたり。 自分を波頭に置き換えたり。ミームのレトリックの愚そのものですよ。 わからない事にまっすぐ向かえばいいだけなのです。 言葉を美化しすぎているか 分かっていないか いずれ間違っています。 ●経済というミームの化け物ですが あなたはたぶん経済についても あまり知らないと思いますので 多くを語ることは止めにします。 理解できないでしょうから・・・。 でも考えを進めるヒントを書いておきましょう。 ※お金をコントロールしているのは何か? ※物をなぜお金に置き換えたのか? ※通貨崩壊はなぜ起きるのか? ※ほとんどの仕事は機械がしているのに なぜ依然として人は働かなければ ならないのか? ま このへんを考えてみてください。 ●ミームに希望を持つ姿勢が あぶない理由。 自我そのものが幸せを指向するのです。だから ミームに希望を見出そうとすることは 自我を無視してしまう可能性があるのです。 ひらたく言い直しましょう。 自分でいいもわるいもわかるんだから 外部に価値観を見出す必要はない ということ。ミームのいいものは だまっていてもはいってきますよ。 ひとそれぞれに その人のなかにはいってきます。 そのミームを肯定することは 他人にそのミームを強要する危険をふくむし。 それを肯定できるほど ミームは確かなものではないし。 自我とは 次元の違うものなのです。 ●あなたと 話していて 非常にすすむのが遅くって疲れてきました。 あなたは あなたなりに いくらかは進んだでしょう。 でも わたしから傍観すると また同じレトリックにはまっている感じが ぬぐいきれません。今回はこのくらいで いいのではないでしょうか・・・。
お礼
>あなたが死ぬ時 耳にしたいのは小鳥の鳴き声ですか? バッハですか? 人の声です。わかっています。わかっているんですが、それが生き様というものです。心がとけて行く先は心にあります。しかし、僕は死ぬときにも生きているのです。ほんとに安っぽい事を言ってしまいましたが、、。小鳥が歌を歌っている。しかし、歌っているのは小鳥だけじゃないのです。叙情の真理がそこにあります。叙情が偉大で、素晴らしいわけです。 >ミームのレトリックのなかで生き死んでゆくのです。 それができるということの勇気を、僕は今わかりました。 >自分でいいもわるいもわかるんだから 外部に価値観を見出す必要はない そのとおりだとおもいます。これはかなり大事な事です。しかもわかりやすい。 ですから、ミームに対する姿勢だとか、どうでもいいことです。「ミームのいいものは だまっていてもはいってきますよ。 ひとそれぞれに その人のなかにはいってきます。 」そのとおりだと思います。しかし、あなたがミームはうそつきだとする姿勢は、啓蒙的で、非常に意味を持ちます。あなたには、もはやそういう姿勢は必要でないのではないでしょうか? しかし、そういう姿勢の中で生きるということに勇気はありません。そこで、それをあなたが言う。それが勇気あることです。今、あなたの勇気が見えた気がします。 >また同じレトリックにはまっている感じがぬぐいきれません。 僕はまだぬぐいきれてません。事実僕はたくさんしゃべります。それ自体は別にまぁいいんですけど、ぬぐいきれていないという実感はもっています。 >わからない事にまっすぐ向かえばいいだけなのです。 いや、そうですね。やっぱり素晴らしい事をいいますね。しかし、気付かない人、つまり、かつての僕にこれを言ったとしても、それは虚空を舞うだけです。ミームからはまずミームで連れ出すのです。 それから、あるがままに。ですから、僕らが、波頭や、風船やの話は、些細な事ですが、このことの意味は大きいのです。もちろんいまのchihokoさんのようなかたには意味がないのです。ですから、愚を愚という事が、どうでもいいことなのです。しかし、chihokoさんの立場で言うとそれは啓蒙的な意味を持ちます。僕にしたら、ありがたいことです。あなたのような姿勢をとると、心を打たれるのです。 ミームで連れ出すという行為は果てしなく遠回りです。心を打たれるようなことが、ミームで閉ざされているのです。気づけば簡単ですが、気付かなければ果てしないです。あるがままというのは、距離はないのに遠いのです。言うまでもないですが、chihokoさんは気付いています。 >そのミームを肯定することは 他人にそのミームを強要する危険をふくむし。 なるほどです。 >自我とは 次元の違うものなのです。 そうです。 >あなたはたぶん経済についても あまり知らないと思いますので 多くを語ることは止めにします。 あまりどころかほとんど知りません。でもわかると思います。多くを語らないで、大事なトコだけ語ってください。ご助言していただいたことについて考えておきます。でも、僕に多くが必要ならそうしてください。 >あなたと 話していて 非常にすすむのが遅くって疲れてきました。 あなたは あなたなりに いくらかは進んだでしょう。 申し訳ないです。僕がべらべらしゃべるので、つかれたんでしょうか、、。回答者の親切な対応に、甘えてしまうのです。申し訳ないです。今までの回答者の方も、ずいぶん疲れたと思います。その事で僕は進むんですが、、本当に申し訳ないです。本来的には人に聞く事でないことを僕の言葉で人に聞き、人に考えてもらい、それで自分の考えをすすめているのです。愚ですね。 >今回はこのくらいで いいのではないでしょうか・・・。 chihokoさんがいいと思うならそうしてください。。でも、僕はあなたと話す事で進む事がまだあります。それがなくなったときは、十分です。出来たら来て欲しいのは、何故なら、故郷に帰りたくなるのは当然です。故郷を教えてもらったといえます。しかし、あなたにまかせます。気付いてもらえますか?あなたには本当に感謝しています。忘れないほどに感謝しています。
補足
ここでは、いくら言ってもあなたへの感謝の気持ちは表せません。 僕の生き様にそれは示されます。半泣きですが泣きませんよ(笑)。
- chihoko
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●叙情とは情景にこころが意図せずに寄り添うことですから 物もDNAもミームでもなんでもありです。いまの地球はオゾンの破壊 酸性雨 環境ホルモンなどで ミームにかかわってないものを探す 方が難しいでしょう・・・。 ●さて自我についての考えのくいちがいについてですが あなたの自我についての考えが はっきりと読解できませんので なんとも言えませんが おおきくは離れていないんじゃないでしょうか。 ●けれども自我の喪失についてですが わたしが自我の喪失と言ったのは われを忘れる というような意味なのです。夢中になるとそうでしょ。 死んでも自我が残るというのは 間違いだと思いますよ。 そのひとから派生したミームは残るでしょうが。 そのひとの本質である自我は無くなると考えるのが普通であり合理的です。 そして 自我とその人から派生したミームは全くの別物です。 そのミームをその人に関連づけることが無意味なくらい別物です。 平たくいえば ミームはうそつき うそのかたまりだと思っていれば まちがいないです。ことばをもたないミームで永くつづいているものは もしかしたら うそから本物になりかけているものもあるかもしれません。 しかし 稲作にしても経済というミームの化け物によって 破壊されつつあります。 結局うそは うそのまま 終わるのかもしれません・・・。 ●さてわたしたちは なぜミームに悩まされるのでしょうか? わたしはこう考えるのです。 自然は淘汰というコントロールによって宇宙の本質に同化しているかのように 否のうちどころがありません。自然の否を訴えるひとなど聞いたことがありません。 災害などを否とするのは愚の骨頂です。災害など環境の揺らぎはそのまま 生命の多様性の根源のひとつの要因であると推察できるからです。 自然淘汰とは 光・場所・食べ物・生き方 の奪い合い競争です。 あなたの言っていた共生とは この生き方のなかのひとつの形です。 ここで気が付くでしょう DNAはもののありかたがそのまま情報と なったものであることが。 ここがミームとのおおきなちがいです。