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みなさんの言葉で語ってください。できれば、平易にわかりやすく。

 大人になるにつれ恐れることはなくなったのですが、それでもふとした瞬間、自分が存在する世界が不思議でならないことがあります。なぜ人間は存在するのか。この世界は何なのか。いくら言葉を費やしても解明できないし、それに成功した人はいないと思うのです。(ただ、宗教信者の方は、その宗教の教えるところが答えなのかもしれませんが)  幼いころに、教会に通っていたので宗教に抵抗はなく、聖書などもよく読みます。読むのは古代史実としてよむのであって、神の存在を幼いころのように信じることはできませんが・・。ただ、宗教に、一つの見方としてみると、ある真理が含まれているような気もします。  皆さんは、この世界をどのように捉えていますか。そして、人生や生、死をどのように受け止めていますか。     いろんな方に答えていただきたいです。中学、高校生にも、主婦の方、なんらかの宗教を信じている方を問わず。  観念の遊戯と思われるのは止してください。自分の言葉でわかりやすく、お願いします。

みんなの回答

noname#50219
noname#50219
回答No.2

世界は何で在るのか、台風の過ぎた鮮やかな黄昏の中、団地跡、新しいマンションを建設するため整備された更地を囲う、柵の外にある団地の門の残骸の上に立ち、沈む日の上に吊るされた、三日月 明星 黄昏と雲達 、そして、その更地を眺めて思いました。   道だ。何もかもが、道を待っている。他と区別ない私でさえも。そこの家の塀も、アスファルトも。時も。 そして、道なのです。世界は。 道によって全ては消却されて行く。 そして私はそのまま、日の沈む方向へ歩いてゆき、日の沈みきった夜、家路をとりました。しかし僕はその時、旅をしていました。きっと今もです。 存在に来て、帰ってゆく。 道の現れです。 全ては、道の現れです。   どうやって生きてゆこうか、考えるのが困難になって来て、如何な動機を浮かべてみても、効力を発揮しない。生きることは帰り道であり、旅路の途中なのです。 生きることに、動機などいらないのです。 棒のように立っているのです。   それが、台風の過ぎた後に見る、三日月 明星 黄昏であるのです。

kasaharasingo
質問者

お礼

 回答ありがとうございます

noname#117439
noname#117439
回答No.1

これを言ったら哲学を否定することになりますが、現実に疑問を持つのはある意味それ自体が病理です。 死について考えてみると、人は誰でもいつか死ぬ。これは単純な事実で疑問の余地はありません。死についての恐れはあなたの本心とは別のところから出ているはずです。 人間とはより輝く光に向かって、自らの足で歩んでいける存在とお考えください。 世界に関しては疑問の余地が無いので説明する言葉を知りません。 あなたの目の前には否定不能であるがままの現実が横たわっています。 実は無意識というのは、あなた自身を間接的にしか認識できないし、現実に関しても間接的にしか認識できません。 だからこそこみ上げてくる疑問です。

kasaharasingo
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。  疑問を持つことそれ自体病的です・・・・・、あなたの目の前にはあるがままの現実が横たわっています。 >「ただ存在する」、そこに理由などない。あなたのおっしゃることは良くわかります。しかし、思うのですが、あなたの言う、それこそ生きてゆく上での妥協策のようにおもわれます。そういう掴みどころのないことにこだわっていたのでは生きていけないので、無感覚にならざるを得ない・・。  すみません。僕自身も良くわからないままに、質問しています。回答者さんのおっしゃることが正しいかも知れません。僕が持つ不安もある種の近代病でしょう。けど、それでも不安になることはありませんか。なにせ、わからないことだらけなのですから。 

kasaharasingo
質問者

補足

 何を訳のわからないこと言っているんだ、という方が多いかもしれません。  そういう意見でも結構です。皆さんがどのように思うのか少しでも知りたいのです。よろしくお願いします。

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