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『素直』とはなにか
お世話になります。 素直とは何でしょうか?という質問です。 逆説的に素直の対義的な言葉で「屈折」があります。 プリズムを通した光のように、思考のワン・クッション、ツー・クッション、人によっては30・クッションくらい、投げかけられた課題に対して、屈折した反応が返ってきます。 じゃあ、クッション無しで直接的、絶対的、直情的・・・等々の「個人性」を優位にした真直ぐな反応であれば素直なのか?というと、ただそれだけでは今度は従順性、協調性、順応性・・・等々の「社会性」を欠いてしまいます。 社会性を欠いた人間は、社会では「屈折している」と言われてしまいます。 「お前も、もうちょっと素直になれよ」と、お説教を喰らってしまいます。 素直なのに、屈折していると言われてしまうんです。 個人性と社会性の折り合いが難しいところです。 じゃあ、素直ってなんなのか?という疑問です。 宜しくお願いいたします。
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「素直」というのは、外部の情報をありのままに取り入れる通路が歪んでいない、 ということではないかと考えます。 「入」に関してのみ使用すべき概念と考えています。 「出」に関しては、Syo-yaさんの言葉を逆に使わせていただきますが、 「屈折した反応」を「意見」と呼び、 全く咀嚼されない反応を「従順」と呼びたいと思います。 (「屈折」は私にとって、プラスイメージです。) 「入」が「素直」であるかどうかは別問題です。 しかし、一般にこの{「出」の「従順さ」}=「素直」と都合良く(強引に) 判断されてしまう場合が殆どなのは、 自分の思う通りにならない人への揶揄の意味が強いのでしょう。 「従順でない」→「素直でない」というすり替えが成功した時点で、 「情報を正しく受け止められない」という「素直」の本来の意味を持ち出して、 いつの間にか相手が無能であるかのように、錯覚させてしまう効果があるからです。 もう少し言ってみれば「素直さ」は、 情報を、「判断するまな板」に歪めず「素のまま」乗せるだけの純粋さ、とでも言いましょうか。 清濁合わせ呑むわけですから、 度量が無ければ、恐ろしくて素直にはなれないかもしれません。 また、取り入れた情報を自分なりに判断できる自信がなければ、素直になるのは危険でしょう。 それゆえに「常識」や「偏見(歪んだ常識)」あるいは「頑固さ」「拒絶(無視)」が存在し、 自分に自信の無い人はそれを頼るのだと思います。 そういう人にとって、思考のクッションを多用して反応する人は、 非常に危険なゲームをやっているように見えるのではないでしょうか。 素直に取り入れたからこそ、思考のクッションが有効になるのであって、 初めからあちこち歪んだ状態でしか情報を受け入れられない人にとっては、 反応するのにクッションさせる余地が無くなっている、とも言えます。 「素直」は、あくまで「情報の受け入れ態勢」を現わす言葉であって、 一旦受け入れられた情報を自分なりに加工できれば「意見」という反応が返され、 情報を処理できなければ「従順」と呼ばれる反応が返されるのでしょう。 「従順」である必要が無いのは言わずもがな、です。 しかし、「意見」が、結果として「社会性」を持つように思考のクッションを微調整する事は、 無意味なことではないように思います。 ◎ 「屈折」の概念を逆の視点で捉えて述べてしまったので、余計支離滅裂な文になってしまいました。 ご寛恕の程を。 思考材料のほんの末席に加えていただければ幸いと考えます。
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- goosuka003
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「素直」って言葉の定義を問うているんですか? 自己に対して「素直」なのか周囲に対して「素直」なのかで傍から見る印象は正反対になってきますよね。 対象は何であれ「素直」という言葉のイメージそのものはいいはずです。「ものごとを真っ直ぐに見ることができる」というイメージだからです。真っ直ぐに受け止めて、真っ直ぐに吐き出すんです。相手のであれ自分のであれ余計な色をつけない。真っ直ぐ。すれば、なかなか難しいことですよね。真っ直ぐな透明な視線で貫き通すって。 もちろん、こういう姿勢だと周囲の欺瞞に鋭敏になるから社会的に生きづらくなるだろうけども、それは自分に対しても透徹した眼を向けるということじゃないんでしょうか? 確かに無批判従順さを「素直」という言葉で表現することも、よくありますけど、それはまあ確かに他者にとってつごうの良い「素直」さですよね。 しかし自分にとってつごうの良い「素直」さは、普通は「自己中心」「我がまま」「強情」という言葉を使いますよね。 どっちにしても真の「素直」に「つごうの良い」は含まれないはずだと思う。 自分に甘いということを「素直」の範疇に入れたんじゃ「素直」が泣くと思う。無批判従順もまた然り。 自分に無批判従順なのを「素直」って呼ぶのは抵抗あるなあ。 せいぜい「自分に正直」程度にしてもらいたい。これはこれで本当に「正直」なのかどうかが、また問題になってくるだろうけどね。