ミームはミームそのもの自体が 編集されたり増幅されたりして たちの悪いことにものに成り代わります。 だからミームがあり方として成り立つかどうかを証明するには時間が かかるのです。そして成り立たないときには 地球は少なからず破壊されています。 なんだ じゃあ DNAとおなじでミームも淘汰されるじゃん。と思うでしょう。 ミームを淘汰するのが自然なら どれだけ時間を必要とするかわかりません。 ミームを淘汰するのはたぶんミームになるでしょう。 そしてながい時間をかけて自然が淘汰してくれるでしょう。このように 未来を推察するわけです。 ミームに悩まされるのは 自分がいきれるスパンとその淘汰される時間のスパンが あまりにも ちがいすぎるため いまのミームのあり方に袋小路のような 限界を感じ 結局ミームに振り回されるしかない ことに由来しています。 ●わたしも あなたと同様にいまの文明にどっぷりと浸かって生きている ひとりです。でも 貪欲に楽しみや快楽を追求している反面。 モーツアルトが 小鳥のさえずりや風のささやきに かなわないことも はっきりとわかるのです。 ●若いころ わたしの生き方に影響をあたえてくれた 言葉を紹介しましょう。 道元の風鈴の歌です。 現在は影響される言葉を見つけれません。 いまは叙情にこころ やすらぐ時間が一番おおいです。 「東西南北 その真ん中に身を置き ただ風鈴のごとく チリン チリン」 道元
お礼
>われを忘れる というような意味なのです。夢中になるとそうでしょ。 はい、わかります。 >そのひとの本質である自我は無くなると考えるのが普通であり合理的です。 まさに、自我はこの世のものでなくなるという意味です。そして、その人はこの世の者です。 >自我とその人から派生したミームは全くの別物です。 そうですね。 >稲作にしても経済というミームの化け物によって 破壊されつつあります。 結局うそは うそのまま 終わるのかもしれません・・・。 そうですね、今の経済というミームはまさに作り物で、ハッタリコンボ君?です。本来は、もっと喜ばれるミームだったのですが。何らかの理由で今の様になっているのです。どのような理由なのでしょうか、説明してもらわないと僕は納得できませんって思います。今の経済のミームはその虚構性より、自滅すると思います。しかし、経済というミームはまだ生き残ると考えています。 > モーツアルトが 小鳥のさえずりや風のささやきに かなわないことも はっきりとわかるのです。 僕もそう思います。今までのどんな偉大な建築も、自然の造形にはかなわないし、自然の力無くして存在できません。人のいかな残酷さも、自然のそれにはかないません。どんな勇者も自然の勇気には劣るのです。しかし、人もまた歌えるのです。それは、小鳥のさえずりに劣りません。ひとも、DNAの現象である限り、素晴らしくあれると思います。僕は、素晴らしい人を復活させたい。ひとは、自然に見劣りすることなく、ミームを育てれる。なぜなら、人のDNA(生き方)が教師となるからです。人間は、DNAで現象し、ミームで現象するのです。ミームなくして人間はありえません。 > 平たくいえば ミームはうそつき うそのかたまりだと思っていれば まちがいないです。 ミームはそんな酷いヤツなんでしょうか?ミーム自体にはそういうことはないと思います。たしかに、ミームにはリアリティといったようなものを感じにくいですし、今のミームはひどい者がありますが、僕は、ミーム自体の存在の将来を悲観的にはとらえたくない。 >ことばをもたないミームで永くつづいているものは もしかしたら うそから本物になりかけているものもあるかもしれません。 これは例えばどのようなミームですか? >DNAはもののありかたがそのまま情報と なったものであることが。 なるほどって感じです。 >現在は影響される言葉を見つけれません。 そりゃそうです。必要としない人に与えられる事はありません。いらないものを物乞いするような事はないのです。存在にそれを見出したのですから。しかし、言葉にも実在する者があります。まさに、あなたの言ったように、言葉という必要のないものですが、言葉という事で、何か違う印象をまた得れるかもしれません。 道元の詩ですが、なんかわかったようなわからんような、結局わかってないんですが、感ずるところはあります。しかし、最初の二節はよくわかります。僕のいる所が世界の果てです。こうとらえました。 人間の芸術についてですが、時々、奇跡とよべる、宝石のようなものが出現します。モーツァルトにはっきりいえなくても、バッハにはあるのです。僕はそう思います。ミームの存在の仕方がかわるとき、虚構はなくなり、奇跡はよく起こるようになると思います。
- chihoko
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●ミームを語るには まず 本質というものについての 説明を聞いてもらうほうが いいでしょう。 そのもの(存在)の本質とは何でしょうか? わたしは こう考えるのです。本質とはそのものの全て つまり 存在理由も含むもの なぜ在るのかのわけの答えをも含む全てであると・・・。 ビッグバンを言葉で指し示すことは できます。 ビッグバンの全てを含んだビッグバンを言葉で指すわけです。 しかし その言葉はビッグバンの本質を含んでいるのではなく ビッグバンという言葉の本質を含んではいるのですが それは ビッグバンの本質とは無関係のものなのです。 ●さて人間の本質とはなんでしょうか? わたしはこう考えます。 精神こそ本質であると・・・。自我こそがその本質なのです。 言葉ではありません 自我が言葉を使っているだけなのです。 自分とは肉体と精神の融合体ですよね。自分の本質は自我にはわかりません。 なぜなら自我は精神の中枢という一部で 自分は物質が関与しているから それぞれの次元が違うわけです。だからわからないのです。 自分はなぜ存在しているのか そのわけが 自我には分からないのです。 ●しかし 自我には自我の存在理由はわかります。本質が精神だけであるからです。 わたしは 自我の存在理由をこんなふうに感じています。 「我こそ ほかのだれでもない 宇宙でたったひとつの我である。」 脳がこの簡単な感覚を創造し得たとき 人間は生れたと・・・。 ●ミームのなかから人間の精神と肉体の活動から派生した伝達物だけに限定すると (われわれが悩まされるのはほとんどが それです。) そのミームは人間の精神から生れているからその本質を認識することは可能です。 しかし ここが重要です。人間はミームを獲得したことで自然淘汰の流れから 逸脱してしまっているのです。言葉で「地球は私一人で住む。」 と表現できるように 現実にそうすることもできてしまうのです。 本質が40億年の地球上生物を 本質がたかだか何十万年の言葉が 駆逐してしまう危険性が あるのです。いやもうその危機ははじまっています。 だからこそ ミームにとらわれては いけないのです。 地球上生物を死滅させたくなくとも ミームのもつレトリックで だれもが望まない結末を迎えてしまう危惧が 確かに今 存在しています。 ●さて 叙情にはなしを 移します。 自我を皮膚感覚に集中してみてください。右手で左腕をなでると 肉体の曲線 めくるめく皮膚感覚を おぼえますよね。 しかし その集中していた時間 ほかのことには 目が届かなくなります。 叙情とは自我を開放して どの情景に寄り添うか そのよりそった情景を そのひとの叙情と呼びます。だから人それぞれです。 ごみぶくろが風に舞う情景に叙情を感じるひともいるでしょう。 (映画:アメリカンビューティの一場面) 自我は 前にも話しましたが 真善美恋と言葉やイメージをシェイクして 論理を展開する部分でできています。そしてここは経験で変化していくのです。 ●外に目を開き 内に目を向ける とは正によりよく生きるための あたりまえの手法であるだけなのです。 わたしは 芭蕉の俳句から 芭蕉の叙情を推察して わたしもかくありたいと感じる一面もある その程度のものです。 わたしたちのまわりは 叙情だらけでもあるし 不愉快なことだらけでもあります。 自分の時間を世界の改善に向けると 自分のやすらぎは無くなります。 それは 自我の喪失につながる恐れがあるからです。 ほどほどに 自分の器にみあった生き方を選択するのが 賢明というものでしょう。 ●「ぬけがらを見た」 着眼がすばらしいですね。祭りもそうですけど じつは ぬけがらになるまえのにぎやかなプールや 汗のとびちる祭りのまっただ中にも ぬけがらや祭りから離れた場所にある 詫びさびが あるんですよ。 もし見つけることができたなら そのにぎやかさの中にある詫びさびのほうが いかに大きいかを 感じることでしょう・・・。 ●抜け殻にまつわる わたしのエピソードをひとつ。 今年の夏 森のなかの桜の葉にセミの抜け殻を 見つけたんです。 広い 広い 森の中で 桜の木の一枚の葉に セミの抜け殻が ふたつ並んでくっついていたんです。 それを見た瞬間 鳥肌がでて 涙がボトボトとこぼれました・・・。 いまでも はっきりと その情景を思い出せます。
