欲求とは字のごとく「欲しいと求めるもの」であり、欲望とは「欲しいと望むもの」なり。何の違いがあるというのでしょうか?
現在社会においては、言葉は、違う環境に置かれている人達が、それぞれ便宜的に、かつ理論的に定義付けして使われることが多いので、衆目が一致する定義付けをすることは難しいのではないですか?
文学的表現に欠ける箇所が、随所にあるかも知れませんが、人間の慾というものについての、私の考え方は次の通りです。
人間の慾とは、食欲、睡眠欲、金慾、物欲、性欲、逃避欲、排泄欲、名誉欲、闘争欲、獲得欲、征服欲、顕示欲、保身欲など・・人間の欲求は数え上げたらキリがありません。
三大慾といえば、概して性欲・食欲・物欲が挙げられることが多いですが、果たしてそうだろうか?
限界に近い状態での優先順序として考えると、物凄くオシッコやウンチを我慢している時に、超美人がエッチしようと誘ってくれても、テーブルに豪華な料理が並べられても、お金をくれると言われても、それはそれなりにとても魅力的なことだが、やはり排泄慾が優先順位で上ではないだろうか?このようなブログも目にしました。
そうはいっても、排泄行為と他の欲求を、並列的に比べること自体に、些か違和感は残ります。
仏教では五感(目・耳・鼻・舌・身)が人間の慾を引き起こす原因と説いており、それを五慾と言っている。この説からいえば、排泄慾は仏教上の五慾に属さないでしょう。
『欲深き人の心と降る雪は積もるにつれて道を失う』という歌があります。
欲は迷いを生むから欲を捨てろと云う意味です。このときの慾とは何でしょう?
反面、「夢を持て!大志を抱け!」と良く言われます。
それでは、「慾」と「夢・願・志」の違いは一体何だろう?
欲にも「欲望・意欲・・・色々とある」これらをすべて捨てなきゃいけないのだろうか?
「夢と慾」は同義語で、夢を実現しようするのが慾だと言う人がいるが、そうだろうか?少なくとも、排泄慾は「夢」ではない。
「夢と願」が同じで、自分以外の人の運命に限りなく同期するものではないだろうか?
だから夢は大きい方が良いと言われているのであろう。
そうだとすれば、自分自身だけを満たすのが、実は「欲」じゃないのだろうか?
そして、夢を夢で終わらせないように実現するには、強い意志が必要で、恐らくそれが志というものではないだろうか?
こういう風に考えてきたとき、人間の慾というものを並列で見て、三大慾とか五大慾とか縛ることに無理があるのではないということに気付きました。
マズローっていうアメリカの心理学者が唱えた「欲求5段階説」、つまり人間の欲求は、1.生理的欲求、2.安全欲求、3.所属と愛情の欲求、4.尊厳と自尊の欲求、5.自己実現の欲求の5段階のピラミッドのようになっていて、1.から始まって、人間の欲求の行き着くところは自己実現になるという説がありますが、私はこれには大いに頷けます。
それでは、自己実現が「是か非か」という観点からみると、自己実現の慾というものが、便利な近代文明を生み出したことも見逃せない事実ですし、「慾とは、蓋しすべて捨てるものではなく、自己実現が社会貢献に至る限り、これ是なり」と解釈すべきなのでしょう!
上の歌でいう「慾」を考察する時、「いや言っていることと矛盾するのではないか」と頑なに反論する方もいらっしゃるでしょうが、本来言葉とは、意思伝達の手段として、同じ認識で使っているかどうかが重要なのであって、当時の人は、私のように屁理屈を並べることもなく、「慾とは自己実現が自己の利益だけに終わるもの」と共通認識していたと解釈しています。
言葉とはこういうものではないのでしょうか?