お礼
投稿ありがとうございます。 >>真っ直ぐ。すれば、なかなか難しいことですよね 仰るとおりですよね。 「無心」にならないと出来ない芸当でしょうね。 NO1さま、NO4さまにも私の考えを述べさせていただきましたので、お暇でしたら一読ください。 本当にありがとうございました。
補足
NO4さまではなく NO3さまでした。訂正します。
- kaitaradou
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素直というのは力関係で優位に達人の論理が相手の論理と矛盾していない場合、その相手のことを素直というのではないでしょうか。一見力関係がないようにに見えても社会的背景という強大な力に支えられていることが多いと思います。結局能率の問題なのではないですか。素直でないと能率が上がらないので嫌われるということではないですか。しかし素直でないと言われている人が権力を握れば今まで素直といわれていた人は素直でないと言われるようになると思います。
お礼
投稿ありがとうございます。 NO1さま、NO3さまにも私の考えを述べさせていただきましたので、お暇でしたら一読ください。 本当にありがとうございました。
- vagabond_0710
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>社会性を欠いた人間は、社会では「屈折している」と言われてしまいます。 >「お前も、もうちょっと素直になれよ」と、お説教を喰らってしまいます。 これは、社会に対しての場合です。つまり、ここで言う素直さとは、協調性や従 順性などを言います。Syo-yaさんが書かれているように、「社会性」のことです。 >素直なのに、屈折していると言われてしまうんです。 これは、自分に対して素直な状態です。ここで言う素直さとは、「個人性」です。 >個人性と社会性の折り合いが難しいところです。 難しいです。僕も本当にそう思います。例えば、人間として純粋に素直に生きて いるのに、労働しなければいけない現実。労働即ち社会参加ですね。仕事は大変 でも楽しいことだと思いますが、中には、まるで奴隷みたいなときもある。人間 として許せないときもある。そういう社会的な矛盾。そのとき折り合いがとても 難しいです。また、ニート問題。労働とは、社会のルールである紙幣をもらうか わりに、生産、サービスを提供する関係。つまり、何らかの形で、貨幣価値を生 み出さなければ「社会性」を疑われる。その貨幣価値を受け入れない人はボラン ティア活動をしていれば、それで生活できるのか?など。 僕が思うに、個人性とは、社会性との相互依存関係にあると思います。社会的な 存在だからこそ、個性的であり得る。つまり個の集合であるのが社会。それを個 性を潰して画一化しようとするのは、逆に、社会性を失うことになるんじゃない かなと思うんです。そこが社会共産主義の上手くいかないところなんじゃないか なと思います。お互い個性的であり、お互いが異なる価値を認め合うからこそ、 社会的でありえるわけであって、それを徹底的に、画一化するのは危険だと思い ます。どの産業にしても、A社とB社とC社…とそれぞれ異なるからこそ、サービ スが向上し、新しい製品は開発され、成長していくことができるんです。それが A社もB社もC社も同じ内容であれば、それはひとつでいい。しかしひとつになる と、組織的怠惰が始まる。 なので、僕が考える「素直」とは、自分自身に対してのことであり、社会的に言 えば、つまり個性的であることが、素直さだと思います。俗に言う自分らしさと いうか、ありのままの自分を受け入れ、その個性を押出して行けば、どこかでぶ つかります。ぶつかるからこそ、社会性なわけであって、それが何もぶつかるこ ともなければ、存在自体の価値すら疑いかねません。男と女はお互い異なるから こそ、惹き合うのだと思います。お互いが、異なる存在とぶつかり合い、その中 で相手の世界を知り、即ち自分を発見していく。恋愛に限らず、友人関係、人間 関係、つまり社会としても言えると思います。