お礼
宇宙の歴史は150億年といいます。 >今年の夏 森のなかの桜の葉にセミの抜け殻を 見つけたんです。 広い 広い 森の中で 桜の木の一枚の葉に セミの抜け殻が ふたつ並んでくっついていたんです。 それを見た瞬間 鳥肌がでて 涙がボトボトとこぼれました・・・。 いまでも はっきりと その情景を思い出せます。 104億年と、46億年の重みでしょう。細かいですね。ぬけがらを見た で、あなたがセミの抜け殻を想起したことが僕はうれしいです。夏で、抜け殻はセミですよね。詩がひととおりできたあとに、セミの抜け殻が思い浮かんだんです。だから、それを冒頭につけたのです。chihokoさんの感想を読んで、初めてプールが抜け殻になっていることに気付いたあほあほでした。あの題はセミだったんですよ。まぁ僕も脱皮したようなものですから、ちょうど良かったです。あの脱皮する昆虫は劇的なもので、壮絶な訴えを起こすものです。そのセミの抜け殻達に出会えてよかったですね。僕も、そういう抜け殻の一つになるのもいいなぁと思いました。二つあるのがいいです。だって、二人いるってことじゃないですか。 >もし見つけることができたなら そのにぎやかさの中にある詫びさびのほうが いかに大きいかを 感じることでしょう・・・。 僕は叙情にはまってから、いろんなものが流れ込んできます。そういうものもみれるといいですね。そのときにはそのときの、その瞬間にはその瞬間の叙情があることがうれしいです。あきませんし。 >だからこそ ミームにとらわれては いけないのです。 地球上生物を死滅させたくなくとも ミームのもつレトリックで だれもが望まない結末を迎えてしまう危惧が 確かに今 存在しています。 よくわかります。しかし、バッハの音楽も人間のミームだし、優れた建築も人間的なミームです。医学もそうですよね?ミームに感じる叙情もあります。我々は、自分で次のミームを選べるのかもしれないですね。地球的なミームの一つがDNAでしょうか?しかし、時代が僕にあっているのを感じます。だから僕が大丈夫なら大丈夫です。暴言と思わないで下さい。 >外に目を開き 内に目を向ける とは正によりよく生きるための あたりまえの手法であるだけなのです。 ほんとうにそのとおりですね。 >自分の時間を世界の改善に向けると 自分のやすらぎは無くなります。 それは 自我の喪失につながる恐れがあるからです。 その人にそれがふさわしいなら、そういう救世的な生き様も当然でしょう。しかし、内に目を向けて生きている人が、その生き様を生きているだけで、それは世界をよくしているのです。しかし、内を見た人間が、世界のことを考えて動くと、それは、良くも悪くの一手でも、百手、千手の意味になります。なぜなら、その人の頭には輪廻?といっていいようなものがあります。その人の一手は世界の一手です。世界には50歩100歩の位ですが、人間、特に周りの人間にとってどれほど影響がでるでしょうか。永遠はどれほど遠いのか。それでも、あなたの一手は大きかったといえるのです。僕はべらべらしゃべるので、殺されるかも知れません。しかし、頭があまりよくないので、伝わることがあまり広がらず、それほど目立たないかもしれません。目立たなければ殺されません。一歩で百歩進む、それが一万人いたらどうでしょう。 ?中には、万の手を打つ人もいるのです。世界は踏破され、変わってしまいます。だから、殺されるのです。だから、あなたのような人が増えないのです。あなたに触れて僕が開眼したように、どんどん増えていくのです。現実的な話になりますが、お金のあり方は変わります。それは、僕のような者が、次の時代までに死なないためです。僕はガキだし、若いので、たぶん次の時代にこそ生きることになるかもしれません。もう止めれません。被害妄想と思わないで下さいね。 自我の喪失についてですが、死んでも自我は保存されます。あなたの言うように、「我こそ ほかのだれでもない 宇宙でたったひとつの我である。」 だからです。風呂の中で水風船を割って下さい。水風船の中の水はなくなりません。しかし、水風船は割れたのです。水の形はなくなるのです。しかしどうでしょう。水風船の水が赤い水なら、お風呂の水に赤が広がっていきます。 外側に続く内側、内方向とはなんでしょうか?そこは、あなたの言うとおり次元が違います。精神は、自我を知る事で次元を越えれるようになります。次元を越えて、情報が動きます。精神が、自我に伝えられます。水風船に色がつくとはそういうことです。精神が自我を開放する時、自我は、精神の形によって、影響をうけるのです。なぜなら、精神の一部は共にすごした自我によって、次元を越えるからです。ここに人間の構造をいうと、指を切って痛いといって血が出るところ、繋がって、精神活動をするところ、その内の一部が自我と接する所、それで自我です。自我以外は、すべて肉体に関与しています。精神が自我と接する部分は、精神活動そのものなので、自我と接し、次元を越えることが出来ます。接している部分は、おなじロジックで結ばれています。自我と接すれば接するほど、色はこくなります。しかし、その行為は、自分から目を、どんどんどんどん離れてさせていく事なので、皮肉な事に、自分ばかり気にする人は、それを死ぬときに失い、自我のためにそうしない人は、それを少なからず得るのです。これを読む方にいいます。自我に近づくには内側に向き、進んでいかなければなりません。目を閉じた方が出来るかもしれません。眠れない時がいいかもしれません。見えてないということは、外側に向いていないということです。そして、chihokoさんの言うように、ミームを排除するのです。ミームはいつもの外側の産物です。しかし、いつもの外側をないがしろにしてはいけません。自分を保存したいからといって、そうしてはなりません。自分を大切にしたい人が、自分をないがしろにするようなものです。自分は外で育つのです。内側を見ていない間は、自我に到達していない間は、自分は外側の者なのです。はかない自分自身を大切にしない者が、自我を大切に出来るわけがないです。厳重にいいますが、あなたや僕は、自我ではありません。自分なのです。自分が、自我に到達するのです。あなたが何も感じる事がないというようなことが、ないように。あなたが、あなたの生き様を生きれるように。今はっきりいえないですが、自分は自我を忘れ、完全にいつもの外側になる事があるかもしれません。もしあれば、そのとき、人はマジで死ぬのです。 >それぞれの次元が違うわけです。だからわからないのです。 自分はなぜ存在しているのか そのわけが 自我には分からないのです。 そうです。なぜなら自分という水風船で区切られているからです。そこが自我の世界になっているのです。赤い水と青い水が会話するとします。別々の水風船に入っていては無理ですが、お風呂に出ると混ざります。思ったらすぐ伝わります。赤と青があって、初めて紫になります。紫を見れば、赤と青があることを知らなければなりません。その時、赤と青は生きているのです。赤と青は、知られている事で生きているのです。人が死んだとき、同じ事が起こります。知られる事で、その個性は保たれます。もちろん、たくさんの人に名前が知れても関係ありません。 ビッグバンのたとえ、そのとおりに同感です。このやり取りで、2年生ぐらいになったかもしれません。自我の解釈が多少ずれていると思います。どうなんでしょうか?
- chihoko
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●存在を言葉という言葉に置き換える必要性を感じません。けれども あなたが それで納得しているのなら それでいいのです。 次のことを自問してみてください。 内に目を向ける時 ミームのなかで感じそして考えていなだろうか? あなたの内に目を向けることが あなたそのものの眼差しであるなら その結果なにがどうであれ 他人がどうこう言っても あなたはもう (キリスト流に言うなら)神の国を見ているのです。 その人のことは その人でなければ分からないと言うことです。 やすらぎは 正に ひとそれぞれのそこに 宿っているのです。 あたりまえのことですが なかなかそこに気が付かないものです。 ミームに縛られないこと 本当の素の自分をみつけること 脳の処理そのものに目を向けること それが わたし流の内に目を向ける手法なのです。 ●愛は本能で 変えることはできません。 けれども真善美恋は生きていく経験次第でどんどん変わっていきます。 かわらない愛が変わる真善美恋のステージの下にある おもしろいですね。 それも人間というキャラクターの構成要素だと感じています。 ●あなたの自分は間違っていないというくぎりは あぶないですよ。 ミームにとらわれし者の決まり文句です。わたしには はっきりと 間違いはわかります。でも自分が正しいとか間違っていないと言う アプローチでは決して思考しません。 あなたが言葉のミームから脱却する日がくることを 期待します。 大工 祭り 稲作 ことばを必要としないミームの例です。 これらは なんと気高く安らぎを含むミームでしょう。 ミームが増殖を始める時 スターウオーズのジェダイとシスの対立の ようなフォースのぶつかりがきっと起こるでしょう。 そのときあなたとわたしのミームの継承が対立するかもしれない 風雪に震える杉林を見て ふと そんな感慨をおぼえました・・・。
お礼
ここまできてもやはりあなたは素晴らしい方でした。こういう出会いもあるものだな、 と、一つの出会いが去っていくのを感じます。 >存在を言葉という言葉に置き換える必要性を感じません。 その通りですね。いやっ、ほんとにそうです。ミームの出身として、そうなってしまったのでしょうね。よくわかってきた。 >愛は本能で 変えることはできません。 そうですね。とくに、合理性などではかれるものではないです。はかるべきかもわかりません。生き様はおおく愛に関わることが出来ます。 >あなたの自分は間違っていないというくぎりは あぶないですよ。 ミームにとらわれし者の決まり文句です。 そうですね。もう少し慎重にいきます。僕は長風呂からあがったばかりで、まだのぼせています。あなたのご忠告は僕の味方になるでしょう。しゃべらなくても、発せられるようになりたいです。ぱぁっと開けるイメージだったんですが、僕はそれほど勢いづいてなかったようですね。あれ?って感じでした。驚いてたんでしょうか。しかし、長風呂から上がると気持ちのいいものです。あなたの言葉が助言となり、そこからの光が風となり、フゥーってかんじで気分いいです。朝です。聖書や経典(外装は言葉やミームとしてありますが)からもそうです。しかし、あなたの風には人間味を感じます。素晴らしいです。 牛乳飲みたい、、、。 >わたしには はっきりと 間違いはわかります。でも自分が正しいとか間違っていないと言う アプローチでは決して思考しません。 非常に参考になります。僕は真理になったわけではないのです。だから、僕が正しいというのは危険でした。のぼせて、こけて、金属蛇口に頭をぶつける所でした。しかし、あなたの助言を受け取れるようになった。そこが解ったと言うことのあかしとしてあります。若気の至りというものをよくおさめてくれました。真に自己の目に到達するというのは僕の場合、まず真理を見るということだったのです。真理に繋がる事です。そこが入り口です。僕は、まだ自己の目の見るものが、広く、深く、細かい事をそれほど実感できていません。これから目がクリアになるように。こんな言葉もありました「他人の目のチリを、取って上げましょうという前に、自分の目の梁を取り除け。そうしてやっと他人のチリを正確に取ることができる」 >あなたが言葉のミームから脱却する日がくることを 期待します。 その日はきっと僕に訪れます。僕が、徘徊する言葉たちを、真理によってより分けられるようになることを、、、。言葉が続きませんが、一年生の一番背が低いものとして、幼稚園の記憶に惑わされないようにします。記憶を捨てる勇気を試される時がもうきているのかもしれません。記憶を捨てるというのは、あなたのいう言葉のミームから脱却するということです。でも、懐かしい思い出は別で、僕のからだの一部です。一度しぬまで捨てれません。 >内に目を向ける時 ミームのなかで感じそして考えていなだろうか? あなたの内に目を向けることが あなたそのものの眼差しであるなら その結果なにがどうであれ 他人がどうこう言っても あなたはもう (キリスト流に言うなら)神の国を見ているのです。 その人のことは その人でなければ分からないと言うことです。 やすらぎは 正に ひとそれぞれのそこに 宿っているのです。 あたりまえのことですが なかなかそこに気が付かないものです。 あなたは、正しい助言をされます。また、僕の判断で正しいとか言ってしまいましたが、いまさらながら、後押しされるのですね。ありがたい限りです。面倒見の良い方です。今の僕に、あなたのご助言はすごい助けとなり、すごい励ましになります。その人のことはその人にしかわからないのですね。あなたの指摘された部分が的確に僕にありました。僕の見た真理が、イエス、仏陀、諸々の助言、そしてあなたの言葉と一致する。一致するのを見るまでもないほど、ぼくが成長すると素晴らしいですね。 ことばを照らしあわせなくても、輝ける光を放てるように、僕が光になるように。あなたの言葉は輝いています。それは、言葉が輝いているのでなく、それに宿る光が輝いているのです。書き換えられた聖書や書き換えられた経典に、変わらず残る光を見出せるように。何気ない一言を照らし出すように。 >大工 祭り 稲作 ことばを必要としないミームの例です。 これらは なんと気高く安らぎを含むミームでしょう。 ミームが増殖を始める時 スターウオーズのジェダイとシスの対立の ようなフォースのぶつかりがきっと起こるでしょう。 そのときあなたとわたしのミームの継承が対立するかもしれない 風雪に震える杉林を見て ふと そんな感慨をおぼえました・・・。 ハハ、分かる気がします。僕は祭りの空気とかゼンゼン好きでないですから、、。芭蕉もなんかねぇ?って、正直な所感じてしまいます。でも、祭りから少しはなれたところはすごく好きです。そこに祭りの空気を感じます。祭りに行く人の姿、足行きとか、届く音とか。なんか辛気臭いわけではないけど、祭りから少しはなれたところがいいです。夏休みの夜の、学校のプールとか、存在がよく現れています。虫とか鳴いてるし、ああ、なんともいえないですよね。そうとしかいえないです。突然ですが、ここで解説というか、もう少しお話を聞きたいと思うのですが、それは、ミームについてです。叙情とミーム、ミームの増殖、ミームと存在、ここら辺をお話しいただけるとありがたいです。また、別に他のお話でも構わないです。ミームについての認識があまりまだありません。 どうでしょうか?