お礼
ありがとうございます。 vagabond_0710さんの投稿はいつ見ても素直ですよね^^ 実直というか、とてもすんなり読めます。 NO1さまへのお礼欄に私の想うところも書かせていただきましたので、是非、ご覧ください。 私は(も?)大人と子供の素直をごちゃ混ぜにしていました。 支配者と奴隷、主体と客体・・・といった二律は、似て非なるものなんですね。 ここを履き違えるから、ごちゃ混ぜになるんだと想いました。 例えばvagabond_0710さんの意見にも「労働しなければいけない現実」「紙幣をもらうか わりに、生産、サービスを提供する」とありますが、私もそのような考えで来たんです。 でもジェームズ・アレン「原因と結果の法則」にしても、倒産はしましたがヤオハンの和田一夫さんにしても、だいたい共通しているのが「私心なき献身」という考え方なんです。 「金を貰うために働く」のではなく、世の為、人の為に働けば、自然の摂理(原因と結果の法則・因果説)により、その報酬、代価として金も儲かると。。。原因があるから結果があるんだという発想なんです。 つまりは「心」が原因であり、結果を生み出すんだという仏教的な発想なんです。 この発想に立つことこそが大人の素直なのかな?と想ったんです。 だって個人性を守るためには、社会貢献しないければいけません。 逆に、社会貢献するためには、個人としてもの暮らしも充実していないといけません。 個人性も社会性も両立させるのは、どうしても「世の為、人の為」という「私心なき献身」の発想、つまりは自然の摂理に従った発想、「心」なのではないかな?と想った次第です。 ・・・大人子供だった私が、こんなことを思いつくようになったのも上座部仏教とヴィパッサナー瞑想を勉強・実践したお陰なんです。お釈迦さまのお陰で成長しました。。。。(苦笑) 質問しといて意見を述べてすいませんでした。 今回は、ありがとうございました。
- denza
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「素直」とは 相手の都合よく「素直」なことです。 「屈折している」とは 相手の都合の悪い回答をした場合のことです。 どっちも相手の都合なんですよね。 人は無責任に好き勝手に批判や中傷をするものです。 ただ屈折に関しては、常軌を逸した本当に屈折した人もいますよね。 よくわからないけど、自分に素直にやったほうが良いと思いますよ。人の批判の類はあまり聞かずに。 あと、素直すぎて社会にもまれ、屈折してしまう場合もありますよね。とかくこの世は世知辛い。 もしご自分のことをおっしゃられているなら、 いつぞや、庄屋さまに回答していただいたコメントなどを見限り、なかなか出来た人だなぁと思いましたよ。
お礼
回答、ありがとうございます。(お褒めの言葉もありがとうございます^^;) 暫く自分でも考えてみましたが「大人の素直」と「子どもの素直」と二つあるのだなと想いました。 「子どもの素直」は、そのまんま聞き入れる、受け入れる、まさに従順性・・・です。 体調不良も、わざわざ自己主張して大人に受け入れてもらわないと改善できないというハンデキャップがありますから、必然的に個人性も尊ばれるのでしょう。 一般に「素直」というと、この「子どもの素直」=「受身の素直」「依存した素直」をイメージするのだなと気が付きました。 しかし大人になったからには、やはり社会性の重みが増しますし、自律した考えもできるようになってきますので、自他への批判性も必要ですし、主体性のある生き方が重要になってくると想いました。そうなると「大人の素直」とは、自立した主体性のある意見、対応が出来るということが「大人の素直」であるのかなと想いました。 ですから、そのようになるためには当然、精神的に大人になっていないと出来ません。 仏教でいう「自由」の状態に近い心が必要なのかと想いました。 逆説的に「体は大人でも、心は子ども」という人は、明かに主体性が欠けているので「なんでもかんでも人のせい、社会のせい・・」という発想に陥りやすいのかと想いました。幼児のように個人性を過剰に尊重するか、弱腰に社会に服従をするかのいずれかの選択になるのだろうと考えました。 ・・・質問しといて意見を言ってすいません。 ありがとうございました。
お礼
回答、ありがとうございます。 NO1さまへのお礼に私の考えも述べさせていただきましたので、是非、ご覧ください。 きっと回答者さまと同じような考えだと想います。 なんというか、頭の中にフローチャートを描けるようなお答えですね。 理工系の方でしょうか? とてもわかりやすかったです。 大変、参考になりました。 ありがとうございました。