補足
ぬけがらを見た 夏休みの夜に 学校にいった プールのところで ブワァッと全部 風に吹かれ それからすこし 虫が鳴いたような 雲は月に照らされてる けど ホタル ハ イナイナァ 僕の叙情詩を書きました。どうですか?題は ぬけがらを見た です。季節外れですみません。これが僕の季節です。
- chihoko
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●言葉が根源的・・・というあなたの考えは 間違っています。 あなたの発言のなかに常に感じている疑問だったのですが。 言葉の何たるかを ちゃんと認識できていないようです。 言葉はミームの一部で考えることのひとつの道具にすぎません。 ことばのない時代の人間でも 真善美と恋を持ち イメージで考えることが できました。たとえば美しい人を見て花を連想して 花をみてそのひとを 想起する といった具合です。 ことばとはミームの申し合わせ事項にすぎないのです。 言葉が無くとも世界は存在します。ありのままに・・・。 ●ビッグバンを言葉で理解しようとする そして理解したとする それは言葉という宇宙物理学という論理で認識し得ただけで ビッグバンの本質になんら影響も関係もないことです。 なぜなら申し合わせ事項の中での話だからです。 本質は分析も解明をも望んでいません。あるがままでいいのです。 人間のやっていることの「愚」を認識した先に ほんとうの価値判断が 待っているのです。
お礼
>あなたの発言のなかに常に感じている疑問だったのですが。 言葉の何たるかを ちゃんと認識できていないようです。 僕は言葉に内側を見出し、あなたは叙情に内側を同じく見出します。 ですから、あなたが僕よりも叙情に大きく目を開いているのと同じように、僕はあなたよりも言葉において大きく目を開いているのです。それが僕の通り道であったのです。あなたは別の通り道をあるいて同じ所についたのです。それが、僕と他者の違いでもあります。だからあなたも僕も間違っていないのです。僕が後に叙情を知ったように、あなたは後に言葉を知ります。 言葉なくして世界は存在しません。人間の言葉は、いかに小さいものか。叙情とはなんて広いのか。人間の言葉はなくても世界は存在するのです。しかし、真理の言葉なくして、世界が存在することはないのです。 >それは言葉という宇宙物理学という論理で認識し得ただけで ビッグバンの本質になんら影響も関係もないことです。 なぜなら申し合わせ事項の中での話だからです。 本質は分析も解明をも望んでいません。あるがままでいいのです。 そのとおりですよね。しかし、言葉の解釈を少し得た者として少し言うと、宇宙物理学という言葉です。「普遍な物」と、「物」とどちらが普遍か?というと、「物」の方がそうなのです。あなたはどこかでおっしゃっていた。多くを書かない方が多くを伝える。言葉は人間よりも大きいのです。そして、一つの存在は一つの言葉です。我々が名前を呼ばなくても彼らはすでに名前がついているのです。それがそうであること、あるがままであることは、だからなのです。chihokoさんは間違いなく間違っていない。僕ももちろん間違っていないのです。僕らの間にあるのは人間の壁です。それだけなので、何も問題はないです。 どうでしょうか?
- chihoko
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●ウサギの献身を いのちの昇華として肯定することに 誤りを感じます。いのちの昇華という意味でいうなら死因が猟師であれ 狼であれ つまづいてころんだであれ 同じですよ。自然に回帰するわけですから。 大切なのは [ 自分と他者は違うんだということを 真にわかることです。] 自分で死ぬことも殺されることも悪です。 殺すことも同じくらい悪です。わたしたちは その悪を日々食べるという 行為で行っている・・・。ここをちゃんと認識して生きることが まちがわない秘訣だとおもいます。 ただひとつ わたしが許せる献身があります。 ●それは こんな実験を披露してからお話しましょう。 サルの親子と人間の親子を同じ釜で炒めるのです。 サルの親は子の上に乗って生き延びようとします。 人間の親は自分の上に子を乗せて 自分が死んでも子を生かそうとします。 人間の愛による献身 これだけは許そうと思います。 ※戦争は人間の愛をミームで巧みに利用したレトリックです。(注意:これは許さない) ●宇宙の始まりについて すこし話ましょう。 最近の宇宙物理学では ビッグバンの初期設定数値が6つあって その代入数値をすこしでもずらすと 人間が存在できない宇宙になる というものが あります。あたりまえ と言えばあたりまえですよね。 このことから わたしが 感じることは。 ビッグバンに数値を代入できるということは 複数の宇宙いや無限の宇宙の 存在を否定できないということです。 人間のような命のある べつの宇宙もあるだろうし 神様だけが住む宇宙も あるかもしれません。実にわくわくする話(事実)です・・・。
お礼
ありがとうございます。 >大切なのは [ 自分と他者は違うんだということを 真にわかることです。] そのとおりです。だからこそ、あのうさぎの行為に意味があるのです。意味というと、chihokoさんにはミームなどのマイナスイメージからよくない印象をうけられるかもしれませんが、そうではないです。 >自然に回帰するわけですから。 自然に回帰する。これは普段生きているのと同じ事で、これは昇華ではないのです。昇華すると死ぬ事がなくなります。とらわれる事がないのです。 >わたしたちは その悪を日々食べるという行為で行っている・・・。ここをちゃんと認識して生きることがまちがわない秘訣だとおもいます。 こういうセリフがあります。 「口から出るものが人をけがす。口からでる言葉(ミーム)が人をけがすのだ。口から入るものは人を汚さずかわやに出る。」 真理は間違うことのない言葉です。 >ただひとつ わたしが許せる献身があります。 僕の知っている話はこうです。 その町は燃えていた。B29のじゅうたん爆撃により、母子は熱風の吹く公園に追いやられたのです。ぬらしてもぬらしても小さな子どもは渇いていきます。乳もつき、ついにぬらすものがなくなった。しかし、母親はすることを見失わなかった。 自身の血管を食い破り、その大量の水分で鳴く子どもをぬらして静めたのです。 数日がたち、火は消える。熱い空気の下の町に、外側から風が吹き込み、母子は落ちた葉のように、それに乗って消えました。母は枯れ果て凧になり、子は枯れて、小さい凧になりました。 人間の愛による献身です。 もう一つ話があります。 彼の父は猟師であった。たくさんの獣を殺したので、彼は獣に食われて死ぬ事になっていた。名をアッサジという彼は預言者であったので、幼くしてそれを知っていた。しかも、決まった日の決まった夜の一時に死ぬ事を知っていた。彼は「僕はこの日に飢えた獣に食われて死ぬんだ、シッダルタ。君はおなかが弱いので、それが原因で死ぬよ。それがいつか知りたいのかい?」「い、いや、やめとくよ、、。そんなことよりも、その日、僕は君を木の上にやり、一晩中の間そばで見張っていよう。絶対死なせるものか!!」 しかし、シッタルダはうとうとしてしまいました。その隙にねずみが、アッサジにかけられていた縄を食いちぎり、アッサジは木下の茂みの奥に入っていきました。 目が覚めたシッダルタは、大声を上げてアッサジを探したのです。彼を見つけたときが、まさにそのときだったのです。わたを食いちぎられ、生きたままアッサジ少年は、飢えた狼の子に与えていたのです。 シッタルダはその後悟りを開き仏陀になるのですが、その時、小さき友、アッサジが、いかに偉大かを知ることができたのです。そして、アッサジの言ったとうり、彼はおなかを壊してその生を終えたのです。 大事な事はことはこれです。 小さい者、大きい者、数多い者も、命の尊さは等しい。だからこそ、命の罪を償うのは命にしか出来ないのです。親の命もこの命も等しく重い。その証拠をchihokoさんなら見ることが出来ます。生物達を見てください。彼らは獣であるはずです。 >人間のような命のある べつの宇宙もあるだろうし 神様だけが住む宇宙も あるかもしれません。実にわくわくする話(事実)です・・・。 そうですね。面白い話をありがとうございます。僕もそう思います。宇宙物理学は素人にも解説されてあることが多いので、そういうものは読んでいて面白いですよね。
- chihoko
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その2 ●作為がないのは何ですか?と問われましたので お答えします。 ミームのないすべてです。ミーム=作為ですから。 自然はおおむね作為は無いです。 でもカラスにはミームを感じます。カラスは論理を持っている。たぶん。 ずるがしこいなぁと感じるということは ミームを持っている可能性が あるんですよ。 ●クマとキツネとウサギの話について。 わたしは ウサギのことを抱きしめてあげたいと思いました。 ウサギの行動は いろいろ解釈があるでしょう。 ここでは献身の行為として とらえてみましょう。 献身は博愛よりも純粋なこころの形容だと思います。 博愛にはおごりがありますが 献身にはおごりはありません。 しかし どちらも思慮の浅さを含むものです。 ウサギがクマとタヌキのために献身したとしても。 ウサギのお父さんお母さんやご先祖様に対しては献身の行為を止めたことになります。 ウサギは生きてその命を生き切ってこそ めんめんと繋がってきた命の 存在に献身したと言えるわけで。できれば子孫をのこして・・・。 それを自ら絶ったと言うことは 自分につながる全ての命 (今まで食べたものの命も含む)への 献身を放棄したこととなるのです。 ●あるがまま についてすこし・・・。 天動説の時代でも変わらないこと それが叙情です。 内に目を向けて脳の処理そのものに 着目して考えつづけると ミームを完全消去して ほんとうに自分にとってたいせつな「もの」が 見えてきます。 いやいや こころがその情景に寄り添う感じです。 古池や 蛙とびこむ 水の音
お礼
僕の感謝する人にまた会えてうれしいです。 僕の言う言葉の3分の一はあなたの言葉です。叙情の言葉です。3分の2は、イエス 仏陀 諸々の感謝すべき助言たち、そして真理にそれを捧げます。 >ミームのないすべてです。ミーム=作為ですから。 自然はおおむね作為は無いです。 念のためにお尋ねしてよかったです。誤解する所でした。今なら大丈夫です。 自然はおおむねさいがないのは何故か?なされているからです。あるがままなのです。 >ずるがしこいなぁと感じるということは ミームを持っている可能性が あるんですよ。 分かる気がします。それは自身のミームと共鳴(一致)しているからかもしれないですね。 いい意味でも悪い意味でも、共鳴というものがどういうものか、少し考えれるようになりました。 >それを自ら絶ったと言うことは 自分につながる全ての命 (今まで食べたものの命も含む)への 献身を放棄したこととなるのです。 いや、このうさぎの行為により、今まで繋がれてきたいのちが昇華したのです。DNAだけがいのちではないのです。もはやうさぎはとらわれません。もちろん、猟師につかまる事も、狼に見つかる事もありません。それは、命を確保したのです。しかも、うさぎ自身の命を捨てる事で、うさぎが継承してきた繋がるすべての命を昇華したのです。そして、あなたがこのうさぎを抱きしめたいと思ったように、だからうさぎは天に上げられたのです。このようにして命を捨てる者が、それ(命)を得るとはそういうことです。 >ミームを完全消去して ほんとうに自分にとってたいせつな「もの」が 見えてきます。 いやいや こころがその情景に寄り添う感じです。 やってみる価値はあります。 また、chihokoさんのご感想、ご助言など聞けるとうれしいです。 追申:NO.13 NO.14にたいするお礼が、僕が今まで教えて!gooでお世話になった 方にしてきた御礼の最善のものです。今まで僕にご助言してくださった方々に、これらのお礼が届く事を願います。
- chihoko
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●また わたしです。 互角に話せるようにするなら 話題を変えてみましょう。 内に目を向ける は あなたにはまだ理解できないようです。 たとえばトートロジーの内を見たい←あなたの言葉です。 このあなたの言葉についてすこしわたしが話しましょう。 ●見えていないから見たいのか 見えているけどみたいのか? 当然のこととしてあることが なぜ当然なのか? すべての論理は「ある」ということを肯定してはじまります。 いまだ あるということを証明したひとはおりません。 E=MCxC が真理であった つぎの瞬間にはブラックホールの 存在が観測されて それが真理ではなくなってしまう。 あるということが 証明できない以上 すべての認識は相対的な 認識であるとしか いえない。 よってトートロジーの内をみることは できない。 見ようとするだけ無駄です。 トートロジーの内が見たい というポエムと言われても わたしにとってはそれは詩ではありません。 叙情にうそはない。 トートロジーの内が見たいにはうそが含まれる。 思慮の浅さといううそが含まれる。叙情にうそはない。 作為のない あるがままに心を寄せること それが叙情です。 ●ま こんな具合で 話題を変えることで別の部分が見えるかもしれません。 何について話しても 内に目を向けて生きてきた人間の回路が 垣間見えるものです。 わっかるっかなぁ ま いいか・・・。 外に目を開いてるだけでは 知識の羅列 知識の披露にしかなりません。
お礼
>見えていないから見たいのか 見えているけどみたいのか? 当然のこととしてあることが なぜ当然なのか? すべての論理は「ある」ということを肯定してはじまります。 いまだ あるということを証明したひとはおりません。 E=MCxC が真理であった つぎの瞬間にはブラックホールの 存在が観測されて それが真理ではなくなってしまう。 あるということが 証明できない以上 すべての認識は相対的な 認識であるとしか いえない。 よってトートロジーの内をみることは できない。 見ようとするだけ無駄です。 どうでしょうか?E=Eとしたけれど、実際は右のEと左のEとは違う。そこを=(トートロジー)によって見ているのでしょう。それが世界を見るということなので、トートロジーが示す者なら、その内側を見るという行為の可能性を捨てるには至りません。内側はあると思います。トートロジーは限界ではないです。chihokoさんももちろんですが、回答者の方のおかげで、自分で何をいっているのか分からない僕がいつも分かるようになります。本当に感謝しています。 >叙情にうそはない。 トートロジーの内が見たいにはうそが含まれる。 思慮の浅さといううそが含まれる。 ここでは違います。トートロジーの内が見たいには確かに嘘があります。それはトートロジーの世界だからです。だから、禁止されているかのような嘘をつく行為が、それをあばくことになります。そのときはきっとあなたの叙情もあばかれるでしょう。しかしトートロジーがなくなるわけではもちろんないです。トートロジーも一つと数えられるようになると思います。だから、叙情は嘘でないのには変わりありません。 >叙情にうそはない。 作為のない あるがままに心を寄せること それが叙情です 分かりました。確かに叙情に嘘はありません。それと、広いということが分かりました。念のために聞いておきますが、作為がないのはなにですか? >何について話しても 内に目を向けて生きてきた人間の回路が 垣間見えるものです。 そうですね、僕にもほんのチラッと見えたように思います。 >わっかるっかなぁ ま いいか・・・。 今回は少し分かったと思います。何度もchihokoさんがご助言してくださったおかげです。chihokoさんのお考えが前より身近に伝わるようになりました。無理を言って何度もきていただいたおかげです。本当に感謝しています。ありがとうございます。 >外に目を開いてるだけでは 知識の羅列 知識の披露にしかなりません。 その時私はきっとありませんが、あなたの内側も外側だとされるかもしれません。 >ま こんな具合で 話題を変えることで別の部分が見えるかもしれません。 ほんとうですね。chihokoさんの親切、大変うれしいです。お話続けてくださるとすごくうれしいです。(話題が変わっても、それがこの質問の回答に繋がる事は間違いないです。) 博愛の話が少しでましたので、より詳しいご意見お聞きしたいと思いますが、なんの話題でも結構です。chihokoさんのいいと思う話題を提供してください。 こういう話です。 ある年取った僧が、荒れた山で野垂れ死にかけた。出あわしたクマときつねとうさぎがおり、彼らは相談して食べ物をそれぞれあつめに出かけた。クマは果物を、きつねは冬用に蓄えていた木の実をその人にと持ってきた。しかしうさぎは何も持ってくる事が出来なかった。クマときつねはそんなうさぎをさげすんだ。 そこで、うさぎはその人に火を起こすように頼んだ。うさぎがしきりにいうものだから、その人は訳も分からず火をおこした。 火がいい大きさになった時、うさぎは突然火の中に投身した。その人は驚いたが急いで火を消した。しかし、うさぎは焼けて死んでいたので、その人は天にうさぎをかかげ、クマときつねと悲しんだ。その人はうさぎが天にやられるのを見た。 この話を僕は今はわかるのですが、僕は捨て身や保身について見えます。 光をあてれば影が出来ます。それはそういう光であり、そのようにあてられているからです。別に、光をあてれば影が出来るとは限らないのです。それは、隙間なく光るのだといえます。博愛とはそのようなものと僕は考えます。うさぎの思慮は確かに浅いかもしれません。彼は程よく焼ける前に火から取り出されてしまう事すらも知らなかったのです。しかし、生焼けの体よりもずっと素晴らしいものを捧げたのです。 この事でもchihokoさんとお話しできるとうれしいです。お返事お待ちしております。
- chihoko
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●内に目を向けて叙情にやすらぎを見出せるまでには かなりの考える時間が 必要です。考えることを繰り返すうちに 1を聞いて10を知る脳の回路が できるようになります。そうして今わたしは叙情にこころを寄せているわけです。 いろんな方々と接していて思うのですけれども 哲学の教授も含んで ひとは脳の中枢処理野にかなり個人差があるなぁ・・・と。 いまだわたしと互角に話せる相手を見出せていません。 パソコンで言うとCPUのキャシュメモリーの違いです。 イメージや言葉や感覚や論理をシェークしてひとつのまとまったものを つむぎだす部分です。ここに個人差がある。 残念ながらあなたのキャッシュは小さいようです。 パラノイアのいっぽ手前でしょう。これ以上深入りしないほうがいいでしょう。 身の程を知って その器にみあった生き方を選択するのが賢明というものです。 参考までに最近のわたしのこころを捉えた人物(そこそこ話せるかもという感じ) 辰巳芳子さん(料理研究家)を紹介します。 彼女の言葉には内に目を向けた その行き着く先からでてくるものを感じます。 わたしは ボーっとしてるのが好きなのでまとまった文章はありません。 おひまなら辰巳芳子さんの文章に出会われることをおすすめいたします。 分析するキャッシュがなくとも なにか得るものはあるでしょう。
お礼
>内に目を向けて叙情にやすらぎを見出せるまでには かなりの考える時間が必要です。考えることを繰り返すうちに1を聞いて10を知る脳の回路ができるようになります。そうして今わたしは叙情にこころを寄せているわけです。 そうですか。 僕は、それと同じ1なのにすべてをあたえる1を探しています。 >残念ながらあなたのキャッシュは小さいようです。パラノイアのいっぽ手前でしょう。これ以上深入りしないほうがいいでしょう。身の程を知ってその器にみあった生き方を選択するのが賢明というものです。 身の程も知らないので選択も出来ないですが、あなたにとっては他の人がどうある方が賢明ですか?パラノイアがどういうものかわからないですが、事実僕はすごく賢くないです。多くを知ることは出来ません。でもその事で残念がらないで下さい。せっかくあなたは性能のいいパソコンで幸運なのですから。 >分析するキャッシュがなくとも なにか得るものはあるでしょう。 ありました。この人には母親がいるのですね。 アドバイスありがとうございます。無理を聞いていただき本当に感謝しています。
補足
今日(1/14)だから僕はいえます。 すべてを与えるのはすべてであるので、一などと数えれる者ではありません。 あるとかないとかも言う必要はないです。
- chihoko
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●時間が無くって 詳しく説明できませんが じょうずに自分で解釈してください。 すべての命は DNAのもたらした現象にすぎません。 現象にその存在の理由を捜すこと自体 ひまつぶしでしかありません。 ミームとはDNAを介さないで時間を超えて伝達するすべてのものの総称です。 あなたの感じている愛とは 博愛のようなもので 愛ではありません。 博愛は 思慮の浅い人間が感じる善のような感覚で 思慮深く考えれば 光をあてたら 必ず影ができてしまうことが わかり したがって真の博愛なんてありえないことに気づきます。 愛とは 前述のように対象に対する情念でしかないのです。 ステージは第二です。傍観できます。 叙情になにを感じるかは ひとそれぞれです。 なぜ わたしが叙情を言い出したか・・・。 叙情とは あるがままにこころをよせる行為です。 景観から風景 時間という概念をふくんで 情景 そいて叙情へと昇華します。 内に目を向けることで 行き着く先 それが叙情です。 そこに気づいてほしかったです。 叙情の大家 たとえば芭蕉です。 田一枚 植えて立ち去る 柳かな あるがまま あるがままなんですよ・・・。 わっかるっかなあ。
お礼
アドバイスありがとうございました。 >内に目を向けることで行き着く先 それが叙情です。 そこに気づいてほしかったです。 そうなんですか?気付きませんでした。 >あなたの感じている愛とは 博愛のようなもので 愛ではありません。 あなたの感じる愛は共鳴でいいですか?仮に、あなたが愛を感じるもの、あなたの愛する者物が、がすべてあるがままに移り行き、あなたを残し去った。あなたの愛は消えますね?あるがままに。そして、そのあるがままに心を寄せ、そして叙情に浸るのですか? 僕が、あるがままのうち、よきと捉えられた現象、それがただいい。それがそれでいい。理由なんてどうでもいい、と感じるものはあります。それが愛とは考えていません。善とも美とももはや言いません。それはそうだとします。それらはあるがままなのですから。 >思慮深く考えれば 光をあてたら 必ず影ができてしまうことが わかりしたがって真の博愛なんてありえないことに気づきます。 それを知り、影を見るために光を当てることを僕は否定しません。なぜならば、光がなければあるものもないからです。 >叙情とは あるがままにこころをよせる行為です。 巨大な観点をお持ちなのですか?あなたのいうことは無我の自体です。西瓜割の事態にも、芭蕉の詩世界にも、心を寄せるのですか?それともあなたの心の行くままに寄せるのですか?あるがままにあなたの心があるのですか?あなたには何が見えているんですか?僕に見えずにあなたに見えることを教えてください!それともそうではなく、自我のままに、DNAのままに、あるがままにあるとおっしゃるのでしょうか? >すべての命は DNAのもたらした現象にすぎません。 現象ははすべて流れます。DNAは現象ではないのですか?それともミーム的なものの中身を保有しているために伝えられるんですか? >ミームとはDNAを介さないで時間を超えて伝達するすべてのものの総称です。 見れば分かる。それは流れていないに違いないと思う。 >互角にはなせる相手が ほしいなあ・・・。 じゃあ僕を互角なるようにしてください。一月初旬までにぼくはここにいれなくなるので、お時間が許す限りここにきてください。それまでここはしめません。待っております。 あなたのあるがままが、僕らの言う我がままでないことを望みます。僕らは、あるがままが我がままで、叙情であると言います。あるがままなのだから。 ぼくはあなたとの話で、移り行く命の所在たち、流れ行く場所たち、よりも、真にあるがままのもの、まさに真理をえることを少し期待します。それがあなたの話を理解した時にそうなるのか、してもそうならないのか、別にどちらでもいいです。是非話を続けてください。あなたのお話に知性は必要ないです。このまま去ってしまわないで下さい。宜しくお願いします。
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お礼
うおー!って感じです。chihokoさんはイケてますね。ほんとにそう思います。 >このスタンスは大切です。存在とトートロジーを問うスタンスよりも確かです。 お話を聞けて、なんか、かなりうれしいです。 今このように考えます。一つの歯車だけを見ても時計は見えてきません。chihokoさんのおっしゃることで出てくるトートロジーや、存在でさえも、ひとつの歯車に過ぎません。ですから、chihokoさんの取るスタンス、そのセンス、すばらしいと思います。 >いままで存在そのものを証明した人はおりません。 存在ということがあるということなら、世界のはじめについて言ってみます。それは「あってないようである。」世界はそこになく、時間どころかカオスもまだない。あってないようであるものは、あれと言って、はじめてあるがあった。書いてみたものの、なんかすごく分かりにくいですね、、、。申し訳ないです・・。言葉というものが、およそ根源的、原初的なものであることを言いたかったのです。それは、今の話題のトートロジーよりも、ミームよりも、世界よりも、根源的です。そして、それらすべてに繋がります。はじめにそれはあったのです。だから、今、言葉にかかわらない者はないのです。ない者はないのです。あぁ、、また分かりにくい・・・。 >トートロジーが真理であることを証明したひともおりません。 なぜならトートロジーは真理ではないからです。 >しかし ここが重要です。その不確かな世界のなかに身を置いて わたしたちのご先祖様は 生き そして死んでいった。 その解を見出しても過去の事実の中の変わらないものに目を向けたい。天動説の時代でもかわらないもの。 トートロジーの内が見えたとしてもかわらないもの それこそが大切なんです。 ああっ、今正しい事が分かる。あなたの言ってる事が正しいと分かります。 「それこそが大切なんです」そうです。それこそが大切なんです。 >脳の処理で一応の解が見出されても それが脳の処理無しで真理だろうか? 脳の処理ナシになると、真理しかなくなります。もちろん自我もなくなります。 しかし、少し引っかかります。まだまだ僕は完全にわかっていません。脳の処理がなくなっても、何らかの言葉が残るかもしれないと考えています。 >んで たとえば脳の処理無しで真理だろうか?を考えてみる。 ここで言う脳の処理とは論理と限定しましょう。 すると論理のなかにトートロジーも含まれている訳です。 そうです。トートロジーなくして論理はありえません。 >この論理を無くするわけですから。ひらたく言うと考えないということになります。 考えない世界にはたしてトートロジーは存在するか?という事になります。 うぅ、、。難しくなってきましたね。真理の奥は深く細かいですね。 考えない世界には真理があります。世界はどうでしょう、。世界はトートロジーや、ミーム、諸々の言葉によって、それらが回転するような感じであります。 結論としては、ああっ!考えないと世界は広くなります。ですから、トートロジーやミームも、存在します。ただ違うのは、それらにとらわれないということです。広くなったのですから。ああー、内を見ると広がるのです。なんてことか! chihokoさんの言う事は間違ってなかった。sokuraさんも間違ってなかった。jumeさんも間違ってなかった。しかし、僕も間違ってなかったのです。そして、僕は正しいのです。以前の僕がいたところからは内に見えていた。しかしだからどうだというのです。内という者が外より低く、狭い者ではないのです。 >究極の問いを探して そこから 逆に「トートロジーの内が見たい」まで さかのぼればいいじゃないか! いや、chihokoさんはイケてますね。まいります。究極を探すとトートロジーは行き過ぎてしまいます。そして、説明的な意味としてさかのぼれます。素晴らしいことを言われますね。ああっっ!いまさらまた僕は賢くなかったです。ありの行動にも、ドモルガンの法則や二重否定は知りませんが、その法則にも、トートロジーにも、内側はあるのです。およそのものにその内側はあるのです。その内側は広く深く細かいので、およその者(石の存在やありの動き、ドモルガンの法則、諸々)に繋がっているのです。内側を見るということは、糸を手繰り寄せ、自分を内側を通して外側に連れ出す行為だったのです。その外側から見ると、今まで見ていた内側は、真に内側となり、かつての外側に続いているのです。解った。chihokoさんが叙情に行き着いたのは正しい。僕がトートロジー、言語ゲームにめぐり合い、たどり着いたのと同じように。僕は、ドモルガンの法則から、トートロジーから外側に抜け出し、あなたは、ありの行動、石や水の存在から、叙情から外側へ抜け出すのです。今、イエスの言った事が証明された。「神の国はそこにあるあそこにあるというものではない。じつにそれは、あなた方のなかにあるのだ。」 >わっかるかなあ?・・・不安。わかってくれよーモー! 今日は特にがんばりました。ように感じる。今までもがんばっていたのだろう。chihokoさん、あなたはよく僕の手を引いてくれました。今 僕の行った海を思い出します。それはこうです。 海がなんて深いんだろう。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。 これが叙情です。間違いないと思います。詩的にはゼンゼンですが、今の気持ちに偽りはありません。 人との会話は素晴らしいですね。
補足
ここのお礼で僕がいっている「考えない」とは、無為の事です。無為とは、すべてを認めると言う事です。無為とは、作為のないことです。 今日は成人の日ですね。まぁたまたまなんですが今日ここを締めます。 12/2に、へろへろと人が立ち上がりました(笑。その人の上に、その人は立つのです。これが自立と言う事であり、その人は、すべてにおいて立っています。自分を見失う事がないのは、無為に見ているからです。すべてを見て自分を見ない。そのことで、自分という場所に立っているのです。ドコにも立たない事で、自分に立つのです。この人が成人(解脱)するような事はありません。その理由は以下に示します。 以下は、NO。1の回答に対する補足分の最後です。 >自我の所在は、内的宇宙と外的宇宙の境界のようなところだと言いたいです。外的宇宙がウィトゲンの言う内省の世界でも、内的宇宙はなくなりません。内省の世界の言語(今の思考)も、外宇宙と呼ばれる世界の言語(諸現象)も同族と考えています。 いつも乱文で本当にすみません。どうか今回も許容していただけるとありがたいです。最後の3行は大きく誤っているかもしれないので、すが、ご助言いただけるとありがたいです。再どの登場お待ちしています。この質問は締め切るのは当分しないつもりです。宜しくお願いします。 この三行、間違っていません。注意すべき所は、「今の思考」と書かれている所です。ここでいう、「今」とは、一瞬の事で、今とか、さっきとか、ついこないだ、とか、「数えれるもの」です。これらは、数えれば数えるだけ、無数にあります。歴史とは、今の積み重ねである。と言うところの「今」に、囚われてはいけません。そういう意味で「今」を使っています。 しかし、ホントに言う「今」とは、「永遠」の事であるのです。 すべてが今にあり、いつ?などと、とうことはありません。 あなたは、今を使う時、このように解釈してください。 「僕らは同じ世界に住んでいるか」と言う問いに対しての応えは、 「僕らは、世界の果てで逢える。」 僕は、世界の果てに、皆に逢いたい。逢う人と逢いたい。だから、僕が成人(解脱)することはありません。解っているけども、脱する事はしません。 僕は、世界の果てに来たのです。世界の果てに行ったのです。行くと来るは同時であり、行って来るのです。すでにきており、すでに行っており、行く場所も来る場所もありません。その場所、世界の果てとは、僕という場所です。あなたは、あなたという世界の果てがあります。そこで初めて、「出逢う」のです。僕は、世界の外から来た事(あなたもそうです)を知っています。今、世界の果てにいながら、世界にいます。当然です。世界のドコにいようが、何時いようが、僕は僕の場所にいるからです。しかし、世界に出たのは、皆に逢いたいからです。皆を置いて、先に行くようなことはしません。皆を先で待たせて、後で僕が行きます(笑) 待たせてごめんなさいって感じですか?(笑 ですから、はやく先に行ってください(笑 あなた方が、先で待つべきです。 しかし、最後まで世界に残った者が、最初に行きます。最初に世界の果てに入ります。何故なら、世界の果てに来た皆が、最後の一人を置いて、先に行ってしまうようなことはないからです。僕のようなものは、たくさん出てくるし、すでに出ています。皆がしんがりになります。 僕の戸を涙が叩く 雨音で眼を覚ます 君の涙 果てで 僕の眼を覚ます 涙は僕の戸から 果てで目を覚ます 世界の果てに 僕と逢う君